第05話:調書を読み終えて
誰も王太子を潰そうと意図したわけではない。だが、あの場にいた全員が、それぞれの理由で、「そうなっても仕方ない」と認めながら黙っていた。驚いた、と言いながら止めなかった者。事実は認めるが余計なことは言わない、と線を引いた者。私見は差し控える、と最初から距離を置いた者。
誰一人、「王太子を守ろう」とは思っていなかった。
誰一人、「王太子を追い落とそう」とも思っていなかった。
ただ、それぞれが自分の都合で沈黙を選んだ。その沈黙が積み重なって、一人の転落を形作った。
悪意がなければ、誰も責められない。だから、誰も裁かれない。だが、結果は起きた。取り返しのつかない形で。王太子は廃嫡となり、あの日の講堂にいた全員の記憶に、光景が刻まれた。
マダム・ローランも、宰相らも、他の貴族たちも、それぞれが「記録のとおり」「差し出口ができなかった」「私見は差し控える」と述べた。どれも嘘ではない。どれも正当な理由だ。しかし、その正当な理由が並んだ先に、一人の人間の転落がある。
娘にとっては、誰も敵に回さなかった、ということだ。味方してくれたわけでもない。ただ、沈黙していた。それでいい。あの場にいた連中が、それぞれの打算で黙っていたのだと、調書を読んだ今の私にはわかる。
◇
ろうそくが随分と短くなっている。火を灯したときの長さを思い出すと、いつの間にかかなりの時間が経っていた。書斎には、頁をめくる音以外、何もなかった。窓の外はまだ暗いが、東の空が薄明け始めていた。一晩かけて、この束と向き合っていたことになる。
机の上に重ねた調書の束を、一度だけ見下ろした。マダム・ローラン、宰相、他の貴族たち、法相。それぞれの証言が、あの事件を別の角度から形にしていた。娘の処遇が決まったあと、国王から調書の閲覧が認められた。謝罪と信頼のしるしだ、と使者は伝えた。何が公式に記録されたのか、自分の目で確かめたかった。娘が王都で何を言い、周囲が何を証言したか。読み終えた今、ようやく全体が一本の線でつながった気がする。
娘は領地に帰ってから、あのバルコニーで紅茶を嗜むのを日課にしている。王都での分刻みの日々とは違う、何の義務もない時間を過ごしている。帝王学の講義も、財務官との打ち合わせも、もうない。ただ、好きなだけ読書をし、地元の菓子を試し、風に吹かれながら過ごしている。
娘の顔を見られる。それだけで、父親としては十分だ。娘が無実で、論理で反論したことには、誇りと安心がある。調書に残る限り、彼女の行動に恥じる点はない。それは、どの証言を読んでも揺らがない。マダムの記録に基づく証言、法相の越権行為の指摘、他の貴族たちの沈黙。どれも、娘の正当性を裏付けている。
それでも、あの結果は、娘一人の力だけではなかった。
マダムは娘を守りつつ、自分が責められない線を引いた。問われなかったことは言わない。記録のとおり、とだけ述べた。
宰相は王太子を止めなかった。式次第に含まれていなかった、と逃げ道を残した。そのうえで、辺境伯家を「有用な危険」として、扱いを誤れば国家を揺るがし得る、と牽制した。
そして、驚いたが差し出口ができなかった、と述べた者。事実は認めるがそれ以上は言わない、と述べた者。私見は差し控える、と述べた者。発言権がなかったからでもあり、黙っていた方が得だったからでもある。
その積み重ねが、あの結果を招いた。娘は利用されたわけではない。ただ、国が動くとき、個人はそうした流れのなかに巻き込まれる。それだけだ。娘を道具にしたわけではない。それでも、結果としては、国政の駒の一つとして動いていた。その手応えが、調書を読んだ今の私にはある。批判ではなく、そういうものだ、という受け止めだ。
彼らへの恩義は薄くなった。それでも、娘を陥れなかった。それだけは、覚えておいてもよい。
娘の正当性は揺らがない。ただ、家としては、自分たちの力が「脅し」として使われたこと、宰相が「辺境伯家の危険性」をにじませていたことも、忘れてはいけない。穀物と国境。国内の生産高の三割、隣国に接する防衛の要。その重要性が、娘の反論のなかで、王都の食料と国防を揺るがす材料として語られた。事実だから、娘が口にしたのは正しい。それでも、中央から見れば、我々は力を持った警戒される存在だ。
国王は、調書の閲覧を認め、写しを送らせてくれた。謝罪と信頼のしるしだ。こちらの顔を立ててくれた。義理は、果たしてもらった。賠償と親書も届いている。娘の将来の自由を約束してくれた。それでも、油断はできない。宰相が我々をどう見ているか、調書の一文にはっきり刻まれていた。有用だが、危険だ。信頼関係の維持が、双方にとって重要である、と。そう見られている以上、距離感は慎重に。
それでも、娘は自由を手にした。彼女はもう、誰かの都合で振り回されなくてよい。
ろうそくの炎が、わずかに揺れた。窓の外の薄明けが、少しずつ広がっている。やがて領地が目を覚まし、政務が始まる。仮眠のあと、食堂で娘に挨拶し、今日も一日を始めるだけだ。まだ朝食には早い。調書は極秘文書だ。机の引き出しにしまい、鍵をかけた。私は書斎を出た。いったん仮眠をとり、目が覚めたら、よい朝だと娘に挨拶をしよう。
お読みいただき、ありがとうございました。
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