3章
配管から漏れる白い冷気が足元を重く這っていた。呼吸のたびに、肺が刺すように痛む。
ポッド室へ続く狭い通路。佐伯が胸ポケットから起動キーを取り出した。
「認証コードの入力を済ませろ。——だが、乗るのは私だ。ここまでの礼として、救助隊にはお前の状況を正確に伝えておこう」
「……なっ」
桐生の喉が凍りついた。佐伯の手には、いつの間にか小型拳銃が握られていた。
銃口が、静かに桐生の眉間を捉える。
「……なるほど。崩落の直後に周囲を確認しに行ったのは、これを見越してのことですか」
桐生の脳内で、生存への本能がフル回転を始めた。
「……わかりましたよ。そんなつまらない死に方だけは御免です」
桐生が制御盤へ向かおうと諦めたフリをした、その瞬間だった。
「待てぇぇぇっ! 置いて行くなぁぁっ!!」
背後の暗闇から、川上が躍り出てきた。血走った目で唾液を撒き散らし、狂乱の咆哮とともに佐伯へ飛びかかる。
「俺を乗せろ! 死にたくない、死にたくないんだよぉっ!」
「チッ……失せろ、老いぼれが!」
不意を突かれた佐伯の体勢が大きく崩れ、銃口が桐生から逸れた。
川上は必死に佐伯にしがみつき、キーを握る腕に狂ったように食らいつく。
桐生は迷わず踏み出した。そして隠し持っていたドライバーで配線盤へ一気に突き立てる。
バチバチバチッ——カァァンッ!!
猛烈な火花と爆音が通路に弾けた。一瞬の強烈な目くらましと混乱に乗じ、桐生は佐伯の手から、起動キーを引ったくった。
「なっ……桐生、貴様ッ!?」
「死んでたまるかぁぁぁぁっ!」
驚愕する佐伯を、桐生は渾身の力で蹴り飛ばした。
バランスを崩した佐伯が川上を巻き込んで転倒した隙を見逃さず、桐生はポッド室へと駆け出した。
扉を閉め、重いロックバーを落とす。
中央に、脱出ポッドが据えられていた。暖かなオレンジのインジケーターが灯り、側面には『アルゴ119』の文字がある。
桐生は膝をつき、荒い息のままキーを握りしめた。
「はは……勝った……勝ったぞ……。俺の勝ちだ……!」
自分でも聞き覚えのない、狂気を含んだ笑いが漏れた。
「俺が生き残るんだ……。佐伯でも、あの老いぼれでもない。悪く思うなよ、これが現実だ……!」
ペタ……ペタ……。
閉ざしたはずのハッチの向こう、暗闇からかすかな足音が近づいてくる。
桐生の全身の毛が逆立った。
「来るな……! 追ってきても無駄だ! 一人乗りなんだよ! 来たら叩きのめすぞ!」
絶叫する桐生の前に姿を現したのは、佐伯でも狂乱した川上でもなかった。
大人用の防寒上着を引きずり、胸にぬいぐるみを抱いた、小さな少女。
ミナだった。
「っ!? なぜ、どうやってここまで……」
あり得ない光景に動揺する頭で、桐生は壁の隅にある小さな排気ダクトを思い出した。子供の体なら、あの狭い隙間を通って抜け出せてしまう。
「連れて行けないんだよ……! 一人しか乗れないんだ! 下に戻っておとなしく死ね!」
桐生の怒声は、恐怖と恥辱の裏返しだった。だが、ミナは怯えなかった。泣き出しもしなかった。
冷気で傷んだ足で、桐生の方へまっすぐに歩み寄ってくる。
「近寄るんじゃねえッ!」
桐生の手が激しく震えた。ミナは、桐生の目の前で足を止めた。霜の張りついたその顔から、ひゅっと掠れた呼吸音が漏れる。
ミナはポケットに小さな手を差し入れた。桐生は思わず構える。
しかし取り出されたのは——チョコレートだった。銀紙が破れ、少し欠けている。
「これ……」
ミナは両手で大切そうにそれを抱え、桐生の前に差し出した。変色した小さな指先が震えている。
「お母さんがね……ここに来るときにくれたの」
ミナは澄んだ瞳で桐生を見上げ、ぽつりと言った。
「半分食べたけど……帰りの楽しみに、残しておいたの」
「……は? 何言って……何なんだよ、それ……」
桐生は混乱した。意味が分からなかった。
なぜ、この状況でチョコレートなのか。なぜ、そんなものを自分に差し出すのか。
ミナは、小さく笑った。
「でもね、お兄ちゃん寒そうだから……。これ食べて、元気で帰ってね」
「——!? …………なんでだよ。なんで、俺を責めないんだよッ……!」
ミナは、小さな腕でぬいぐるみをしっかりと抱きしめ直した。
「だって、お兄ちゃん……上着くれたもん。……さっきは、ちゃんと言えなかったから。ありがとう……って」
桐生の手から力が抜けた。握りしめていたはずの起動キーが、指の間で重さを失っていく。
「……な……んで……」
言葉が出なかった。喉が引きつり、呼吸が止まる。
このままでは自分も危ないことくらい、幼いミナにも分かっていたのかもしれない。
理解した上で、桐生を恨むことも、責めることも、罵ることもせず、無事を祈って宝物であるチョコレートを差し出したのだ。
「なんでだよ……! なんで怒らないんだよ!? 俺はお前を見捨てたんだぞ!? 礼を言われる謂れなんて、ないんだよ……!」
喉の奥が熱くなった。視界が滲み、ぼやける。
これまで損得で動いてきた。だが、その計算ずくの自分が急に馬鹿みたいに思えた。
地上に戻って、温かい部屋でメシを食って——それで、俺はこのチョコを忘れられるのか。
見捨てた男のために、宝物を託してくれた少女。その献身に、自分がたまらなく醜く見える。
「あ……ぁ……っ」
大粒の涙が、氷点下の床へとこぼれ落ちた。
「ダサすぎるだろ……俺……っ!!」
桐生は激しく頭を振り、顔をぐしゃぐしゃに濡らしながら叫んだ。
「こんなガキを見捨てて、自分だけ助かるなんて……そんな生き方、ダサすぎて死んでもできねえッッッ!!」
桐生蓮という人間を縛り続けてきた「自己保身」の鎖が、音を立ててちぎれ飛んだ。
桐生は握りしめていた起動キーを、床に向かって全力で投げつけた。そして荒い息を吐きながら、自嘲するように、しかしどこかすっきりと笑ってみせる。
「脱出ポッド? 一人だけ助かる? ふざけろ。うんざりだ。俺は——俺が助けたい奴を助ける!!」
「お兄ちゃん……?」
驚くミナの前で、桐生は自分の頬を軽く叩き、涙を拭って笑った。
「ミナ。……俺はヒーローなんかじゃない。最低のロクデナシだ」
桐生はミナの前に跪き、彼女の小さな肩を強く抱きしめた。
「だがな……こんなダサい生き方は、絶対にしない!!」
胸の奥にあるのは、ただ一つの強い決意だけだった。




