(5)
私がいつ、この木のうろへと――恐らく世界をまたいで――移動しても、タイグは絶対にすぐそばにいた。
それを不思議に思って問うてみれば、この辺りにはタイグが住んでいる村の住人があまり近寄らないので、逆にタイグはこの巨木の周辺で持て余した時間を消費しているらしい。
聞けばこの巨木には女の幽霊が出てくるという噂話があるとのことだ。なんでも、昔この木で首を吊った女がいて、怨念を携えて現れ、その姿を見た者は呪われるという。ゆえに、村人はこの木は避けるのだそうだ。
タイグも初めは私がその幽霊なのではないかと思ったそうだ。しかしあまりにも血色がよく、どう見ても生きている人間に見えたので、一方見たこともない人間だったから、妖精だの精霊だのといった発想に至ったのだそうだ。
私はタイグがこの森にひとりきりでいる理由については、あえて触れなかった。
私が物語で既に知っている通りの理由がタイグの口から語られるのが怖かったこともあるし、触れられたくないかもしれないという恐れもあって、話をそちらには向けなかった。
「その女のひとは、どうしてそうしようと思ったのかな」
「旦那さんに浮気されて、お腹の子供も流れちゃったからだって」
タイグからあっさりとした口調で返ってきた言い伝えに、私はちょっとぎょっとしなかったかと問われれば、した。
軽い口ぶりは、タイグ自身がまだ幼すぎて言葉の重さが理解しきれていないのかもしれないし、あるいは私の生きている世界とはなにを常識とするかや、倫理観が違うからなのかもしれない。
そして、そんな感情を刺激されたのは、「浮気」というワードが入っていたこともある。
その言葉を聞けば、どうしても思い出してしまう。――「にいさん」。あの女に浮気されて、裏切られて、傷つけられて、死ぬことを選んでしまった「にいさん」。
私の顔が強張ってしまったからなのか、タイグはハッとしたようにこちらを見た。
「女のひとに、する話じゃなかったかも……」
申し訳なさそうに言うタイグは、私が思っているよりも幼くはないのかもしれない。私も、ときどき話をしている相手が自分より年下の男の子だということを忘れそうになるくらいだ。
だからこのときも、タイグのせいではないと伝えようという気持ちが逸ったこともあり、つい口が滑った。
「あ、違う違う。私の『にいさん』の話を思い出して――」
「にいさん?」
「ああ、うん。……私の大切なひと。色々あって、今は会えないんだけど……」
口に出してみると、急につらさが大波になって押し寄せてくるような気持ちになった。
言葉が詰まって、うつむきがちになる。
うろに腰掛けて折り畳まれた私の両脚の、膝小僧をじっと見つめる。
「……『にいさん』もさ、浮気されて死のうとしたんだよね。私、そんな風にした『にいさん』の婚約者が許せなくて、色々とやったらさ、ちょっと頭を冷やせって、『にいさん』と会えなくなっちゃった」
「……そのおにいさんは」
「生きてる。でも目を覚まさないんだ」
私はそこまで震える声で話したあと、いったい自分はなにをやっているのだろうと我に返る。
明らかに、タイグくらいの年齢の子に話すには適切とは言い難い内容だ。
それに突然現れた年上の女に、こんな風に重い話をされては、タイグだって困ってしまうだろう。
「ごめん」
早口でタイグに謝罪する。
次いで、いつもの曖昧な笑みではない、作り笑顔を浮かべる。
けれども笑顔を作りなれていない私の表情筋は固く、きっと口の端はぶざまに引きつっていたことだろう。
――ああ、やだな。年上のくせして、格好のひとつもつけられない。
勝手に口を滑らせて、勝手に自己嫌悪にまみれる。その一連の流れすらもぶざまで、私は内心で落ち込み、自嘲した。
「笑わなくていいよ」
タイグがまっすぐに、私を見ていた。
タイグの金の瞳には戸惑いが浮かんでいたが、一方でどこか力強さが感じられ、それは背筋が凍るほどに美しく感じられた。
「おねえさんは、今もつらいんでしょう。だったら、笑わなくていいし、謝らなくていいよ」
まっすぐな金の瞳。
その力強さの芯にあるのは、間違いなく、タイグの優しさだった。
「……そのおにいさんのこと、おねえさんは愛しているんだね」
「うん。恋愛感情じゃないけど……『にいさん』は、私の大切な」
涙まじりの言葉が、ついには喉に詰まって、形にならなかった。
……やっぱり、タイグは「にいさん」にどこか似ていると思った。
孤独な「にいさん」。けれど、私には優しかった。他人に優しくする方法を知らない人間ではなかった。どこか他人を怖がっているところもあったけれど、肝心なときにはちゃんと手を差し伸べて、優しさを見せることのできるひとだった。
「……いいな」
涙を隠すためにうつむいた私の耳に、タイグのつぶやきがやけに大きく響いた。どこか、うらやましそうな色がにじんだ声だった。
タイグが――もし、物語の通りの足跡をたどるのであれば。
タイグは、愛を知らない自分にずっと悩み続けることになる。
愛を欲しながら愛されることはなく、愛を知らないから愛を与えることもできない。
それが、私の知る物語の中にいたタイグ。
けれど物語の中の彼も、今私の目の前にいるタイグも、愛は知らないかもしれないけれど、だれかに優しさを示すことのできる人間だった。
けれど物語の中の彼は、多くのひとを手に掛け、憎まれながら、それらの罪を清算するかのように、壮絶な最期を遂げる。
タイグが――もし、物語の通りの足跡をたどるのであれば、今の目の前にいる子供は、そのような最期を迎えることになる。
「おねえさん?」
私は震える指先で、タイグの手を握っていた。
私は愛を知っている。「にいさん」から教えてもらったから、知っている。だから、教えることだってできるだろう。
それはとても素晴らしい思いつきのようにも見えたし、孤独な子供に無責任に深入りする、身勝手な悪魔の所業のようにも思えた。
けれど、「にいさん」から私が渡された愛を、タイグにも与えられたら。
……「にいさん」の存在をタイグの中に刻める。
私の耳元で、悪魔が囁いた。




