(13)
ただ逃げ出したかった。突きつけてくるタイグと、自己嫌悪と後ろめたさから。
娼館の中のほうに逃げ込む選択肢もあったのに、私は従業員用の裏口から薄暗く狭い路地へと出た。
雪まじりの雨がまぶたや頬に当たる。
それを鬱陶しく思うと同時に、だれかの肩が顔に当たった。
「あっ、すいませ――」
反射的に謝ろうとしたが、最後まで言葉にならなかった。
冷たいような熱いような、鮮烈な痛みが左胸に走る。
釣られるように視線を自分の胸へと向ければ、そこには小ぶりのナイフが突き刺さっていた。
「あ」
吐息のような声が漏れ出る。
わけがわからないうちに、ナイフの刃が私の体から抜ける。
いや、抜いたんだ。目の前にいる男が。
男は紛れもなく、私を人質に取って、タイグたちに捕縛された凶状持ちだった。
男の、正気とは思えない血走った目が私を見下ろしている。
私は左胸に手をやり、いつの間に膝を折って、路地裏の汚い地面に座り込んでいた。
痛い、と思った。
肉体が訴えてくる容赦のない痛みが、手足から力を奪う。声を出そうにも、蚊の鳴くようなかすれた声しか出ない。
今度は右肩にナイフの刃が刺さった。
――ああ、こんな死に方をするのか。
それはちょっと嫌だなと思った。
同時に、自分で死に方を決められるのは、ひどく幸福なことなのかもしれないと思った。
「お姉さん!!!」
タイグの声が、くぐもって聞こえたような気がした。木製のドアの向こう側にいるみたいだった。
タイグは雪まじりの雨に濡れた、汚い地面に横たわる私のそばに駆け寄って、私の傷を確認しているようだ。
「死なないで!!!」
タイグの声は、泣き叫んでいるように聞こえた。
私が熱を失い始めた唇を動かすと、タイグはそれを聞き取ろうと、必死に耳を近づける。
「ごめん」
「ごめんね」
「殺して」
「タイグに殺して欲しい」
途切れ途切れの、私の最期の願い。
タイグがどんな顔をしていたのか、私はもう見えなかった。
でも、よくわからない犯罪者に殺されるよりも、タイグに殺されるほうがずっといいなと思った。
「にいさん」になんとなく似ているタイグだからじゃなくて、あの物語の中で心動かされた彼だからじゃなくて。
タイグに、殺されたいと思った。
「どうしてそんなこと言うの」
「お姉さん」
「お姉さん」
「耐えられない」
「こんなの……」
タイグはそばにいるはずなのに、なんだかその声が遠く聞こえる。
それで、私のどうしようもない生が終わるのだとわかった。
ただ、さいごの言葉だけはなぜかハッキリと聞き取れた。
「お姉さんの願いを叶えるんだから、次は俺の願いも叶えてね」
……私が前世の記憶というものを思い出したのは、スマートフォンで漫画を読んでいるときだった。
熱を出したとか、頭を打っただとか。あるいは前世に因縁のある相手との再会で思い出したとか――そんなドラマチックなきっかけではなく。
漫画を読んでいて、そういえばこんな漫画があったはずだと思い出して、次にそれが前世の記憶だったと気づいたのだ。
混乱した。
前世と同様にスマートフォンという文明の利器が普及しているので、異世界から地球に戻って来たのかと思いきや、国名や地名なんかには私が迷い込んだ異世界の名残が残っている。つまりここは現代日本みたいに発展した、現代異世界といったところだろう。
スマートフォンがあるということは、インターネットもあって、SNSも発達している。
私は興味本位でSNSに前世で関係のあった人間と相似したアカウントがないか、調べ始めた。
結果は芳しくなく、この異世界でも前世がどうのとか言う人間は頭がおかしいという扱いであることがわかった。
私は異世界転移――一応、転生の可能性もあったが――して、そのままその世界でさらに転生したということになるのだろう。
前世で、一度死ねばまともな人間になれるかもしれないという希望を抱いていたが、どうやらそれは無駄な期待だったらしい。
相変わらず私は家族に愛着を持てていなかったし、家族も私のことなんてどうでもいいと思っているのがありありとわかる。
――「にいさん」も、生まれ変わっていたりしないのかな。
他愛のない日常の、どうでもいい感想や、愚痴めいた投稿をSNSに放り投げる。ときおりすぐさま個人が特定出来ないていどの、ささやかな情報を織り交ぜて。
それが良かったのか、悪かったのか。
あるときDMが送られてきた。
『もしかしてテルノ?』
私の名前、それも前世の名前を当てられて、心臓が跳ねた。
今の私は「テルノ」という名前ではない。SNSのアカウント名だってそうだ。
だというのに、このDMの送り主は的確に私の前世での名前を書き記している――。
『もしかして、にいさん?』
浮き足立つような、浮つくような、そんな気持ちのままに急いで返信する。
DMの送り主とのやり取りの中で、私は画面の向こうにいるのが「にいさん」だと疑わなかった。
私と「にいさん」の、具体的なエピソードの数々が、他でもない向こう側から出てきたのだ。私は警戒して、最初は当たり障りのない返事しかしていなかったにもかかわらず。
『テルノに会いたい』
私は、一も二もなく承諾の返事を送っていた。




