10 回想:それは銀銀角のトリプルルッツを決められた様な衝撃で
あの対局のことは、今でもよく思い出す。
■ ■ ■
将棋盤の向かいに座っているのは『神武以来の天才』と言われている天才少女。
しかし、おそらく今の戦況はこちらが有利。
そんな形勢判断の裏付けを兼ねて相手の表情を窺っていると、向こうもこちらを見てきた。そのまま少しの間視線が交差したが……先に逸らしたのは向こう側。
(よしよし。きっと弱気になっているんだな……局面が思わしくないと見て)
現在、奨励会三段リーグ戦の真っ最中。
上位二名がプロになれる中、最大の壁となるであろうこの対局に……コイツに勝つ事だけに標準を合わせて、ずっと準備をしてきた成果がでていた。
(このまま、絶対に勝ちきってみせる!)
脳に大量の酸素が回るように、深呼吸を一つ。
唾液の分泌が減って渇いた喉を潤すため、ペットボトルのお茶を一口だけ含む。
そこから、気合をいれて再度集中。
思考を加速。
そこから数手ほど自然に指し進めた後、こちらから『詰めろ』を仕掛けた。
(これで……どうだ!)
何もしなければ次のターンでお前の王将を打ち取るぞ、という一手だ。
幸い、最後に間違えず『詰み』にまで持っていくいために大切な『持ち時間』も、こちらにだけ大量に残されている。実戦的にこのアドバンテージはかなりデカい。
『50秒〜、1……2……』
対局時計が読み上げる秒読みと詰めろのプレッシャーに追われた相手が、少し慌てた手つきで着手した。
それを見て、俺は膝の上で拳を握り締める。
(よし!……勝った!)
彼女の指した手が、こちらが考えていた候補手のどれとも違っていたからだ。一目したところ、良い手とも思えない。
つまり、『苦し紛れの一手』であり、悪手である可能性が非常に高かった。
(これに正しく対応すれば、そのまま一気に勝ちまで持っていけるはず)
今までは相手の得手不得手を考慮し、リアクションを確認しながら指してきた。
しかしここから先は不要だろう。つまり、純粋な計算だけで良い。
将棋は『逆転のゲーム』と言われている。
指し手に膨大な分岐点があり、その全てを人間が読み切る事は限りなく不可能に近いからだ。
しかし、選択肢が限定される最終盤で、かつ時間が沢山ある状況に限れば奨励会三段リーグの上位層――つまりプロ入り間近の俺のような奴が間違える可能性は極めて低い。
現状を大富豪に例えるなら、圧倒的に自分の手札がよくてほぼ確実に勝てるような状況だった。
将棋において、苦しい局面で諦めずに思考を続けるのはとても辛いが、こういう場面で考えるのは凄く楽しい。
全く苦にならず、むしろ丁度いい難易度のパズルを解くような面白さすらある。
そんな訳で、鼻歌でも歌いだしそうになるのを堪えながら温泉気分で局面を読んでーー読んでーー
(あれ?)
おかしいな。
このルートじゃ勝てないのか。
(じゃあ、こっちから……)
こっから、こうなって、こうで、こうで、こう、こう、こうだから……あれ?
(ならこっちだ!)
こう、こう、こう、こうこうこうこ……?!
掌に、じわりと汗が滲むのがわかった。
もしかしてこれ……
(こっちが大分悪い、のか……?)
ぐわん、と景色が揺れる。
ライフルで脳天をぶち抜かれたような衝撃だった。
俺が全く読みに入れておらず、ただの苦し紛れだと思っていた彼女の一手。
しかし、それは……深く読み進めると『盤上この一手』とでもいうべき最善手であり、景色を一変させる絶妙手だったらしい。
そこから再計算すると、この先の展開は向こうの勝ちへと美しく収束していくものだった。対局の結果が出る前に考えるべき事ではないと分かっていながら、脳が勝手に『どこから俺が悪くなったのか』という検証を始めてしまう。
その結果は……さっきの自分の一手も、その前に指した一手も、俺がミスをしたとは思えないというものだった。
(ならまさか……もっと早い段階から?)
そこで、ふとこんな思いが頭をよぎる。
相手は、俺よりもずっと早い段階からこの展開になると気づいて、先の先まで深く読んでいたのではないか?
全力疾走した後のように呼吸が荒くなる。
心臓がバクバクして、胸が痛い。
『秒読みを始めます』
気がつけば、沢山あったはずの持ち時間が尽きていた。
『50秒〜、1……2……』
今まで時間をかけて検討した手は全て駄目。
(なにか、何か別の手は!?)
そんな焦燥にかられる中で、時間に追われ焦って着手した次の瞬間、全身から血の気が引いた。
それが大悪手だと気づいたからだ。
つまり、こちらの負けに直行する一手。
「はぁ……」
向かい側から、小さなため息が聞こえた。
それは、勝利した安堵によるものかもしれない。
だが、もしかしたら……
『美しい収束を、悪手でぶち壊しやがって』
そう言う類のものかもしれない。
恥ずかしさと悔しさで死にそうになる。
相手の顔を見るのが怖いが、どんな表情をしているのかわからないのも怖い。恐る恐る、視線を上げてしまう。
残念そうな顔した彼女と目があった。
勝負をしていた先程までは前傾姿勢で身体を小刻み揺らしていた少女は今、綺麗な正座で背筋を伸ばしている。
もう勝負はついている。だが、『良い手を指して勝てた』という高揚感はないーーそんな感じの態度だ。
反射的に、顔を伏せる。
精神的なダメージを、最小限に抑えたかった。
動揺を、周囲に悟らせたくはなかった。
プロになるためのリーグ戦は続くから。
今日はこの後もう一局あって、そこで戦う相手にも弱みは見せたくないから。
そんな思いから、せめて声を震わせずに投了を宣言しようと思考を切り替える。
悔しさを押し込め、冷たくなった指先で終わった将棋を何手か引き延ばし、必死に呼吸を整えているとーー
「ごめんなさい……」
そんな呟きが聞こえてきた。絶対的上位者からの、持たざるものに対する憐れみだろうか。
ふざけんな……
「負けました」
そう告げた俺の声は、自分でも驚く程平坦だった。今は1秒たりともこの場にいたくなくて、感想戦は希望しない事を告げ足早に立ち去る。
くそ……天才め。
結局このシーズン、俺はプロ入りを逃した。




