2章
桐生と佐伯は、凍てつく通路を抜けてポッド室へとたどり着いた。
脱出ポッドを起動させたものの、発進可能状態になるまでには、加圧と暖気運転で数十分のラグが生じることが判明した。
「……戻るぞ。ここで待っていても凍えるだけだ」
佐伯は時計に目を落とし、無感情に告げる。
「工事長が奇跡的に暖房を繋ぎ直すか、息絶えるかを見極める時間としてはちょうどいい」
桐生は佐伯のあとに続いて、来た道を引き返す。
見捨てたはずの二人のもとへ戻るのは、生きた心地がしなかったが、ポッド室は先ほどよりもさらに冷え込んでいた。このまま留まるのは、自殺行為に等しい。
桐生と佐伯が戻ると、壁際にへたり込んでいた川上が勢いよく顔を上げた。血走った目で二人を見つめ、這い寄ってくる。
「き、桐生君……! 佐伯さん……! 脱出ポッドは!? 乗せてくれるのか、助けてくれるんだろう!?」
だが佐伯は一瞥すら与えず、桐生は視線を泳がせた。その沈黙が、川上にすべてを悟らせた。
「う、嘘だろ、本当に俺を見捨てる気か……!?」
川上は逃げるように部屋の隅へと下がり、床に転がっていた防寒毛布を片っ端からかき集め始めた。
「あぁ、寒い……寒いんだよぉ……っ!」
何重にも重苦しく毛布を巻きつけ、ガチガチと歯を鳴らしながら、なおも貪るように防寒具を求め続ける。
やがて、かき集め尽くした川上の視線が、部屋の隅で膝掛け一枚にくるまるミナへ向いた。
「……それも、寄越せ」
川上は這うようにして手を伸ばし、ミナの肩から膝掛けを無理やり引き剥がそうとした。
「やめろ!」
考えるより先に、桐生は間に入り川上の腕を力任せに振り払った。
よろけた川上は尻餅をつき、血走った目で桐生を睨みつけながら、獣のような呼吸を繰り返した。
だが——ミナは怯えるでもなく、静かにその場に立ち上がった。
そして、自分の膝掛けを小さな両手で抱え直すと、川上に向かってそっと差し出した。
「……おじさん、寒いの? これ、使っていいよ」
寒さに震えるその声には、奪われそうになった恐怖も怒りもなく、ただ純粋な気遣いだけがあった。
川上の手がピタリと止まった。
あまりに無垢な善意で己の醜悪さを突きつけられた男は、息を詰まらせ悲鳴をあげて引き下がった。
桐生は忌々しそうに舌打ちをし、ミナの前にしゃがみこんだ。
「……おい、大丈夫か」
ミナは無言で頷いた。しかしその唇はすっかり変色し、体も小刻みに震えていた。
それでも取り乱すことなく、桐生を見つめている。
(……何やってんだ、俺は)
見捨てると決めたガキに、今さら保護者ぶって何になる。何の利益もない無意味な偽善に、反吐が出そうだった。
冷酷な悪人に割り切る度胸もなく、土壇場で半端な情を出す己の性根が、たまらなく嫌だった。
桐生は矛盾と自己嫌悪に苛まれながらも、防寒着を乱暴に脱ぐと、ミナの小さな肩に掛けた。
「あっ……」
ミナの視線に、桐生は居心地の悪さを覚えて思わず目を逸らす。
何か言いたそうにするミナに、桐生もまた言葉がうまく出なかった。
「親父さんには、その……いつも世話になっているから……あーくそっ、つまりだな……」
その一言に、ミナの表情がわずかに曇った。
「お父さん、まだ帰ってこないの……?」
「……あ、ああ」
しまった、と桐生は息を呑んだ。だが、ミナはすぐに気を取り直すように、まっすぐな光を瞳に灯した。
「お父さんはね、嘘つかないの」
その声は、凍った空間の中で透き通るように響いた。
「『いい子で待ってなさい』って言ったの。だから、絶対に帰ってくるよ」
両親を同時に失いかねない状況で、それでもこの子はまだ、父の言葉を信じている。
自分も佐伯も生き残るために、瞬時に他人を切り捨てた。川上も保身のために子供の毛布を奪おうとした。
だがこの幼い少女だけが、地下八百メートルの底で何も手放していない。
「あ、あと、それと……」
「——時間だ」
佐伯の声が、ミナの言葉を冷たく断ち切った。
「工事長がボイラー室へ向かって十分な時間が経った。死亡したと判断するのが妥当だ」
「お父さんは死んでない!」
それまで大人しかったミナが、初めて強い声をあげて佐伯を睨みつけた。佐伯はその視線を、表情ひとつ変えずにあしらった。
「事実を言っているだけだ、お嬢ちゃん。……ポッドもそろそろ動く頃だ」
桐生は唾を呑み込んだ。ついに、選択の時が来た。
「お、俺も、俺も連れて行ってくれぇっ!」
毛布にくるまった川上が、惨めに這い寄ってきた。
「頼む、桐生君! 家族がいるんだ、家に帰してくれぇっ!」
桐生はその叫びを冷たく見下ろし、それから立ち尽くすミナを見た。
逃げようとも、すがろうともしない。父を信じる強い瞳のまま、旅立とうとする大人たちを見つめている。
(俺は……脱出ポッドに乗る。生き残るために……!)
桐生は胸の痛みを押し潰すように拳を握った。
「……行きましょう、佐伯さん」
桐生と佐伯は、泣き叫ぶ川上と何か言いたそうなミナを残し、ポッド室へと踏み出した。
二人の背中が遠ざかる。ミナは結局、声をかけることができなかった。
——その時、小さなポケットに指先が触れた。まだ、『あれ』が残っている。
ミナはぬいぐるみを抱え直し、冷え切った痛む足で暗闇の奥へと踏み出した。




