9 A5ランク和牛の罠! 鉄壁の『居留守作戦』と哀しき逃亡
定時の17時30分。
終業のチャイムが社内に響き渡るや否や、修平はタイムカードを記録し、鞄をひったくるように掴んで逃走した。
(脱出……! 完全なる脱出だ……!! 今日はジムもキャンセル! 書道教室も休む! 直帰一筋!!)
エレベーターを使わず非常階段を駆け下り、駅までの道のりを脇目も振らずにダッシュ。
電車内でも存在感を消し去り、18時00分、奇跡のスピードで自室のマンションへ滑り込んだ。
「ハァ……ハァ……勝った……勝ったぞ……!!」
修平は玄関の鍵を二重に締め、チェーンをかけ、ドアスコープにマスキングテープを貼り付けた。
さらに部屋中の照明をすべて消し、遮光カーテンをピッチリと閉め切る。
(今日の俺は存在しない。俺はただの無だ。誰が来ようと、地球が滅びようと俺は居留守を貫く……!!)
スーツのままベッドへとダイブし、頭から羽毛布団をスッポリとかぶる。
暗闇と静寂の中、修平の傷ついた心とプライドが、少しずつ保温されていく。
(ふぅ……落ち着く。やっぱり家は最高のシェルターだ。年収がどうとか社内MVPがどうとか、布団の中に入っちまえば全部関係ねぇ……。俺は43歳、平穏を愛するただの静かな男だ……)
布団の温もりを感じながら、修平がようやく安堵の溜め息を漏らした、その時だった。
ピンポーン。
(来た……ッ!!!!)
修平の身体が布団の中でカチンコチンに硬直した。
(落ち着け……想定内だ。居留守の基本は『息を止める』ことだ。気配を消せ。俺は粗大ゴミの布団だ……)
ピンポーン。ピンポーン。 ガチャガチャ……。
ドアノブが回される音が響く。
(鍵は閉めてある! チェーンもかかっている! 侵入は不可能だ!!)
すると、ドア越しに聞き慣れた、澄んだ声が微かに響いてきた。
「野島さ〜ん? 17時30分ピッタリにダッシュで退社するの、エレベーターホールから見えてましたよ〜?」
(見られてたーーーーッ!?!?)
「定時ダッシュして、ジムの予約もキャンセルされてたので、絶対お部屋にいますよね? 居留守使ってますよね?」
(ぐぬぬぬ……!! 観察眼が社内MVPレベルすぎる……!! だが破れるものなら破ってみろ! 俺の鉄壁の防衛ライン(施錠)は絶対に突破できん!!)
修平は布団の中で固く目を閉じ、地蔵のように動かない意思を固めた。
すると、外から「カサカサ……」と紙を触るような音が聞こえた。
「野島さん。今日、マーケティング部で試食用の高級和牛のステーキ肉が余っちゃったんです。野島さん、お肉好きですよね? お礼に一緒に焼いて食べようと思って持ってきたんですけど……」
(……なッ!? 高級和牛……!?)
「すっごく良い霜降りで、200gで5000円くらいするA5ランクなんですけど……。野島さんが出てきてくれないなら、私一人じゃ食べきれないし……今夜は寂しく一人で焼いて食べようかな……」
修平の脳内で、ジューッと音を立てて焼ける最高級和牛の映像が鮮明に再生された。
昨日のタチウオの激ウマぶりが記憶に新しいだけに、天野玲奈が調理するA5ランク和牛の破壊力は容易に想像がつく。
(うっ……ぐぐぐぐ……っ!! 卑怯だぞ天野玲奈!! 43歳独身男性の『胃袋』をダイレクトに揺さぶってくるんじゃない!!)
「あ、そうだ。このお肉、会社のお金じゃなくて私の自腹で買ったプレゼントなんです。野島さん、いつも頑張ってるから……」
ドスッ。(自腹……! すなわち、A5ランク和牛を日常的に買える圧倒的な甲斐性の差……! 彼女に他意がないからこそ、その無意識の暴力が俺のメンツを粉々に打ち砕く……!!)
