4章ー4
ボイラー室では桐生が悪戦苦闘していた。その手は既にボロボロに裂け、血が滲んでいた。だが、メインバルブはわずかしか動いていない。
それでもなお愚直にスパナを構え直したその時、背後から声が飛んだ。
「そんな乱暴なやり方しなくても、こんなモノ簡単に回せる!」
「川上さん……!? なぜここに……」
「今更取り繕う気はない。私は最低な人間だ。それでも、確かな生きる理由を見つけたんだ……! ほら、 さっさと手を貸せッ!」
川上は転がっていた鉄パイプを拾い上げると、桐生の手のひらに固定されたスパナの柄へとクロスさせた。
「私がこのパイプで押し込む……! 桐生君はそのまま踏ん張れ!」
「っ、分かった……!」
桐生は手袋の紐が食い込んだ掌が軋む痛みに耐え、川上と共に即席のテコへと全体重を預けた。
「せーーーのっ……!!」
二人の絶叫がボイラー室に木霊する。すり減った筋肉が悲鳴を上げ、縛り付けられた皮膚に激痛が走る。
――ガキィィンッ!!
凄まじい摩擦音とともに、巨大な高圧バルブがついに回り始めた。
だが——暖房は点かない。
「くそっ! 予備系が死んでやがる。強力な衝撃を与えて目を覚まさせる必要があるが……工具がない!」
川上のその一言が、二人を底知れぬ絶望へと突き落とした。
バァンッ!!
突如、乾いた爆音が響き渡った。飛来した何かは猛烈な火花を散らせた。
その衝撃で、インジケーターが点灯を始める。
「佐伯さん……!」
「無駄口を叩いている時間はない。これを理解しているエンジニアはお前だけだ、桐生。このあとはどうする?」
桐生は辺りを見回す。メインバルブは駆動した。インジケーターも点灯している。動力は確保されているのに、なぜ動かないんだ?
頭の中で目まぐるしく思考を巡らせる。復旧手順はアルファベットと数字の組み合わせであり、いくつもの複雑なパターンによって異なる。
とりわけ緊急時の分岐は複雑を極め、今の曖昧な記憶では心もとなかった。
その時、ふと頭をかすめた違和感に、桐生は思わず声を張り上げた。
「――親父さんはどこだ!?」
川上も佐伯もハッとする。元々この復旧はミナの父親である工事長が向かったはずだった。だがここで見かけていない。
佐伯がなるほどと頷いた。
「この場にいないとなると、あそこしかなかろう」
三人が辿り着いたメイン制御室には、ミナの父親である工事長が倒れていた。
意識はないが、目の前の基盤には複雑な手動切り替え作業が、記憶だけを頼りに途中まで組み上げられていた。
「親父さん……! 一人でここまで……」
「息はある。だが長くないぞ」
佐伯と川上が工事長を起こそうと手を伸ばす。しかし次の瞬間、ガタンと重い音を響かせて、今度は川上が膝から崩れ落ちた。
「気に……するな……。早く、復旧を……」
「桐生、最後の復旧はお前に任せる。私は二人の生存確率を少しでも高める」
残された時間などもはやない。それでも桐生は制御パネルへと向き合った。
しかし、本来自動で行われるはずの切り替えを、手動で行わなければならない現実を前にして、桐生の手がぴたりと止まる。
焦りで思考が真っ白になりかける桐生に、佐伯が呟いた。
「……前任者が言っていた。最終緊急予備起動には当て字で起動シーケンスを組み込んだと。『くだらんな』と鼻で笑って承認した記憶があるが……」
「当て字……?」
手順は複数の項目の掛け算であり、それぞれにアルファベットと数字が割り振られている。ならば、手順そのものを当て字に見立てて構築することは可能だ。
複雑極まるこのシステムにおいて、覚えやすくするための工夫だとしたら理にかなっている。
桐生は思い当たる当て字の文字列を試していく。だが、返ってくるのは冷酷なエラー音ばかりだった。
(駄目だ、当てずっぽうじゃ時間が足りない……!)
桐生は思考を切り替える。コードから当て字を逆算するのだ。
――『H3』。おそらく、この手順は確定だ。つまり『HE』。この前後に数文字のパーツがあると考えていい。
英語の主語か、あるいは単語か。見方を変えれば、ローマ字の『へ』とも読める。
数字として扱えるアルファベットは限られている。そこから逆算して単語を絞り込むんだ。
極限状態の中で、頭がまともに働くのもこれが最後かもしれない。ここを逃せば、二度と冷静な判断などできなくなる。
桐生は血の気が引く頭で導き出した単語の数々を、次々に打ち込んでいく。しかし、いずれも正解にはたどり着かない。
ふと、ある文字列が脳裏をよぎり、桐生の手がぴたりと止まった。
『H3』と『R0』。繋げれば「HERO」になる。あまりにも出来過ぎた、皮肉な答え。
わずかな手応えと希望を抱き、桐生はその手順を試す。
だが、結果は変わらなかった。そもそも、システムを構成する手順としても短すぎる。
「HEROに、何かを付け足すっていうのか……?」
行き詰まり苦悶する桐生の背中に、佐伯の低い声が投げかけられた。
「二人をいつまでもこんなところに置いておくわけにはいかん。唯一冷気の弱い、ミナのいる部屋へ連れて行くぞ」
佐伯は意識を失った二人の体を背負い、命懸けの搬出を始めていた。
一人残された桐生は、焦燥に駆られて頭を掻きむしった。
(こんな極寒の地下で、這いずり回る俺たちが、『ヒーロー』なもんか……っ!)
