第02話:金貨五枚と柔らかさに釣られて
「この変質者を野放しにしていいのか、俺は」
レオンのぼそりとした声が背中に刺さったが、振り返る余裕はなかった。
リーゼはすでに歩き始めている。俺はひとつ深呼吸して、その後に続いた。
大通りへの分かれ道で、レオンとは別れた。
去り際、俺に向かって「ゴミを見る目」を向けてから、何も言わずに自分の帰り道へと消えていった。
あの目の意味は、俺にも分かっている。
怒られるな。でも、それより今は、目の前のことだ。
◇
リーゼが選んだのは、大通りから一本入った路地にある喫茶店だった。
こぢんまりとした店で、入り口の扉を開けると焼き菓子と茶葉の甘い香りが迎えてくれる。
午後も遅い時間帯のせいか、店内の客はまばらで、隣のテーブルに声が筒抜けになるような心配はなさそうだった。
窓際の席に案内され、俺たちは向かい合って腰を下ろした。
(……いや、待て。俺は今、なにをしているんだ)
頭を冷やそうとしたが、正面にリーゼが座った瞬間に早くも難しくなった。
夕陽が差し込む窓際で、銀がかった髪が光を受けてやわらかく輝いている。落ち着いた所作で茶を注文する姿には、育ちのよさが滲んでいた。
(……柔らかそうだな)
「顔に出ていますよ」
「えっ」
「今、何か余計なことを考えていたでしょう」
「考えていません。真剣に、これからの話に備えていました」
「そうですか」
リーゼはそれ以上追わなかった。俺は姿勢を正した。
しばらくして茶が運ばれてくると、リーゼは両手でカップを包み、ゆっくりと口を開いた。
「改めて、お願いがあります。……私と、交際しているふりをしてほしいのです」
「ふり、ですか」
「偽装です。条件は、月に数回、人目につく場所を一緒に歩いてくれるだけ。それで十分です」
「報酬は」
「金貨五枚。一括でお支払いします」
金貨五枚。俺の頭の中で換算が走る。銀貨に直せば五十枚、銅貨なら五百枚。学生の小遣いとして考えれば、相当な額だ。
(……悪い話ではない。というか、かなり良い話では?)
「ひとつ確認させてください。理由は?」
「教えられません」
「教えられない、ですか」
「はい」
あっさりとした返答だった。嘘をついている様子はない。ただ、言えない事情がある、ということだけが伝わってくる。
俺は少し考えた。
正直に言えば、断りたい理由は複数ある。
まず婚約者がいる。ミモザには先日「続けていく」と心の中で誓ったばかりだ。
世間体も良くない。偽装とはいえ、別の令嬢と歩いている姿を誰かに見られれば、あることないこと噂になる可能性がある。
理由も分からない。何かろくでもない事情に巻き込まれるリスクだってある。
断る理由が山ほどあった。
山ほどあったのだが。
「……なにかお困りごとが?」
俺が聞くと、リーゼは一瞬だけ視線を落とした。
「……はい」
その一言だけ。余計なことは何も言わない。だが、その短い返答の重さが、妙に胸に引っかかった。
(放っておけないんだよなあ)
これは俺の数少ない、というか唯一の欠点だと思っている。
困っている人には、どうにかしてやりたくなる。特に美人の場合は、それが加速する。
「……でも、俺には婚約者がいますし。世間体も良くないし。理由も詳しく教えてもらえないし」
「おっしゃる通りです」
リーゼは頷いた。反論しない。
「……そう簡単にはお受けできないですよ」
「承知しています」
また静かに頷く。責めるでも、哀れみを乞うでもなく、ただ真っ直ぐにこちらを見ている。
その落ち着いた目が、なぜか妙に腹立たしかった。
(なんでそんなに落ち着いてるんだ。もう少し気楽な顔でもしてくれれば、断りやすいのに)
俺が内心ぐるぐるしていると、リーゼは少し体を傾けて、テーブルの上に置いていた俺の手にそっと指先を重ねた。
「……お願いします。……交際している体ですから、人によっては……腕を組む程度のことは、必要になるかもしれません……」
「わかりました。引き受けます」
即答だった。
(……いや、待って。今のは俺じゃない)
(今のは色香に惑わされた俺が言った言葉であって、本来の理性的な俺が言った言葉ではない。つまり責任の所在が曖昧だ。俺に問われても困る。あれはもう一人の俺が発した言葉であり、俺はむしろ被害者側に分類されるのではないか。これなら裁判にも勝てる)
(……というか待て。『腕を組むことも、あるかもしれません』だぞ? この人が俺の腕に……。いや、あの落ち着いた声でそれを言うか? 普通、言うか? 言われた側に、断れる選択肢が存在したか?)
(断れる男、この世にいる?)
(……いない。いないだろ。俺は悪くない)
理性より先に口が動いた自覚は、十分にある。家族に知れたら説教だ。それでも口が動いた。
リーゼは驚いたように目を見開いてから、「……ありがとうございます」と、初めて少しだけ表情をほぐした。
その笑顔を見て、俺は自分の判断が正しかったと思った。三秒くらいは。
(……いや、待て。本当に大丈夫か?)
「ただし、一つだけ条件があります。何かまずいことになりそうな時は、先に教えてください。理由は言えなくていい。ただ、俺が動ける余地だけ、残しておいてほしい」
リーゼはしばらく俺の顔を見ていた。値踏みするのではなく、確かめるような目だった。
「……了解しました」
「では、よろしくお願いします。アルフと呼んでください」
「……リーゼです。よろしくお願いします、アルフ」
店を出ると、すっかり夕暮れが深くなっていた。
帰り道を歩きながら、俺はこれからどう立ち回るかを考えた。
(家族には話しておくべきか。特に、あの姉が後から知ったら、香水代では済まない)
(レオンにも、明日説明が必要か)
頭の中で段取りを組み立てていると、ふと足元に金貨五枚の重みを想像した。
悪くない、とは言い切れない状況だが。
(まあ、なんとかなるだろう)
根拠のない楽観と、多少の後ろめたさを抱えたまま、俺は子爵邸への道を急いだ。
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