008 王都の夜
無事副業収入も得て冒険者としての初日を終えたフェイは、疲れて重い足を感じながら宿屋を目指した。
冒険者組合からは、徒歩二十分くらいのところだろうか。大通りから少し入った小道の先に、目的の宿屋『風車』はあった。名前の通り、宿の前には色も形も様々な風車がたくさん並んでいる。
しっかりした木の扉を押し開けると、「いらっしゃい!」とよく通る声で呼びかけられ、フェイはびくっと肩を少しすくめた。
「泊まりかい? それとも食事?」
恰幅の良い中年の主人に問われ、フェイは「宿泊、です」と答える。
「了解。ほら、入った入った」
薪を籠へ豪快に放り込み、主人はフェイを手招きした。
「うちは全部屋鍵付きの部屋になってる。一人部屋から四人部屋まであるが、連れはいるかい?」
「いえ」
「じゃあ個室だな。水汲みなし、一泊につき銀貨一枚と大銅貨六枚、料金は前払いだ。何泊するか教えてくれ」
手持ちの金額的に一月以上泊まることも可能だが、いつ移動することになるかもわからないし、手持ちをあまり減らしたくない。それに、部屋がどんな感じか実際に見てから延泊については検討する方が安心だろう。
「……とりあえず、三泊で」
「三泊だな、わかった。料金は前払い。一泊1,600リクスだから、三泊で4,800リクスだ。銀貨四枚と大銅貨八枚……それか、銀貨五枚はあるか?」
「はい」
ちょうど払える分があるので、お釣りなしの金額を渡す。
精算を終えると、主人は鍵を保管している箱を開け、「部屋は……ここにしよう」と、中から鍵を一つ取り出した。
「じゃあ、宿の中を案内する。まず……一階の奥は食堂だ。朝昼晩やってる。食堂は誰でも入れるが、泊まりの客は割引があるぞ」
食堂はなかなか人気があるようで、賑やかな声が聞こえてきた。
「井戸は裏だ。一泊につき桶五杯まで使っていい。大量に水が必要な時には相談してくれ」
宿泊客しか使えないようにか、井戸は裏手の奥まったところにあった。使う予定はないのだが、頷いておく。
「便所はそこで、二階と三階が客室。お嬢さんに貸すのは二階の奥に近い部屋だ」
少し軋む階段を上がっていく。奥から二番目の部屋の前で、主人は「ここだよ」と足を止めた。
部屋の鍵を開け、主人に促されてフェイから先に入る。
こぶりな円卓と椅子が一脚、そしてベッドが一台。床には大きめのたらいと水桶が置かれているが、どちらも空だ。道中の宿もそうだったが、水汲みは重労働なので、安めの宿では基本的に宿泊客が自分で水を汲むものらしい。
「使い終わったあとの水は、突き当りに水捨て場があるからそこへ流してくれ。延泊したい時は、朝のうちに言ってくれりゃあ基本は大丈夫だ。予約で満室の時には断ることになるかもしれないが、そん時は勘弁してくれ」
「はい」
「説明はだいたいこんなもんかな。……ああ、窓は開け方に少しコツがいるから、やってみせる」
少し建て付けが悪くなっているようで、斜め上に押し上げるようにしないと開かないらしい。主人の手本のあとにフェイもやってみると、確かにちょっとコツが必要だったが、二度目でなんとか開けることができた。
「うん、大丈夫そうだな。何か困ったことがあれば、受付んとこの呼び鈴を鳴らしてくれ。いる時なら対応できる」
「わかりました」
主人が退出し一人になると、フェイは荷物を下ろして、凝ってしまった肩を軽く回した。それから、改めて室内を確認してみる。
全体的に綺麗に掃除されていて、建具や床、壁もしっかりしている。これなら、物音をあまり気にしなくて済むだろう。
ベッドは藁布団ではなく、魔羊か何かの毛を詰めてあるらしい。それなりの柔らかさがあり、寝心地が良さそうだ。
全体的に必要十二分で、落ち着いて休めるいい宿という印象を受ける。おすすめしてくれた組合職員に感謝しなくては。
