第03話:黄金の問題
全粒粉のパンは、後回しにした。目玉焼きが、待っているからだ。
(あちらの視線が気になって、パンに集中できません)
視線、というのは比喩だ。卵に目はない。ただ、黄身の存在感が強すぎて、そう感じてしまう。盛り上がった黄身が、朝日を受けて鮮やかな黄金色に輝いている。赤みが強い、濃い黄色だ。辺境伯領の豊かな土壌を食べて育った鶏の卵は、黄身の色が違うと料理人が言っていた。今朝のそれは、まさにその言葉通りの色をしている。
白身の縁が、きつね色だった。強火で焼かれた縁だけが薄くカリッと仕上がって、レース編みのように繊細な焦げの模様になっている。白身の中央は、シルクのベールをかぶせたように薄く白濁していた。蒸し焼きにしてある。火の入れ方が、丁寧だ。
ベーコンが添えられていた。厚切りで、断面が鮮やかなルビー色をしている。脂身の部分は真珠に似た白さで、すでに縁がカリッと焼き上がっている。このベーコンは、辺境伯領の山々を駆け巡った野生の猪を使っている。狩り、解体し、領内のナラの木で数週間かけて燻す。手間のかかる仕事だ。その焼き色から、スモーキーな香りが立ち上がっていた。
(さて)
銀のナイフを右手に収めた。柄の冷たさが、すぐに掌の温みに馴染む。フォークを左手に持ち、皿の縁をごく軽く押さえた。安定させる、その無意識の一動作。
問題は、黄身だ。
ナイフを、白身と黄身の境目に添わせた。ここを切り分ければ、黄身は温存できる。このまま白身だけを切り取って、黄身に触れずに食べ進めるか。
それとも今、崩すか。
(黄身というのは、崩す前が最も美しい。これは事実です。しかし、崩した瞬間が最も美味しい。これも事実です。この二つの事実が、朝のテーブルの上で私に喧嘩を売ってくるのです)
しばらく、黄身を見た。
黄身は何も言わない。ただそこにある。完璧な形で、朝日を受けて輝きながら。
(……崩します)
決めた。
ナイフの先を黄身のてっぺんへそっと当て、ほんの少しだけ力を込めた。
黄身の膜が破れた瞬間——中から、温かく濃密な黄金色の液体がゆっくりと流れ出した。とろり、という言葉しか当てはまらない流れ方で、白身の上を伝い、皿の縁へ向かって広がっていく。
香りが来た。
バターの芳醇な甘みと、卵の濃厚な匂いが、同時に立ち上がった。
白身を切り取った。刃が沈むより前に、白身がわずかに逃げようとするのがわかった。押さえるのではなく、ついてくるように刃を滑らせる。切れた断面が、プルリとしている。
フォークで持ち上げた。流れ出した黄身が皿の上に広がっているから、白身の切れ端の底面が黄金色に染まっている。
口へ運んだ。
唇を閉じた瞬間、熱が先に来た。舌先が触れると、白身の表面は予想よりずっと滑らかで、絹を舌で押さえたような、するりとした感触がある。奥へ送ると、プルリとした弾力が一瞬だけ返ってきた。
歯を軽く当てると、白身はほとんど抵抗せずに形を変えた。バターの香りが、噛むたびに口の中全体へ広がっていく。まだ噛んでいるのに、もう次の味がやってくる。卵の濃厚な甘みが、舌の奥の方で主張し始めた。
三回ほど噛んで、喉へ落ちた。なめらかに下りていく。胃の方向へ、温かさが広がった。
言葉は要らない。
ベーコンを切った。縁のカリッとした部分にナイフを当てると、「パチ」と小さな音がした。中央の赤い部分から、肉汁がにじんだ。口へ入れると、スモーキーな香りが一気に広がる。脂の旨みと、塩気と、燻製の香りが重なって——卵の濃厚な甘みが、まだ口の中に残っているところへ、ベーコンの塩気が来た。
(ふたりは、仲がいいですわね)
卵の甘みとベーコンの塩気が、口の中で手を取り合っている。引き立て合っている。どちらかだけでは完成しない味が、合わさることで完成する。山を駆けた猪と、今朝の卵。どちらも辺境伯領のものだ。同じ土地の産が、皿の上で出会って、ようやく完成している。料理人というのは、こういうことを計算してやっているのか。
皿の上に、まだ黄身のソースが残っていた。焼きたてのパンがある。
(……全粒粉のパンを黄身のソースに浸したら、どうなります?)
白いパンとは違う粗い表面が、ソースをどう受け止めるか。染み込み方が違うはずだ。食べてみなければわからない。
リリアーヌは、全粒粉のパンへ手を伸ばした。
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