第03話:出会いの押し売り
次の日、私は封蝋の色を変え、宛名を男爵家当主ではなく、エレナ・ベネット嬢個人へと書き換えました。
「今回は、彼女宛に送ります」
侍女にそう告げながら、私は指の先で便箋の角を均すように撫でました。
(逃げ道を、丁寧に塞ぎましょう。前便は、家の看板で身を隠せましたわね。今度は、看板の陰に逃げられないようにいたします)
蝋が固まるまでの間、燭台の匂いが指の間にまとわりつきました。封蝋は深い緑に変えてあります。私は一度だけ目を閉じました。怒りではありません。退屈の反対側にある、やけに澄んだ集中です。
「
エレナ・ベネット 様
謹啓
新緑の候、貴下におかせましては、春の裾が野に広がり、夏の気配ほんの一瞬先の折、益々ご清祥の由と拝察し、謹んでお慶び申し上げます。
さて、前便のご返翰、丁寧に拝見いたしました。季節の挨拶が豊かで、紙面が春そのもののようでございました。感心いたします。学園の教本を写し取る手際の良さには、脱帽です。
貴女はベネット男爵家の令嬢です。模範解答をなぞるだけでは、貴家の知性が疑われかねません。侯文は型を守るものですが、型は「盾」ではなく「骨格」です。骨格の上に肉が乗らない文章は、着丈の合わない礼服と同じです。似合っておりません。
また、極めて短い否定を置かれました。短い言葉ほど、かえって重く響くことがございます。貴女がどう意図したかどうかは、こちらで詮索はいたしません。ただ、便箋を受け取った私が、そこに何を見たかについては、私の自由でございます。結果として、私の目には、靴乾燥機の作り手の輪郭が、はっきり浮かび上がりました。
差し出がましいようでございますが、貴女の筆は前便で、すでに私の注意を引きました。ここで途切れさせるのは、双方にとって礼儀が欠けます。次の便箋を、お待ちしております。
貴下のご健勝と、ご家族様方の安寧を、ここに重ねてお祈り申し上げます。
リリアーヌ・ヴァランシエンヌ
謹白
」
一ヶ月。
庭の薔薇が蕾を増やした頃、便箋が届きました。字は相変わらず、無駄に真面目です。
「
リリアーヌ・ヴァランシエンヌ 様
謹啓
初夏の候、貴下におかせましては、春の名残が袖にまだ引っかかるうちに、僅かに夏の気配が混ざり始めた折、お変わりなく御自愛の由と拝察し、お慶び申し上げます。
ごめんなさい。
作ったのは、フォルスタ子爵家のアルフレッドです。
私は、すこし手伝っただけです。
エレナ・ベネット
謹白
」
私は紙を持ち上げ、光にかざしました。透かせば筋が均一で、裏抜けしたインクの影だけが薄く移ります。追加の文は、どこにも出てきません。
(……簡単に人を売ったわね。正確には『押し付けた』。アルフレッドさんの名前、便箋のインクより濃く載っていますわ。エレナさんの良心は、どこかに薄くにじんでいませんこと? 人を売るにも段階がありますのに、値札の付け方が雑すぎませんか。アルフレッドさん、お覚悟はいかがかしら)
胸の内で合掌しつつ、私はインクを新しく足しました。次の手紙は、笑顔で書きます。笑顔は便箋に映りませんが、インクの濃さには出ます。
「
エレナ・ベネット 様
謹啓
初夏の候、貴下におかせましては、若葉の頃からほんの一歩、日脚の伸びと陽の熱が近づきつつある折、御健勝の由と拝察し、謹んでお慶び申し上げます。
前便、率直なご返翰に感謝いたします。ただ、転嫁は礼儀として粗雑です。アルフレッド様が関与されたのであれば、それはそれとして貴重な情報ですが、それでも「主に」という語は、貴女の筆から出ました。筆は、責任を先に置きます。
やはり、作ったのは貴女でしょう。手伝いの範囲がいかに小さくとも、核は貴女の中にあります。否定は短いほど重い、と申し上げました。今度の短文は、逆方向へ重さを増しています。
もしよろしければ、今後、何かを作られる際には、資金の面でお手伝いができればと存じます。遠く離れた辺境からの失礼な提案に聞こえぬよう、様式は整えます。貴女の作るものが、生活の隙間を埋めるものであるなら、私としては歓迎です。
貴下のご健勝を、重ねてお祈り申し上げます。
リリアーヌ・ヴァランシエンヌ
謹白
」
一ヶ月。
返信は、薄い紙に、また少ない行数でした。
「
リリアーヌ・ヴァランシエンヌ 様
謹啓
初夏の候、貴下におかせましては、春尽く夏立つ折、ご一家揃ってご清祥にてお過ごしとの由、心よりお慶び申し上げます。
それは嬉しい、お願いします。
スコーンはどうやって食べますか? クリームとジャム、どちらを先につけますか?
エレナ・ベネット
謹白
」
胸の奥が、ひどく軽くなりました。退屈が、便箋一枚分だけ持ち上がられた気分です。唇の端が、勝手に上がるのを感じました。
「釣れたわ」
言ってから、自分の声が弾んでいたことに気づきました。けれど、釣れたのは事実です。ここだけは、素直に喜んでも差し支えないでしょう。
侍女と目が合い、すぐに逸らされました。……見られていましたわね。
(……しかし、それにしても、お金に対して食いつきすぎでは? 逆に、心配になるわ)
(そして、スコーン。どういう意図かしら?)
(お金を飲み込んだ次の瞬間の距離の詰め方がおかしくなくて? やはり、教育改革が必要では?)
(前便までの『私ではありません』から、一転して『お願いします』。良いのか悪いのか、判断がつきませんわ。人間の欲望と好奇心が同じ段落に同居しています。段落の秩序が先に死にましたわ)
私は深呼吸をして、額に掌を当てました。熱はありません。
「
エレナ・ベネット 様
謹啓
初夏の候、貴下におかせましては、陽ざしに重みが出始め、風の音が夏めいてまいりました。御無事の由と存じ、謹んでお慶び申し上げます。
資金のお話に喜ばれたご様子、拝察いたしました。ただ、貴族令嬢としての品格から申し上げますと、喜びの出し方には段階があります。いきなり「お願いします」と飛びつくのは、市場の初売りの列とはわけが違います。貴女の家名が、紙の上で軽く跳ねないよう慎重な振る舞いをお願いいたします。
前便までの慎重さがどこへ行ったのか、こちらとしては不安もあります。否定を重ねていた筆が、一度の金の言及でここまで素直になるのは、物語としては面白いのですが、社交としては心配です。
スコーンの件は、貴女の内にある習わしに従って結構です。私から作法戦争を始めるつもりはありません。ただ、便箋で食事論を始めるなら、次は茶葉の銘柄まで来ます。覚悟だけは整えておいてください。
そして、通知です。次に王都へ参ります折、貴女と会います。会いたい、ではありません。会うことは決定事項です。日時は後日、正式に家からご連絡いたします。
貴下のご健勝と、この先の暑気に備え、御自愛のほど、重ねてお祈り申し上げます。
リリアーヌ・ヴァランシエンヌ
謹白
」
蝋を押す音が書斎で小さく響き、印環の銀が、ひやりと掌に食い込みました。
(王都。エレナさん。スコーン……)
私は、次の一杯の冷めた紅茶へ手を伸ばしました。退屈は、もう完全には戻ってきません。
お読みいただき、ありがとうございました。
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