1章
息を吸うたびに、肺の奥が凍りついていく。給気ファンが止まってから、どれくらい経っただろうか。
北極圏の地下深層採掘施設『アビス』。地下八百メートルの施設内は、もはや人が生きられる環境ではなくなっていた。
粉塵と皮膚を刺す死の冷気。閉ざされた闇の中で、赤黒い非常灯だけが脈打つように明滅している。
「……親父さんは、戻ってこない」
桐生蓮は血と泥で汚れた袖で口元を拭い、短く吐き捨てた。
最初の崩落で多くの人が生死不明となった。
そして「暖房を繋ぎ直す」と言い残し、ミナの父親である工事長が一人で闇の中へ消えていった。
「あそこは二次崩落の危険区域だ。戻れる見込みは薄い……」
暗闇の奥から姿を現したのは、元軍人でセキュリティ長の佐伯剛だった。
防寒ウェアを纏い、この状況にあっても眉ひとつ動かさない。
壁際にへたり込んでいた初老の男が、震える声を上げた。技師の川上茂だった。
「そ、そんな……! 救助隊は!? いつ来るんだ……!?」
「無駄だ、川上技師」
佐伯は抑揚のない声で続けた。
「電源は戻らず、予備の保温もそう長くは保たない。地上からの救助にはもっと時間がかかる」
「そんな……! ここで全員、凍え死ぬっていうのか……!?」
「全員ではない」
佐伯の声が、鋭く割って入る。
「一つだけ、無傷の脱出ポッドが残っていた。定員は一人だ」
その一言が、部屋の温度をさらに一段落とした。
(一人……?)
桐生の胸の中で、何かが弾けた。呼吸が浅くなり、心臓が肋骨を殴る。
込み上げてきたのは正義感でも絶望でもなく、ただ生きたいという執着だった。
桐生は素早く周囲を見回した。川上は技師だが、パニックで正気を失いかけている。見学に来ている小学生のミナに、ポッドの操作などできるはずもない。
残るのは佐伯だけだ。この男の合理性が、今この場の唯一の「基準」になる。
桐生は拳を握り、怯える川上たちから一歩離れると、佐伯の隣に立った。
「冷静に決めましょう」
自分でも驚くほど、声が冷たく乾いていた。
「パニックを起こして群がれば、全員凍えて死ぬ。俺は保守担当として認証コードを、佐伯さんが起動キーを持ってる。二人で『確実な一人』を決めましょう」
「き、桐生君……!? 何を言ってるんだ!」
川上は信じられないという顔で桐生を見た。
「わ、私は!? それに幼いミナちゃんもいるんだぞ! 母親は瓦礫の下で、工事長だって命懸けで奥に行ったのに、自分たちの話をするのか!」
「現実を見ろよ、川上さん!」
桐生は怒鳴り返した。罪悪感を塗り潰すための声量だった。
「あんたは明らかにパニックを起こしている。それにそっちのガキを乗せて、もしエラーが出たら誰が対応するんだ!?」
「だ、だが……ッ! みんなを置いて一人だけ助かるなんて、そんなの……!」
川上の抗弁を遮り、桐生は声を荒げた。
「ポッドで助かった奴が地上で正確なデータを渡せば、救助隊の到着は劇的に早まるんだ! ポッドに乗る一人は、残された全員を救うための『連絡係』だ」
川上が息を呑む。その隙を逃さず、桐生は一気に畳みかけた。
「感情論を捨てろ! 全員が助かる道は、これしかないんだよ!」
佐伯の口の端が、わずかに歪んだ。桐生の腹の内を見透かしたような、冷ややかな笑みだった。
「……いい判断だ、桐生。状況をよく分析できている」
佐伯は桐生の肩を軽く叩き、川上を一瞥もせずに言った。
「川上技師。あなたの正義感は、人の上に立ったことがない者の自己満足にすぎん」
勝った、と思った。佐伯と利害が一致した。どす黒い安堵が、腹の底に広がった。
桐生は自己正当化の余韻の中で、ふとミナの方へ視線を向けた。
罵声と呻きが渦巻く状況で、ミナだけが完全な静寂の中にいた。
ぬいぐるみを抱き、壁際で小さく膝を折っている。泣き叫びもせず、すがりつきもしない。
——ミナが、ゆっくりと顔を上げた。
視線が交差する。桐生は思わず息を止めた。
赤い非常灯を映す瞳に、恐怖も怒りも、見捨てられる絶望もなかった。ただ静かに、すべてを見ている。
(……なんだ、その目は)
背筋に、氷を押し当てられたような寒気が走った。
ミナは一言も発していない。それでも桐生には分かった。この子は、俺が今何をしたのかを見てしまったのだ。
胸の奥に不快な痛みが走った。
「ちっ……」
桐生は視線を逸らし、拳の中に爪を食い込ませる。
生き残るために当然の判断をしただけだ——そう自分に言い聞かせても、その痛みは消えなかった。
「……桐生。ポッド室へ向かうぞ」
「は、はい……!」
佐伯の言葉に、桐生は逃げるようにその背を追った。呻く川上と幼い少女を、背中で振り切るように。
室温はゆっくりと、しかし確実に下がり始めていた。