(うぐぁッ……!! 胃袋を刺激された上に、またしても圧倒的な甲斐性の差を見せつけられた……!!)
「じゃあ……野島さん、本当に居ないみたいなので、私、お隣に帰りますね……。和牛……一人で食べます…………」
静かになる玄関前。
布団の中で、修平は汗だくになりながら激しい葛藤に苛まれていた。
(帰った……? 本当に帰ったのか……? 待てよ、居留守がバレてるのにこのまま無視し続けたら、明日からどんな顔して会社で会えばいいんだ……!? 『高級和牛のオファーを居留守で拒絶した情けないおじさん』として一生語り継がれるぞ……!?)
修平はバッと布団を跳ね上げた。
「……クソッ!! 俺のリスク管理回路が『ここで出ないと明日以降の精神的ダメージが最大化する』と警告を出している……!! 決して和牛に釣られたわけではない!! これは今後の人間関係を円滑にするための『苦汁の決断』だ!!」
自分に全力で言い訳をしながら、修平はボサボサの髪を整え、ドアチェーンを外して勢いよくドアを開けた。
「……天野さん! ちょっと待ちなさい!!」
廊下には——
特大の和牛のパックを掲げ、まんまと誘い出された修平を見て「作戦成功っ」と言わんばかりの、本日一番の悪魔的な笑顔を浮かべた天野玲奈が立っていた。
「ふふっ、やっぱりいましたね、野島さんっ。 お邪魔しまーす!」
(……だまされたーーーーーッ!!!!)
こうして、修平の「完全居留守作戦」は開始わずか10分で崩壊し、彼の部屋で「最高級和牛パーティー」が開催されることが確定したのだった。
「あ、無理!! やっぱ和牛とかそういう問題じゃない!! マジで無理!!」
修平の脳内で、理性のラストピースがパツンと音を立てて弾け飛んだ。
A5ランク和牛の霜降りの輝き。
目の前で可愛く悪魔的に微笑む27歳・高収入・社内MVPの超絶美女。
そして何より、「あっさり誘い出されてしまった自分自身の情けなさ」。
それら全てが渾然一体となって修平の胸を襲い、彼の精神キャパシティは完全にオーバーフローを起こした。
「すまん天野さん!! 俺には無理だーーーーーッ!!」
「えっ!? 野島さん……ええっ!?」
和牛を掲げて「お邪魔しまーす」と踏み込もうとした天野の脇をすり抜け、修平は廊下へと飛び出した。
鍵? 締めるわけがない。
部屋の明かり? 消す暇なんてない。
持ち物は? ポケットに突っ込んだスマホただひとつ!!
(逃げるんだ!! 自分のテリトリー(自室)で戦おうとするから負けるんだ!! ホームグラウンドを捨てる! これぞ究極の危機管理・戦術的脱出だーーーーーッ!!)
43歳・営業マンのプライドと生存本能を賭けた全開ダッシュ。
革靴を突っ掛けただけの足で、マンションの階段を2段飛ばしで駆け下りていく。
「野島さ〜ん!? 鍵!! 鍵かかってないですよ!! スマホしか持ってないじゃないですか!!」
上階から天野の困惑と焦りの混ざった叫び声が追いかけてくるが、修平の耳には届かない。
(鍵なんてどうでもいい!! マンションのセキュリティを信じる!! 俺はいま、俺の精神の平穏を守るために走っているんだ!!)
夜の住宅街へ飛び出し、街灯の光の中をひたすら疾走する修平。
ふと手に握りしめたスマホを見ると、画面には天野からの着信履歴とLINEの通知がすでに3件。
『野島さん!? どこ行ったんですか!?』
『お肉冷めちゃいますよ!!』
『鍵開けっぱなしなので、私、野島さんの部屋で待ってますからね!?』
(部屋で待つなーーーーーーーッ!!!!)
