第02話:白いパンと琥珀の誘惑
最初に手が伸びたのは、パンだった。
(焼きたてのパンを前にして、他のものから始める人間がいるとしたら、私はその人の判断力を疑います)
銀のパン皿の上に、二種類が並んでいた。白いロールパンと、全粒粉のパン。白い方は表面がきれいに丸く膨らんで、焼き色がほんのり金色だ。全粒粉の方は、色が濃く、表面に粗い粒の凹凸が見える。どちらも、まだほのかに湯気が立っている。
(迷います。白か、全粒粉か)
白いパンを選んだ。
指先でそっと触れると、表面の皮がわずかに固く、内側に向かって柔らかな弾力が返ってきた。指の腹で軽く押さえると、ほんの少しだけ沈む。離すと、ゆっくりと、本当にゆっくりと、もとの形に戻っていく。
(生きています、このパン)
焼き上がったばかりの時間の短さが、指に伝わってくる。
両手でロールパンを包んで、ゆっくりと力を込めた。外側の皮が「パリッ」と小気味よく折れ、そのまま二つに割れた。音が、静かな食堂に短く響いた。
その瞬間、香りが一気に広がった。
ナッツのような、香ばしい小麦の甘い匂いが、割れた断面から解き放たれる。閉じ込めていたものが出てきた、という感じがする。内側の白い部分が、外の光を受けてふわりと輝いて見えた。
次は、蜂蜜だ。
テーブルの上に、陶器の小さな壺が置かれていた。蓋を開けると、中の蜂蜜がすぐそこにある。
「昨日、領内の養蜂農家の方が、直々に持ってきました。春にしか採れないものでございます」
筆頭侍女が、静かに添えるように言った。
壺の中を、少し覗き込んだ。
(……養蜂場、一度訪ねてみなければなりません。どんな花を蜜源にして、どのように巣箱を管理しているのか。この琥珀の色と、花の香りの正体を、自分の目で確かめたいです)
春が終わる前に、時間を作ろう。そう、心の中で決めた。
銀のハニーディッパーを差し込んで、ゆっくりと持ち上げる。
蜂蜜は、急かすと落ちる。ゆっくり持ち上げれば、ディッパーに絡まって一緒に来る。
細い琥珀の糸が、壺の中から伸びてきた。光を受けて、半透明に輝いている。宝石に似ているが、宝石より柔らかい。揺れるたびに糸が震えて、切れそうで切れない。
パンの白い断面に向けて、少しだけ傾けた。
糸がためらうように揺れた。それから——決心したように——するりと落ちた。
蜂蜜がパンの断面に落ちた瞬間、じわ、と広がった。パンの繊維の隙間へ、ゆっくりと吸い込まれていく。全部は染み込まない。表面にとろりと残った分が、光を受けてきらりと光った。
(きれい)
思わず、動く手が止まった。
白いパンの上の、琥珀の光。窓から差し込む朝日が、その上を通っている。食べ物なのに、一瞬だけ、見ていたくなった。
(……食べますわよ。もちろん)
パンを両手で持ち上げた。焼きたての温もりが、指先に伝わる。口に近づけると、先に香りが来る。小麦と蜂蜜が混ざり合って、鼻の奥まで入ってきた。花の香りがある。蜂蜜の、花の香りだ。
歯を当てた瞬間、外側の皮が折れた。
音が口の中で反響した。続いて内側の柔らかい部分が押しつぶされ、温かさと甘みが一気に来る。小麦の甘みが先で、蜂蜜の甘みが後から来た。重なるのではなく、順番に来る。二つの甘みは、性質が違う。
噛むほどに、小麦の深みが出てくる。
三回、四回と噛んで、喉へ送った。温かさが食道を下りていく。胃のあたりに、じんわりとした熱が広がる。
甘みだけが、鼻の奥にしばらく残った。
(辺境伯領の小麦の素晴らしいこと)
毎朝食べているのに、気にしたことがなかった。一時間早く起きて、世界がまだ静かで、光が特別な朝だから——今日は、パン一つの味がはっきり聞こえる。
視線を、全粒粉のパンへ移した。
色が濃く、表面が粗い。白いパンより少しだけ重たそうに見える。断面に蜂蜜を乗せたら、白いパンとは違う染み込み方をするはずだ。
(あちらは、噛めば噛むほど味が出そうね)
次は、あちらを試してみようか。
それとも、目玉焼きへ移るか。
皿の上の黄身が、朝日を受けて静かに輝いている。
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