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子爵家次男のありふれない日常  作者: kishi
令嬢が朝食を楽しむだけ
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第05話:お茶は令嬢が淹れる

「今朝は、自分で淹れてみたいのですが」


 言った瞬間、筆頭侍女の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。

 止まった、というのは大げさかもしれない。コンマ数秒の、息を吸い直すような間だった。それからすぐに、「かしこまりました」という声が返ってきた。声のトーンは、いつもと変わらない。完璧に変わらない。


(変わらなさが、逆に気になりますわね)


 筆頭侍女が、壁際の他の侍女へ目線を送った。言葉はなかった。視線だけで何かが伝わって、その侍女が厨房の方向へ小走りに消えた。


 しばらくして、新しい熱湯が用意された。

 白磁のティーポットが、テーブルの前に置かれた。

 筆頭侍女が、ポットの横に並んで立った。斜め後ろではなく、今日は少しだけ前に出た位置だ。手を腰の後ろで組んでいる。その指先が、微妙に動いていた。


(見えていますわよ)


 まず、ポットを温める。

 熱湯をポットへ注いだ。筆頭侍女が湯を注ぐのを手伝い、リリアーヌがポットを両手で包んで、ゆっくりと回した。お湯が陶器の内側に当たる、柔らかな音が食堂に響いた。とくとく、という音が、静かな朝の空気の中で妙に心地よかった。

 温まったポットのお湯を、侍女が差し出したボウルへ移した。湯が空中を落ちる音が、短く散った。


(ポットを温める、というのは、要するに温度を逃がさないための準備ですわね。最初から正しい準備をすることで、最後まで正しい状態が保たれる。紅茶に限らず、そういうものですわ)


 次に、茶葉だ。

 銀のティースプーンを手に取った。茶葉の入った缶を開けると、乾いた香りがふわりと上がってきた。辺境伯領の高地で、霧を吸って育った茶葉だと聞いていた。細かく、さらさらとしている。

 スプーンで掬い上げて、ポットの口から入れた。乾燥した茶葉がポットの底に落ちる音が、さらさら、と静かに響いた。


(この音が、好きですわ)


 筆頭侍女が「そのくらいで」と小さく言った。声のトーンが、わずかに高かった。


(やはり、ハラハラしていますわね)


 いよいよ、湯を注ぐ。

 これが最も重要な工程だと、筆頭侍女が事前に言っていた。沸騰したての、空気をたっぷり含んだ熱湯を、少し高い位置から落とすように注ぐ。そうしないと、茶葉が踊らない。


「少し高い位置から、ゆっくりと」


 筆頭侍女の声が、右後ろから聞こえた。同時に、腕に添えられる手の気配があった。支えている、というより、いつでも受け止められる、という準備の手だった。

 湯を注いだ。

 ポットの内側で、茶葉が動いた。

 最初はばらばらと沈んでいた茶葉が、注がれる湯の流れに乗って上へ、上へと運ばれ——それから重力に引かれて下へ落ちる。また上がる。また落ちる。


(踊っています、本当に)


 リリアーヌはポットの口から覗き込んだ。茶葉が上下に揺れるたびに、芳醇な香りが解き放たれた。雨上がりの澄んだ空気の中に、茶葉の香りが一気に広がる。食堂の、南の窓から差し込む朝の光の中に、湯気が細く立ち上がった。


 ティーコジーを被せた。


 待つ。

 砂時計が、砂を落とし始めた。


 静かだった。一時間早く起きた朝の、世界がまだ動き切っていない時間の静けさの中で、リリアーヌはただ砂が落ちるのを見ていた。ポットの中で、今、何かが起きている。茶葉が湯の中で開いていく。色が出る。香りが溶け出す。蓋の向こうで、誰にも見えないところで、ひとつの変化が完成しようとしている。


(不思議なものですわ。何もしていないのに、待っているだけで完成に近づいていく)


 砂が落ち切った。


 ティーコジーを外した。ポットから、茶葉の香りが一層強く立ち上がった。

 ティーストレーナーを白磁のカップに乗せた。両手でポットの持ち手と蓋を押さえて、傾ける。


 澄んだ琥珀色の液体が、白いカップへ流れ込んだ。

 細く、静かに。音が、注ぐにつれて変わった。最初は高く、カップに液体が溜まるにつれて低くなっていく。その音の変化が、量を教えてくれる。


(もうすぐ、最後の一滴が来る)


「最後の一滴にこそ、最も深い旨味が宿るのです」


 筆頭侍女が、囁くように言った。ゴールデンドロップ、という言葉を使った。

 リリアーヌは、ポットを傾けたまま、動かなかった。最後の一滴が、ストレーナーの上でためらっている。細い糸になって、今にも落ちようとして……落ちた。

 白磁のカップの液面に、小さな波紋が広がった。

 ストレーナーを外した。カップの中の紅茶は、澄んだ琥珀色だった。湯気が、朝の光の中を細く立ち上がっている。


 カップの持ち手に指を通した。薄い白磁は軽い。熱が指先に伝わってきて、反射的に少し浮かせた。でも、離さなかった。唇に近づけると、湯気が先に来た。鼻の奥まで、茶葉の香りが押し寄せた。


 一口、飲んだ。


 想像していたより少しだけ熱くて、舌の先が一瞬戸惑った。それから渋みが来るより先に、柔らかい甘みが広がった。これが自分で淹れた紅茶の味だ、と思うと、なんだか可笑しかった。いつも飲んでいる紅茶と、同じ茶葉のはずなのに、少しだけ違う味がする気がした。


 カップを置いた。底が受け皿に触れる小さな音が、広い食堂に柔らかく散った。


 窓の外では、庭の水たまりが光を弾いていた。雫が一粒、木の葉から落ちた。光が一つ、消えた。

 いつもより一時間早く始まった朝が、ゆっくりと、いつもの時間へ追いついていく。


 リリアーヌは、もう一口、紅茶を飲んだ。

お読みいただき、ありがとうございました。

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