8 圧倒的格差。干からびた43歳と、オフィスでの惨絶な朝
「はい、ごちそうさま。帰って下さい」
口の端についた醤油をティッシュで拭い、修平は大急ぎで立ち上がった。
タチウオの激ウマぶりに一瞬だけ意識を飛ばしかけたが、ここで流されたら本当に終わりだ。
43歳の理性と、今や粉々になったプライドの破片を必死にかき集め、冷徹な「塩対応」を決め込む。
「ごちそうさまでした。味は完璧、火の通りも文句なし。これで『お隣さんとのタチウオ実食会』は終了です。はい、ご自身のクーラーボックスとエプロンを持って、お隣のお部屋へお戻りください」
完璧な手際で空いた皿をシンクへと下げ、洗剤の泡を立て始める修平。
「俺はもう片付けモードに入ったから会話は受け付けない」という強力な無言の拒絶アピールだ。
しかし——
「野島さん、洗うの代わります! 私が言い出したんですから!」
「いいから!! 触るな!! 包丁が沈んでて危ない!!」
修平が咄嗟にブロックするも、天野は引くどころか、むしろ「作戦大成功」と言わんばかりの満足げな笑みを浮かべていた。
「……ふふっ。『もう絶対帰す』って顔してますね。でも、私、今日はこれで十分満足です」
「え……?」
予想外の素直な撤退宣言に、スポンジを握ったまま固まる修平。
天野は自分のピンクのエプロンをパタパタと丁寧に取り外すと、持ってきていたクーラーボックス(半分になったタチウオ入り)を抱え、玄関へと向かった。
「今日は本当にありがとうございました。仕掛けを結んでくれたのも、危険から守ってくれたのも、お魚捌いてくれたのも……全部すごく嬉しかったです」
靴を履き、ドアノブに手をかけた天野が、最後にクルリと振り返る。
夕暮れの街灯が廊下から差し込み、彼女の美しい横顔を優しく照らしていた。
「野島さん。私、諦めませんからね? 会社でも、書道教室でも、ジムでも、船でも……これからもずーっと、野島さんの隣をキープしますので!」
「キープすな!! 頼むから解約してくれ!!」
「ふふっ、おやすみなさい、野島さん。また明日、会社で!」
バタン。
静まり返る玄関。
修平はシンクに手をついたまま、ガックリと頭を垂れた。
(……逃げ切れなかった。リスク回避どころか、相手に完全な拠点(自室)を特定され、逃げ場が完全に塞がれただけだった……)
明日からの生活を想像する。
出社すればマーケティング部の社内MVP美女からの視線。
火曜の夜は書道教室で隣の席。
深夜のジムではランニングマシンの隣。
休日は東京湾の船の上。
そして、ドアを開ければすぐ隣の部屋——。
「……俺の平穏な日常は、どこへ行ったんだ……」
43歳・独身、野島修平。
彼のリスク管理(防衛戦)は全敗に終わったが、彼の「絶対に退屈しない日常」は、今まさに始まったばかりだった。
玄関のドアが閉まり、静まり返った部屋。
修平はキッチンの床にそのままドカッと座り込み、両手で顔を覆った。
「マジ無理……マジで無理……」
先ほどまでのドタバタ劇が嘘のように、静寂が部屋を支配する。
そして静寂が訪れたことで、彼女が残していった「圧倒的な現実」が、修平の心に容赦なくズシリと重くのしかかってきた。
(マーケティング部最年少グループリーダー……社内MVP……自力でマンション購入……年収大勝……)
「うぐぅ……ッ!!」
胸をかきむしりたくなるほどの敗北感。
営業部で15年以上、汗水垂らして泥臭くノルマを追いかけ、ようやく43歳でそれなりの年収とポジションを手に入れたつもりだった。
自分なりに「大人の男」として自立し、地に足をつけて生きてきた自負があったのだ。
それが、まさか16歳も下の20代女子に、仕事の実績も、社内評価も、稼ぎも、さらには持ち家(マンション購入)という甲斐性すらも、完膚なきまでに上回られていたとは。
「俺の15年間は一体なんだったんだよ……俺の立場、完全に『ヒモ候補のおじさん』じゃねぇか……」
膝を抱え、体育座りのまま部屋の天井を仰ぐ修平。
天野玲奈(27歳)の顔が脳裏に浮かぶ。
超絶美女で、性格も良くて、自分を真っ直ぐ好きだと言ってくれて、その上仕事もできて稼ぎも良い。
少女漫画でも高スペックすぎるハイスペック女子だ。普通なら「男の夢」みたいなシチュエーションかもしれない。
だが、昭和生まれ、43歳、営業マンの変なプライドが、それをどうしても素直に受け入れさせてくれなかった。
(無理だろ……付き合ったとして、デートの会計どうすんだよ。『あ、野島さん、私の方が稼いでるので多めに出しますね!』とか言われたら俺、その場で泡吹いて倒れるぞ……!? 奢ったら奢ったで『無理しないでくださいね』とか気遣われて死亡確定だろ……!)