今日は早朝からの徒歩と馬車で移動してようやく王都に到着し、到着早々冒険者登録をして初仕事をして——と、なかなか忙しく大変な一日だった。長距離異動と森での採集で身体は埃っぽいし、足もくたくた。今日は早めに寝てしまおうと思い、フェイはよいしょと立ち上がった。
先ほど教わった通りの手順で窓を開けると、雨が近いのか、少し湿り気を帯びた空気が頬を撫でる。そして、優しい風とともに、水の精霊が部屋に飛び込んできた。
「ねぇ」
声をかけると、精霊ははしゃぐようにフェイのまわりを飛び回る。
「あの水桶に水を溜めてくれないかな」
《いいよ!》
宙を一回転した精霊は、桶の方へと飛んでいった。またたく間に桶が水で満たされ始めるので、フェイは「ありがとう、いい感じ。溢れさせないでね」と、お礼を言いつつ念も押す。
精霊は大概がいたずら好きだ。
雨が近づき、明らかにるんるんしている今、下手すると大量の水で室内を満たされる可能性すらある。
途中で何度かたらいに水を移し、たらいも桶も一杯になったところで、フェイは「ありがとう。もう大丈夫だよ」と言い、精霊にお礼の乾果を渡した。
《やったぁ!》
窓辺にちょこんと座った精霊は、小さな口で乾果をもぐもぐと食べ、甘味を噛みしめるように頬を緩ませる。お礼は気に入ってもらえたようだ。
魔法で水を程よく温めたあと、服を脱いでまずは髪を洗い、その後手ぬぐいを湿らせて身体を拭いていく。やはり長旅と森での採集でかなり汚れていたようで、手ぬぐいは薄っすらと茶色に染まってしまった。汚れが付かなくなるまで、何度も繰り返し拭き上げていく。
全身をさっぱり綺麗にし終えて着替えていると、今度は風の妖精が近づいてきてフェイの肩に座った。よく晴れた春の風のような空気が、フェイの淡い金髪をふわりふわりと優しく揺らす。どうやら、乾かすのを手伝ってくれるようだ。
「ありがとう。助かるよ」
《ふふ、どういたしまして》
精霊たちにとって、精霊が見える人間というのはかなり稀有なようだ。
森の家でも——そして、生家で暮らしていた時も。精霊たちはフェイのことを知ると興味津々で集まってきて、何かと世話を焼いてくれたり、構って構ってと寄ってきたりする。
そういうわけで、フェイにとって精霊がいる暮らしは当たり前のものだ。
「ねぇ、みんな」
髪が乾いたあと、フェイは汚れた服を洗いながら精霊に問いかける。
「このあたりで、エルフを見なかった? キーランっていう人なんだけど……旅の途中で、王都に立ち寄ってるんじゃないかと思うんだ。誰か何か知ってたら教えてほしい」
精霊たちは顔を見合わせたあと、揃って首を横に振った。
「そっか……知らないか」
キーランがいなくなっていた朝、森の家周辺にいる馴染みの精霊たちや、シェルネの大樹に宿る精霊にも聞いたけれど、皆首を横に振るばかりだった。
優れた隠密の魔法を使っていれば、精霊たちにも知覚できなくなる。人目を避けるためか、魔獣との戦いを避けるためかはわからないけれど、キーランは魔法で身を潜めながら移動している可能性が高そうだ。
それでも、手紙を誰かに託しているからには、一度は必ず隠密を解いている。
王都か、周辺一帯のどこかに手がかりが残っているはずだ。
「今頃どうしてるんだろうな、師匠」
洗濯を終え、ぎゅうっと絞ってから物干し竿にかけておく。早速風の精霊が洗濯物を揺らして遊んでいるので、数時間もあれば乾くことだろう。
「あ……雨だ」
《雨だぁー!》
すっかり暗くなった空から、ポツ、ポツ、と雨粒が落ちてくる。やがて雨は点から無数の線になり、サァーッという静かな音とともに大地を濡らし始めた。
水の精霊がはしゃぐ声を聞きながら、フェイは窓そっと窓を閉める。
……雨は少し苦手だ。
植物にとっては恵みとなることが多いし、昔ほど怖くはないけれど、それでも——人生最悪の夜を思い出してしまって、気持ちが沈んでしまう。
フェイは雨音になるべく意識を向けないようにしてベッドに入り、布団を頭までかぶった。




