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子爵家次男のありふれない日常  作者: kishi
令嬢が朝食を楽しむだけ
35/43

第01話:目覚めたら世界が光っていた

 目が覚めたとき、リリアーヌは部屋の中がいつもと違う気がした。

 光の角度が、違う。

 窓のカーテンの裾から差し込む朝日が、普段よりも低い位置から這うように床を照らしていた。ベッドの上で少しだけ上体を起こし、天井の梁を見上げる。屋敷が、まだ静かだ。


(……早く目が覚めてしまったわ)


 時刻を確認するまでもなく、体がそう言っている。廊下からは、いつもの朝なら聞こえてくる侍女たちの足音も、厨房の方向から漏れてくる調理の気配も、まだどこにもない。世界がまだ準備を終えていない、という静けさだ。

 昨夜は雨だった。寝室の窓を閉めたまま眠ったのに、雨粒が屋根を叩く音が夢の縁まで入り込んできた。眠りが浅かったのは、あの音のせいかもしれない。それが、いつの間にか止んでいた。雨が止んで静かになって、かえって目が覚めてしまった、ということだろう。


(雨がうるさくて眠れないのではなく、雨がなくなったから目が覚めた、という理屈は、少し間抜けです)


 ベッドの脇に、ミュールが揃えてあった。踵のない室内履きだ。足を滑り込ませると、柔らかい革が足の甲を包む。起き抜けの足には、この柔らかさがちょうどいい。


 侍女を呼んで、身支度を整えてもらった。

 筆頭侍女は濃紺のロングドレスに、白く糊のきいた長いエプロンをつけていた。エプロンの胸元には控えめなレースと、辺境伯家の紋章の刺繍が入っている。詰まった襟の小さなリボンが、朝の光の中で白く光った。髪は低い位置のシニヨンで、後れ毛一本ない。


 身支度が整ったところで、窓を開けてもらった。


 一瞬、息をのんだ。


 昨夜の雨が嘘のような、完璧な快晴だった。空の青が、ただ青いのではなく、雨に洗われたあとの、余計なものが何もない青だった。朝日がそこへ差し込んで、光そのものが色を持っているような、おかしな明るさになっている。


 ミュールのまま、バルコニーへ出た。

 朝の空気が、顔に触れた。冷たくて、湿っていて、清々しかった。湿った土の匂いと、雨に洗われた芝生の青々しい香りが、一緒になって鼻に入ってくる。肺の中が、入れ替わるような気がした。


 手すりに指をかけて、庭を見下ろした。

 水たまりがあった。石畳の低いところに、昨夜の雨が集まって残っている。その水面が、空を映していた。鏡というより、もう少し柔らかい——風が通るたびに青が砕けて、光の欠片になる。


(庭に空が増えています)


 木の葉には、まだ雨の雫が残っていた。朝日を浴びて、一粒一粒がダイヤモンドのように輝いている。重みに耐えかねた雫が、ふ、と落ちる。落ちた瞬間、光が一つ消える。


 しばらく、そのまま立っていた。


 もう一粒、雫が落ちた。

 踵を返して部屋へ戻った。ミュールが、バルコニーの石床を柔らかく踏んだ。


 着替えて、食堂へ向かった。

 いつもより一時間早い。廊下は静かで、カーテンの隙間から差し込む光の筋だけが、床の石畳に細く落ちていた。磨かれた床がその光を受けて、鈍く白く光る。靴音が、いつもより大きく聞こえる。人が少ないから、音が吸い込まれずに残るのだ。


 廊下を歩きながら、後ろに人の気配があった。

 筆頭侍女が、斜め後ろを歩いている。ローヒールのパンプスが、石畳の上をほとんど音を立てずに運ばれる。艶を抑えた黒革が、廊下の光を静かに受けていた。その少し後ろに、もう二人。サポートの侍女たちだ。こちらは濃紺のエプロンドレスで、足元はフラットシューズ。ふくらはぎ丈のエプロンドレスは動きやすそうで、高めの位置でまとめた髪が、廊下を歩くたびにわずかに揺れる。三人分の足音は、ほとんど聞こえなかった。


 食堂の扉を開けた瞬間、香りが来た。

 

 焼きたてのパンだ。

 小麦の、香ばしい、ナッツに似た甘い匂い。それに重なるように、淹れたての紅茶の柔らかな湯気の香り。その二つが、窓から入ってくる雨上がりの清々しい外気と混ざり合って。なんとも言えない、多幸感のある空気になっていた。


(この匂いだけで、今日という一日が、もう元が取れた気がします)


 食堂は広い。数十人が一度に食事できる部屋に、今朝はリリアーヌ一人分の支度だけが整っている。

 南向きの大きな窓から、朝日が惜しみなく差し込んでいた。空気中のわずかな塵を照らして、光が道のように見える。チンダル現象というやつだ。それが食堂の中で起きている。

 壁のオーク材のパネルが、朝日を受けて温かみのある飴色に輝いている。

 先祖代々の肖像画が並ぶ壁は、夜に見るとどこか重たいのに、この光の中では威厳がやわらかい。

 天井のシャンデリアは、朝の今は点いておらず、ただぶら下がって、クリスタルが窓の光を受けてきらきらしている。


 上座の椅子へ向かった。


 背もたれの高い椅子を、筆頭侍女が音もなく引いた。

 座る。椅子の背が、背中をきちんと受け止める。

 純白のテーブルクロスの上に、銀の食器と磁器の皿が並んでいた。銀器は朝日を弾いて眩しい。皿の白が、光の中でさらに白く見える。

 ナプキンを膝に広げる。癖になっている所作なのに、今朝はその一動作が、やけにはっきり感じられた。静かだからだ。世界がまだ動き出していないこの時間、すべての所作が、輪郭を持って存在している。


 テーブルの上を、ゆっくりと見渡した。

 パンが、二種類。卵と、ベーコン。サラダと果物。そして、まだ湯気の立っているティーポット。


(今朝は……どこから始めましょうか)


 窓の外、庭の水たまりが光を弾いた。鳥のさえずりが、澄んだ空気の中を遠くから届いてくる。馬のいななきが、一度だけ、静寂の間に収まった。

 広い食堂の中で、リリアーヌは一人、テーブルの前に座っていた。


 最初の一口を、まだ選んでいる。

お読みいただき、ありがとうございました。

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