第01話:値上がりの兆し
大通りから一本入った路地に、その店はある。扉を押し開けると、ベルの乾いた音と共に、いつものように焼き菓子と茶葉の甘い香りが優しく鼻をくすぐった。
こぢんまりとした店内には、使い込まれた木製のテーブルが数卓。午後の柔らかな光が窓から差し込み、空中に舞う微細な埃をキラキラと輝かせている。客もまばらで、壁に掛かった古時計の刻む音すら聞こえるほどだ。隣のテーブルに内密な相談が漏れる心配もない。
かつてヴィクトルが、「マフィンへの情熱」を語り倒した場所だ。彼の熱弁を黙って受け止めていた琥珀色のティーカップは、今も変わらぬ佇まいで棚に並んでいる。
窓際の席に、いつもの顔が揃った。
俺は、フォルスタ子爵家次男のアルフレッド。隣には男爵家のエレナ、通称レナ。そして、うちに出入りする商人のヴィクトル。この三人で顔を合わせるのは、しばらくぶりだった。
ヴィクトルがテーブルに広げた書類を、俺はひと通り眺めた。数字が並んでいる。売上の記録だ。
「爆発的ではありません」
ヴィクトルが先に言った。
「分かってる」
「ただ、広がっています。最初は運送ギルドと一部の靴職人でした。それが今は、王都の中心部の執事ルートを通じて、貴族家にも少しずつ浸透し始めています」
「あの執事さん、品がないって言ってたのに」
「人は変わります。あるいは、噂を聞いた別の家が先に試して、良いと分かった。それが伝わっていくんです」
じわじわ、というやつだな。俺は窓の外を眺めた。春の王都は人通りが多い。どこかの家の使用人だろう、抱えきれないほどの荷物を持った女性が、困り顔で立っている。気の毒に。
「このペースは悪くない」
隣に座るレナが、ティーカップを口に運んだ。特に表情はない。
「……何か言え」
「別に」
「得意げにしろとは言わないが、少しくらい」
「……まあ」
一拍置いて、レナが言った。
「よかった」
ヴィクトルが書類を畳んで、小さく笑った。珍しい顔だと思った。本当に、ちょっとうれしかったんだろう。
ヴィクトルが鞄の中を探り始めた。
「先日まで辺境伯の領地に商談で行ってきたのですが、その際、王都で流行り始めたものを手土産として持参しまして」
取り出したのは、小さな布袋だった。テーブルの上にそっと置く。
「輸入品なのですが、最近、王都でじわじわと流行り始めているんですよ。グミです。果実を煮詰めて、固めたお菓子です。せっかくですから、辺境伯領へも流行り物として持参いたしまして。リリアーヌ様にもひとつ献上いたしました。喜んでいただけましたよ」
「知ってる。食べたことはないが」
「ここで開けるわけにはいきませんが」
ヴィクトルが苦笑した。
喫茶店だ。外から持ち込んだ菓子を大っぴらに食べるわけにはいかない。
その瞬間、レナの肩がわずかに動いた。
(……ん?)
俺はなんとなく、そちらを見た。レナはティーカップを持ったまま、窓の外を眺めている。いつも通りの抜けた顔だ。
「どうした?」
「なんでもない」
「なんでもない顔じゃなかったぞ」
「なんでもない」
ヴィクトルが続けた。
「辺境伯のご令嬢と商談の席でお会いする機会がありまして。その際に、靴乾燥機の話もいたしました。非常に興味を持っていただいて」
「リリアーヌ様が?」
「ええ。製作者のお名前をお尋ねになりましたが、商人として、信頼が第一です。名前は出しませんでした。ただ、公的な文書を辿れば、いずれたどり着くでしょうね」
それは……どうなんだろうな。
リリアーヌ様。あの卒業式の主役だ。全員が名前を知っている。
「ということは、うちの名前も調べれば分かるということか」
「可能性はあります。ご留意を」
俺はレナをもう一度見た。また、肩がわずかに揺れていた。
「……レナ」
「なんでもない、と言った」
「本当に?」
「……」
沈黙が答えだった。
次の話を聞く前に、これは問い詰める必要がありそうだった。
「正直に言えよ」
俺は隣のレナに向かって言った。
ヴィクトルは少し引いた場所で茶を飲んでいる。巻き込まれるのを避けているのがよく分かる雰囲気だった。
「なにか心当たりがあるんだろう」
「……」
「あるんだな」
「……手紙が来た」
ぽつりと言った。
「手紙?」
「靴乾燥機の製作者への問い合わせとして。リリアーヌ様の家から」
俺は一瞬、思考が止まった。
「……それ、いつ?」
「先週」
「で、どうした」
「完璧に対応した」
レナが言った。胸を張っている。珍しい顔だった。
「……完璧に、というのは」
「製作者についての情報は一切開示しなかった。礼を失わない範囲で、丁重に対応した。問題ない」
「……」
完璧な対応、と言う。しかし一つ気になることがある。
俺はゆっくりと言葉を選んだ。
「手紙が来たということは、手紙を返したということだよな」
「そう」
「手紙は家に来たはずだ。最初から、直接、個人に手紙が届くことは……」
「家宛だった。だから、お母様と一緒に読んだ」
ならまあ、礼を失した返し方にはなっていないだろう。レナ単独で動いていたら怖かったが、家の大人の目が入っているなら最低限の体裁は保てているはずだ。
「……忘れてた」
「忘れてたのか」
「日常的なやり取りだったから」
リリアーヌ様からの手紙を、日常的なやり取りと言うのか。
俺は窓の外を見た。春の光が眩しい。自分の発端は、ちょっとした小遣いが欲しかっただけだ。レナが魔道具を作りたがっていた。ヴィクトルに話を持ち込んだ。流れで靴乾燥機が生まれた。そこまでは良かった。まさか、あの卒業式の主役が関心を持つとは。
(大事になる予感がする。嫌な方向で)
ヴィクトルが口を開いた。自然なタイミングだった。
「それはそうと、王都で、小麦の値段が上がり始めているのをご存知ですか」
「……小麦?」
「先般の卒業式でのリリアーヌ様の発言は、皆様もご存知でしょう。食料に関するお話もありましたね。アルフ様は実際にご覧になっていたのでは?」
「一応な」
「商人の耳にも届いております。あれを受けて、一部の商人が食料品の在庫を厚くしました。その影響で、市場の小麦の値段に、わずかな上昇の起こりが見え始めているのです」
実際に、なにかが起こったわけじゃない。ただ、心配した商人が備えを厚くした。需要が上がれば値段が上がる。そういう話か。
「噂というのは実態とは別に動きます。誰かが買う。値段が上がる。値上がりを見込んでさらに誰かが買う。これがスパイラルになると……」
ヴィクトルが茶を一口飲んだ。
「実際に、投機目的で小麦を買い占めようとした商人が現れました。商人ギルドが止めましたが。人の恨みを買う恐ろしさに考えが及ばなかったのでしょうか、まったく嘆かわしい。とはいえ、値上がりの傾向は続きそうです。あくまで私の見立てですが」
ヴィクトルが「想像の域を出ません」と言う。慎重だ。ただ、この人がわざわざ話を持ち出すということは。
俺はヴィクトルの顔を見た。計算している顔だ。いつもそうだが、今日は少し、その色が濃い気がした。
帰り道、その話が頭の中でぐるぐると回り続けた。
小麦が値上がりする。いまのうちに買えば……。
(……これ、儲かるんじゃないか?)
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