脳内でアルファベットと数字のピースが激しく交差していく。
佐伯が見せたという苦笑。そして、手順の中にやたらと挟まれていた特殊項番――例外処理を指す「0」という数字の違和感。
それらを結びつけた瞬間、残酷なまでの真実が浮かび上がった。
「……N0、T4、H3、R0……!」
――『NOT A HERO』。
最後の手順を入力した瞬間、コンソールに仄暗いランプが灯った。その微かな光に、桐生の表情がわずかに緩む。
――ブォォォォォォンッ!!
施設全体を揺るがす重低音が轟き、メインボイラーが遂に息を吹き返した。
「直った……直ったぞ……!」
桐生は這うようにして、皆が待つ部屋へと引き返した。
その途中、二人を運び終えて力尽きたのか、佐伯が倒れ伏しているのを発見する。
「佐伯さん……! しっかりしろ! 誰一人……死なせねえって決めたんだよッ!」
佐伯を肩に担ぎ、ようやくの思いでたどり着いた部屋には、工事長、川上、そしてミナがぐったりと倒れ込んでいた。
もつれる足取りのまま、桐生もまたその場に崩れ落ちる。
直後、配管から解き放たれた猛烈な熱風が一気に部屋を満たしていった。激痛を伴っていた冷気が消え去り、強烈な暖かさが凍てついた空間を支配する。
——だが、それは必ずしも救いではなかった。
急激な室温の上昇に、麻痺していた血管が一気に拡張する。冷えきった末端の血液が一気に逆流し、体温をさらに引きずり下ろしていく。
そこへ「助かった」という安堵によるアドレナリンの反動が、トドメを刺した。
凍てついた肉体にとって、それは致死性の麻酔そのものだった。抗いがたい眠気が容赦なく意識を塗りつぶしていく。
(だめだ……! ここで目を閉じれば……二度と覚められない……!)
視界が斑点状に暗くなり、脈拍が急速に弱まっていく。同時に、全身の筋肉から力が抜け落ちていった。
桐生はかろうじて動く指先で、ポケットを探った。触れたのは、銀紙に包まれたかじりかけのチョコレート。
「こんなところで……終われるかよ……ッ!!」
桐生は床を這いずり、倒れている仲間たちへと身を滑らせた。
そしてチョコレートを、全員の口へと無理やり放り込んでいく。
「目を覚ませ……! こんなところで死んでたまるかぁぁぁっ!!」
剥き出しのエゴと執念を絞り出すように、枯れた声を張り上げた。
だが、その努力に呼応したのは——全くの第三者だった。
ゴオォォォォォンッ……!!
頭上の岩盤から、凄まじい衝撃波と破壊音が響き渡る。天井が激しく揺れ、突如として眩い光が地底の暗闇を切り裂いた。
『——こちら緊急救助隊! 目標区画に到達! 生存者、応答せよ!』
桐生は、ただその光景を見上げるしかなかった。
最短でも数時間はかかるはずだった救助が、不眠不休の掘削と佐伯の残したデータによって、まさに今この瞬間に到達したのだ。
つまり、命懸けで稼働させたボイラーは、最初から必要なかったのかもしれない。
——いや、違う。あの時あの場所で暖房を復活させなければ、凍えきった仲間たちは、救助が届くまでの数分すら持ちこたえられなかっただろう。
それにしても、あまりにも出来過ぎたタイミングに、桐生は乾いた笑いを漏らすしかなかった。
「……ハハ」
掠れた声が、喉からこぼれる。
「ハハハ……なんだよそれ……なんだよそれぇ……!」
桐生は頭上の岩盤から差し込む光を見上げながら、腹を抱えて笑い出した。
だが、その胸にあったのは、虚しい敗北感などではない。
もし、あのまま脱出ポッドに乗って一人で逃げていたら——自分は一生、この胸の痛みを抱えたまま、人間の皮を被った怪物として生きていくことになっていたはずだ。
「……バカバカしいな」
少し離れた場所で、意識を取り戻した佐伯が可笑しそうに口元を緩め、細めた目をこちらに向けた。
「ああ……本当に、最高の無駄骨だったよ」
頭上から降り注ぐ救助隊員たちの怒号と歓声の中で、桐生の意識は深い闇へとぷつりと途切れた。




