第03話:姉の刺繍針
「今日一日、気になってなにも手につかなかった」
翌日の夕方、俺の部屋。椅子に腰掛けたレオンが開口一番そう言った。
こいつの場合、「気になって手がつかない」は誇張ではなく本当にそうなのだろう。学園で顔を合わせた時から、ずっとそういう目をしていた。
「学園では話せないしな」
「そうだよ。誰が聞いてるか分からないし。……で、どうなったんだ」
「まず、話を整理すると。……交際しているふりをしてほしいという依頼だった。月に数回、人目につく場所を一緒に歩くだけでいい、と。報酬は金貨五枚。理由は教えられないと言っていた」
「理由は教えられない」
「そう」
「婚約者がいる男に、美人が偽装交際を持ちかけてきた」
「そう。……あと、最後に手を握られた」
「……」
「色香に惑わされた」
「自分で言うな」
レオンはゆっくりと目を閉じ、深くため息をついた。
「お前に依頼する理由が分からないな。……まあ、それでも、引き受けたんだろ?」
「引き受けた」
「……やっぱり。……あのな、一応確認するけど。昨日の夕方、俺がいなかったら、お前どうしてた」
「ノリで『はい!ずっと前から好きでした!』と、言ってたな」
「……」
「何も言ってくれるな」
レオンは額に手を当てて天井を仰いだ。俺は気まずさを誤魔化すように、机の上の羽ペンをくるくると回した。
「ところで、今日の午前の数学、どうだった。お前、途中から顔が空白になってたろ」
「お前のせいだよ! 昨日からずっと頭の中がリーゼさんのことでいっぱいで、教科書の文字が全部同じに見えた」
「そんなに」
「そんなに。……あと、廊下ですれ違った時、普通に挨拶されて、心臓が跳ねた。周りに人がいなくてよかった」
「廊下で死ぬなよ」
「……で、話を戻すけど」
レオンが改まった顔をした。こいつが真面目な顔をする時は、だいたい正論が来る。
「婚約者がいる身で、何をやってるんだ」
「それは……人助けというか、成り行きというか」
「成り行きで美人からの偽装交際を引き受けるな」
「いや、でも、断れない状況で」
「自分から踏み込んだというか、踏み抜いたんだろ」
「……そうとも言えるし、そうでないとも言えるし」
「どっちだ」
「……そうだ」
俺は観念して認めた。言い訳をすればするほど、穴が深くなる感覚があった。
「ミモザちゃんにバレたらどうするんだ」
「バレなければいい」
レオンが静かになった。俺も静かになった。
沈黙が部屋を満たした。窓の外で鳥が鳴いた。
「……お前、今すごいことを言ったぞ。ミモザちゃんは、お前の侍女への視線も把握してるような人なんだろ。偽装とはいえ交際が露呈しないと思うか」
「……思わない」
「だろ」
俺は頭を抱えた。
「まあ……引き受けてしまったものはしょうがない」
レオンが少し考えるような顔をした。
「人目につくんだろ、偽装交際」
「まあ、そうなる」
「だったら、家族に話しておけ。協力者が必要だ、後から知られるなんて絶対に怖い」
「……分かった。今日中に話に行く」
「強く生きろよ」
「他人事みたいに言うな」
「他人事だよ」
レオンはひらひらと手を振って、帰っていった。
◇
夕食後、俺は覚悟を決めてカティの部屋の扉を叩いた。
「はい」
「……姉様。ちょっといいですか?」
「どうぞ」
扉を開けると、カティは椅子に腰掛けて刺繍をしていた。穏やかな光景だが、俺には油断できない。この姉は、刺繍をしながら人を詰めることができる。
「お話があります」
「座りなさい」
俺は椅子に腰掛け、一呼吸おいてから切り出した。
「実は昨日、学園の帰り道で……リーゼという子爵家令嬢に頼まれて、交際を引き受けまして。それが偽装でして」
刺繍の手が、止まった。次の瞬間、カティはその手に持っていた針を、俺の腕に向けてためらいなく繰り出してきた。
「……あぶな。今、刺そうとしましたよね」
「貴族令嬢にとって刺繍は、たしなみなの。教養なのよ」
「教養ではなく凶器でしょう。たしなみなら、そんな針で狙わないでください」
「狙ってないわよ。気のせい」
「気のせいにしては、狙いが精確でした」
「……刺繍針の扱いが上達しているだけよ。ほめてくれるかしら」
「ほめません」
カティはふふ、と鼻で笑って、針を手の中でくるりと返した。俺はじわじわと後退して、椅子の背もたれに背中をつけた。逃げ場がない。
「……続けなさい」
「月に数回、人目につく場所を一緒に歩くだけでいい、と。報酬は金貨五枚。理由は教えられないと」
「……その、リーゼとかいう令嬢。どんな人?」
「同学年の子爵家令嬢で。銀がかった髪で、背が高くて、立ち姿が絵になる。顔も整ってるし、スタイルもいい。柔らかそうで、なんだかいい香りが。落ち着いた雰囲気で、育ちのよさが滲んでて……あと、困ってるのは確かで、放っておけなくて」
カティの目が細くなった。
「外見のことばかりね。困っているとか放っておけないとか、最後の最後に、おまけみたいに出てきたわよ」
「……」
姉は少しの間、俺を無言で見つめていた。
その目は「呆れ」でも「怒り」でもなく、何かを確かめるような目だった。
カティは刺繍を膝に置いて、ため息をついた。
「……本当に困っているんでしょうね? なら、しょうがないか。大事にならないようにしなさい。ミモザちゃんへの筋は、ちゃんと通すこと」
「……分かった」
「母様と祖母様には、私から伝えておくわ。香水、三本ね」
「三本!? 一本増えた!?」
「相談料と、口止め料と、精神的苦痛への慰謝料。内訳はちゃんとあるのよ」
俺はうなだれながら、金貨五枚の使い道が着々と決まっていくのを感じた。
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