(2)
悲鳴、悲嘆、諦観、追悼――。
私のSNSのタイムラインを流れて占めるのは、そんな言葉たち。
『推しが死んだ』
そのたったひとつの事実に、多くの者は悲鳴を上げ、悲嘆に暮れ、または諦めに近い感情を吐露し、厳かに追悼する……。
『推しが死んだ』
その言葉が私の胸にも沁みた。
いや、突き刺さった。
偶然出会った漫画の中に見つけた、「にいさん」に似た彼。そのキャラクターの行く末が気になって、漫画を追っていたけれど、私は彼のことを「推し」だと思ったことはなかった。
『推しが死んだ』
けれども私は、私が思っていた以上に、彼のことが好きだったらしい。
彼が私の「推し」なのかどうかまでは、彼が物語の中で「死」という圧倒的な終わりを迎えてなお、わからないけれど、私は彼のことが好きだったらしい。
『推しが死んだ』
彼は物語の中で、多くの者を手に掛けた。その行状を鑑みれば、その死は因果応報、自業自得のものとも言える。
彼を「推し」ていたファンの多くも、それを理解していたからこそ、彼の「死」自体には納得している者が多く見られた。
むしろ、罪を重ねた果てに、きちんとそれと――「死」という形ではあるにせよ――向き合って清算できたことを、どこかで安堵しているような言葉を綴るファンもいた。
『推しが死んだ』
たったひとこと、たった一文に収まってしまうその言葉と私は、これまで関係のない間柄だった。
私の胸に去来したのは、どこか空虚さを伴いながらも、たしかに痛みを感じる、そういう感傷だった。
彼はフィクションの登場人物で、現実に存在する人間ではない。「にいさん」とどこか共通点があって、気になっていただけで、今もって「推し」と断言できるような存在でもない……。
けれども私の心は、感情は、彼の結末をたしかに悼んでいた。
そういうこともあるのか、というおどろきもあった。
もっとも血の近い両親にすら愛着を抱けない自分は、冷血な異常者なのだとどこかで感じることもあった。
それをいっとき忘れられるのは、「にいさん」といるあいだだけ。
「にいさん」に血の通った感情を抱ける自分を確認して、「私は異常者ではないのだ」と安堵していた。
そういう点では、実在と非実在という壁はあるにせよ、「にいさん」と彼は、やはりどこか似通っていた。
――「推し」の誕生日をケーキとかで祝う話は聞いたことがあるけれど、「推し」が亡くなったときってどうするのがスタンダードなんだろう。……花を買って供えるとか?
私はそんな、両親が聞けば「くだらない」と切って捨てそうなことを考えながら、ベッドに入った。
寝室の暗闇を眺めていると、胸に穴が開いている感覚がより鮮明になるようだった。
無性に「にいさん」に会いたい気持ちになったが、私は「にいさん」と会うことを禁じられている。
たまに電話をしてくる両親に尋ねてもなしのつぶてで、私は今「にいさん」がどういう状況にあるのかまったくわからなかった。
――「にいさん」がもし、死んだら、私も。
そんな恐ろしい考えがまた浮かんできた。
市販の睡眠導入剤があまり効かなくなってからしばらく経つ。今日も就寝前に水で流し込んだが、なかなか効き目は出てこない。
何度も寝返りを打ちながら、まぶたをきつく閉じる。
まぶたの裏で、ちかちかとせわしなく星が瞬いている姿を見ながら、早く眠りに就きたいと願う。
眠れば――少しは落ち着いて、ましになる。
胸に穴が開いたような感覚も、ささくれのように傷ついた感情も……「にいさん」に会いたいという、どうしようもない衝動も。
まぶたの裏に、宇宙が広がっている。
黒々とした宇宙は、やがて奥のほうからやってきた白い光に飲み込まれて――。
……私はなぜか、巨大な木のうろの中で、体を丸めていた。
うろの外に広がる景色は土のこげ茶色、木の幹の黒っぽい茶色、青々とした若葉の緑色が大部分を占めている。
湿った土のにおいがして、葉と葉がこすれる音、鳥と虫のけたたましい声を聞き、今は亡き父方の祖父母の家に泊まった幼少期のことを思い出した。
頭に、腕に、体に、脚に、木の硬い感触が伝わってくる。
私は夜、ひとり暮らしをしているマンションの一室で眠ろうとしていたはずだったのに、うろの外に広がる空はどう見ても昼の青空だった。
指を動かし、腕を動かす。木のうろのふちに手を掛けて、体を起こす。勢い余って、うろの外に上半身が出た。
外には子供がいた。
小学校低学年くらいの年頃に見える男の子は、目を真ん丸くして、おどろきの眼差しで私を見ていた。
その瞳の色が金色であることを認めた私は、ここは夢の世界なのだと思った。
黄色とも呼べないし、黄土色とも呼べない――たしかにその瞳は、金と呼ぶに相応しい色をしていたから。
だから、私は自分のベッドで寝入って、こうして夢を見ているのだと思った。
私は男の子に向かって、誤魔化すように曖昧な笑みを浮かべた。
男の子の肌の色は明らかにコーカソイドのそれで、私とは違う赤白い色をしていた。
髪は黒だったが、この年頃にしてはずいぶんと艶がない。服も色褪せてあちこちよれていて、古着のようだった。
「こんにちは」
私自身がまだ子供だからそう思うのかもしれないが、私は幼い子供が好きではない。
けれども夢の中だと思っていたから、気負うことなく目の前の男の子に声を掛けられた。
声を掛けたあとで、これって「事案」ってやつじゃないかと考えたが、夢の中だと思うと、すぐにどうでもよくなった。
男の子はまあるくしていた金の目をゆるゆると緩め、今度は細くして、こちらを探るような目つきになる。
「……おねえさんだれ? 初めて見る……」
「私はテルノ。初めて見るのは、ここには初めて来た人間だから、当たり前だと思う」
学校ではひとことも発さずに下校することが多いというのに、このときの私はずいぶんと多弁だった。
「ふうん……」
男の子の声は「まるで興味がありません」とでも言いたげだったが、金の瞳は警戒心と――わずかな好奇心が隠せていなかった。
「変な名前」
「変かなあ? まあ今風の名前じゃないかもだけど」
「初めて聞いた」
「じゃあここらへんじゃ、どんな名前が普通なの?」
「ええ? ジョン、ジャック、メアリー、アン……とか?」
「外国の名前だ」
「おねえさん、外国から来たの?」
「ううん? そうかもしれない。でも言葉は普通に通じるんだよなあ」
周囲を見渡せば森の中だということはわかるが、山の中という感じではなく、地面はどこまでもほとんど平らだった。なんとなく、日本の風景ではないと感じたが、定かではない。
私には男の子の言葉は完全に日本語として聞こえていたが、夢の中だからだと言われれば、そうなのだろうと納得してしまえる。
「きみの名前は?」
「おれは……」
強い風が上空を流れて行く、ごうごうという音が聞こえると同時に、目の前の風景が、男の子が、白い光に溶けて行った。
つい先ほどまで眼前にあった光景が、白い光に飲み込まれるようにして消える前に、男の声の、切れ端のようなものが聞こえた。
「タイグ」
……物語の中で「死」という結末を迎えた彼と、同じ名前だった。