夜風を切りながら、スマホを握りしめて絶叫する修平。
家を追い出された(自ら逃げ出した)43歳・独身。財布もない。鍵もない。
あるのはフル充電のスマホと、16歳下の超絶美女に追われているという凄絶な現実だけ。
修平は公園のベンチへと滑り込み、肩で激しく息をつきながら、画面に表示された『天野玲奈』の文字を呆然と見つめた。
「俺……これからどこへ避難すればいいんだよ……」
修平のリスク管理計画は、ついに「ホーム喪失」という前代未聞の領域へと突入していった。
公園の夜風が、汗ばんだ修平の首筋を冷たく撫でていく。
途中のコンビニで購入した缶チューハイの水滴を指で拭う。
ベンチに深く腰掛け、街灯の薄暗い光の下で、修平は缶チューハイ(ストロング系・レモン・9%)のプルトップを静かに引いた。
プシュッ。
「……ゴクッ……ゴクッ……ぷはぁっ……」
喉を焼き切るようなアルコールの刺激。
だが、その刺激をもってしても、胸の奥で荒れ狂う「恐怖」と「困惑」は1ミリも紛れなかった。
「……怖い。マジで怖い……天野玲奈が本気で怖い……!!」
夜の誰もいない公園で、缶チューハイを握りしめながらブツブツと独り言を呟く43歳。
周囲から見れば完全な不審者だが、今の修平にそんな世間体を気にする余裕など存在しなかった。
(なんなんだよアイツは……怪獣か!? 捕食者か!? なんで16歳も年下で、社内MVPで、高収入で、モデルみたいな超絶美女が、俺みたいな枯れたおっさんをそこまで執拗に追いかけてくるんだよ!! 意味が分からなさすぎてマジで恐怖しかねぇよ!!)
恐怖のポイントは「好意の理由が理解不能」なことだった。
もし修平が石油王の息子だったり、裏で怪しいIT企業のオーナーだったりするなら納得もいく。だが、彼はただの泥臭い43歳の営業マンだ。
(普通、俺くらいのスペックの男には『適度な距離感』ってものがあるだろ!? なのにあの子は『家まで押しかける』『高級和牛で釣る』『居留守を完璧に見抜く』『鍵が空いてるから部屋で待つ』……! 行動力が特殊部隊のそれなんだよ!! 怖すぎるんだよ!!)
チューハイをもう一口煽る。冷たい液体が胃に落ちていくが、心は冷え切ったまそうだ。
(だいたい『部屋で待ってます』ってなんだよ……俺の家だぞ!? なんで追い出された俺が夜の公園で500mlのチューハイ飲んで避難生活送ってんだよ……! 本当に勘弁してくれ……俺はただ、静かに定時で帰って、ネットで釣りの動画見ながらビール飲んで寝たいだけなんだ……)
本気で嫌だった。本気で勘弁してほしかった。
平穏を愛する修平にとって、天野玲奈という存在は「平和な日常生活を根底から揺るがす美しき災害」そのものだった。
スマホがポケットの中でブブッ……ブブッ……と振動する。
恐る恐る画面を開くと、LINEの通知。
『野島さん、お肉焼かないと傷んじゃいますよ?』
『あと、野島さんの冷蔵庫にあった麦茶、勝手にいただきました』
『どこにいるんですかー? 寒くなってきたから早く帰ってきてください』
(勝手に冷蔵庫開けて寛いでるんじゃねぇぇぇぇぇええええッ!!!!)
公園のベンチで、修平は頭を抱えて絶叫した。
我が家はすでに占領された。
手元には残り半分のチューハイと、残高数百円の電子マネーが入ったスマホのみ。
「頼む……誰か……誰かこの状況の正解を教えてくれ……俺は一体どこへ行けばいいんだ……」
夜空を見上げる修平の目に、うっすらと涙が浮かんでいた。
43歳・営業・野島修平。彼の人生史上最大のピンチ(と、一方的すぎる愛の猛攻)は、今夜も絶賛継続中だった。