自分の不甲斐なさと、どう足掻いても埋まらない「格差」に、修平の自己肯定感は完全に底を突いていた。
「はぁぁぁぁぁぁ……」
今日何十回目かわからない溜め息を吐き出し、修平は倒れるように床に寝転がった。
タチウオの香ばしい匂いが、まだ部屋に少し残っている。味は本当に、絶品だった。
「……美味かったな、タチウオ」
ポツリと呟いた自分の声が、虚しくリビングに響く。
明日になれば、また出社だ。
営業部のフロアから12階のマーケティング部を見上げるたびに、俺は彼女の年収と実績を思い出してヘコむことになるのだろうか。
「頼むから……明日、社内で俺に話しかけないでくれよ天野さん……マジで俺の心が持たないから……」
修平は静かに目をつぶり、自分のプライドの葬式を心の中でひっそりと執り行ったのだった。
翌朝、8時45分。某大手IT企業・12階。
修平は、まるで魂を抜き取られた抜け殻のような足取りで自分のデスクに辿り着いた。
「おはようございます、野島さん。……あれ? なんか今日、姿が小さくないですか?」
後輩の若手営業マンが心配そうに声をかけてくるが、修平の耳には届かない。
(小さいんじゃねぇ……萎れてんだよ……)
パソコンを立ち上げ、社員用ポータルサイトを開く。
無意識のうちに全社検索フォームへ指が伸びていた。
『天野 玲奈』
カチッ。
画面に踊る、眩しすぎる経歴の数々。
【2025年度 社内MVP(最優秀社員賞)】
【マーケティング部 第3グループリーダー】
【新規事業開発プロジェクト 主任マーケター】
プロフィール写真の彼女は、社内報のインタビューで爽やかな笑顔を弾けさせていた。
キャプションには『目標は年次に関係なく、圧倒的な成果で会社を牽引することです!』の文字。
(圧倒的すぎるだろ……眩しすぎて画面が直視できん……)
修平の視線がスッと下へ移動する。
そこには社内グループウェアの「本日のスケジュール」一覧。
天野 玲奈(Mktg)
09:00 - 役員会議
11:00 - 外資系クライアント商談
14:00 - 全社戦略ミーティング
16:00 - メディア取材対応
(役員会議でプレゼン……取材対応……。片や俺は、今から10時半に『いつもの得意先へノベルティのカレンダーを配る仕事』だぞ……? なんだこの圧倒的な社会的存在価値の差は……)
修平はデスクに突っ伏した。
43歳、営業一筋。地道にコツコツと信頼を積み上げてきた自負はあった。
だが、目の前に突きつけられた「怪物級のハイスペック27歳」の現実が、彼の男としてのプライドを容赦なくミキサーにかけて粉砕していく。
「野島さーん、マーケティング部から今期の販促資料届いてまーす」
「……うい」
力なく返事をし、回覧されてきた書類を受け取る。
表紙には『作成者:天野 玲奈』。
美しいフォント、完璧なレイアウト、ぐうの音も出ないロジカルな市場分析。
(資料まで完璧かよ……! 隙がない! 隙が一切なさすぎる!! 俺が書いてる営業日報なんて『今日は手応えがありました!』レベルだぞ!? 恥ずかしい! 43年間生きてきてこんなに恥ずかしいことあるか!?)
修平の体感サイズが、いよいよ「のど飴」くらいまで縮んでいく。
その時だった。
「野島先輩、お疲れ様です!」
デスクの横から、明るく澄んだ声が響いた。
ガタタッ!!と椅子を鳴らして跳ね起きる修平。
そこには、パリッとしたオフィスカジュアルに身を包み、書類のファイル(※修平の部署への共有資料)を抱えた天野玲奈が立っていた。
周囲の社員たちが「あ、噂の天野さんだ」「相変わらず綺麗だな」「営業部に用事?」とソワソワし始めている。
(頼むから社内で接触してくるなと言っただろうがぁぁぁ!!)
心の中で叫びつつも、修平はかろうじて首の角度を上げ、消え入りそうな声で応じた。
「……あ、天野さん。お疲れ様です。資料、ありがとうございます……」
「いえ! こちらこそいつも営業部の皆さんにはお世話になっています!」
完璧なビジネススマイル。周囲への気配りも完璧。
だが、天野は修平のデスクに資料を置く際、周囲から見えない角度で、すっと修平の顔を覗き込んできた。
(……野島さん、すっごく顔色悪いですけど大丈夫ですか? 昨日のタチウオ、胃にもたれちゃいました……?)
声のトーンを落とし、本気で心配そうに上目遣いで囁いてくる。
(胃にもたれたんじゃない……俺のプライドが胃潰瘍を起こしてるんだ……!)
「……大丈夫です。ただの……加齢による疲労です……」
「えっ? 加齢……? 何言ってるんですか、野島さん、昨日あんなにかっこよかったのに!」
「かっこよかった」というワードが聞こえた瞬間、近くの若手営業マンが「えっ? 昨日……?」とこちらを二度見した。
(喋るな!! 社内で怪しまれるような匂わせ発言をするなッ!!)
修平は咄嗟に自分のデスクの書類の山を盾にし、必死の形相で身を隠した。
「とにかく! お仕事お忙しいでしょうから! 役員プレゼン頑張ってください! では!!」
全力の「では(社内業務終了モード)」。
天野は「もう、すぐそうやって逃げるんだから……」と言いたげにクスッと笑うと、小さく手を振って「後でジムで!」と口パクで残し、颯爽とマーケティング部へと戻っていった。
去っていく天野の背中は、まさに「できるビジネスウーマン」そのもので、社内の誰もが憧れの眼差しを向けている。
残された野島修平(43歳・営業・年収負け)。
デスクにアゴを乗せ、完全に萎れて干からびた雑草のようになった彼は、ポツリと呟いた。
「……なぁ……誰か俺に……ノットの結び方以外の取り柄をくれ……」
修平のプライド再建計画は、未だ目途すら立っていなかった。




