10 我が家を奪われた男。最終奥義『後輩への丸投げ』と絶対的敗北
ベンチの上で小さく丸まり、何度も寒さで目を覚ましながら迎えた、最悪の朝。
東の空が白み始めると同時に、修平の体のあちこちが悲鳴を上げていた。
バキバキに痛む腰、冷え切った関節、そしてストロング系チューハイがもたらした重い頭痛。
(……俺は何をやっているんだ……43歳にもなって……公園で野宿……??)
ポケットから取り出したスマホの画面には、天野玲奈からの大量のLINEと着信履歴。
それらを直視する勇気は到底なく、修平は震える指で同僚のLINEを開いた。
『すまん、明日は遅刻する』
送信ボタンを押すと同時に、修平の口から重く、深い、魂の抜けたような溜め息が漏れ出た。
(遅刻どころか、着替えもない……歯磨きもしてない……スーツはシワシワ……。だが、家には帰れない。あいつ(天野玲奈)がまだ俺の部屋に潜伏している可能性がある……!!)
「怖い……本当に無理だ……」
朝のラジオ体操に集まり始めたお年寄りたちの「あのおじさん大丈夫かしら」という視線を痛烈に浴びながら、修平はベンチからゾンビのように立ち上がった。
手元にあるのはスマホひとつ。電子マネーでコンビ二の温かいお茶と使い捨て歯ブラシを買い、公園の水道で虚しく歯を磨く。
鏡に映る自分の顔は、とても上場企業の営業マンとは思えないほどドス黒く萎れており、まるで荒波にもまれたタチウオのようだった。
(なんなんだよ……なんなんだよマジで!! 俺が何をしたってんだよ!! 普通に生きさせてくれよ!!)
朝7時半。本来なら出社準備をし、エレベーターで彼女と鉢合わせないよう秒単位で計算して家を出る時間だ。
しかし今の自分は、我が家を追われたホームレス状態。
(会社には行かなきゃならない……だが、あの格好で出社すれば『野島さん、どうしたんですか!?』と社内で騒ぎになる。そしてマーケティング部のあいつが聞きつけて飛んでくる……)
詰んでいる。どう転んでも詰んでいる。
スマホがブブッと震えた。同僚からの返信だ。
『了解です! 野島さん大丈夫ですか? なんか事件ですか?』
「……事件だよ。巨大な人災だよ……」
修平は公園のベンチに再び崩れ落ち、頭を抱えた。
朝の清々しい太陽の光が、自分の哀れさと、逃げ場のない現実を残酷なまでに照らし出していた。
午前8時15分。マンションから徒歩2分、電柱の影。
スーツのジャケットを脱いで手に抱え、帽子代わりにハンカチを頭に乗せた修平は、まるで張り込み中の刑事のごとく、鋭い眼光で自室マンションのエントランスを睨みつけていた。
(出ろ……出社しろ天野……! お前の定時出社パターンは把握している……! 8時20分にはエントランスから出てくるはずだ……!!)
冷え切った朝の空気の中、公園野宿でバキバキになった身体を電柱に押し付け、息を殺す修平。
通行人の通勤サラリーマンたちが「あの不審者何やってんだ」という目で通り過ぎていくが、今の彼にとってそんな視線はかすり傷にもならない。
(お前が出社した瞬間に俺は部屋へダッシュ! 着替えとシャワーを速攻で済ませて、何食わぬ顔で遅刻出社する……! これが俺の弾き出した唯一の勝利方程式だ!!)
そして、運命の8時20分。
カチャ。マンションの自動ドアが開き、一人の女性が姿を現した。
パリッとした白のブラウスにミントグリーンのフレアスカート。手には高級感のある通勤バッグ。
社内MVP・天野玲奈(27)である。
その表情は……どこか非常に満足気で、なんだか心なしか肌のツヤが良い。
(……ッ!! 出てきた!!)
電柱の陰に限界まで身を潜める修平。心臓が早鐘のように鳴り響く。
天野は一度立ち止まり、チラリと修平の部屋(窓は閉まり切っている)を見上げると、フッと愛おしそうな、そしてどこか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
(ふふっ……野島さん、どこで朝を迎えたのかなー……)
(笑うな!! 悪魔かお前は!!)
天野がヒールを鳴らして駅の方角へと歩き出し、その背中が角を曲がって完全に消えた——まさにその瞬間。
「今だーーーーーッ!!!!」
修平は電柱の陰から飛び出すと、43歳とは思えない爆発的なスプリントでマンションのエントランスへと雪崩れ込んだ。
エレベーターを待つ時間すら惜しい。階段を3段飛ばしで駆け上がり、我が家の扉の前へ。
ドアノブに手をかける。
「頼む……鍵が開いててくれ……!」
ガチャッ。
ドアはあっけなく開いた。修平は滑り込むように室内へ飛び込み、即座に鍵とチェーンをダブルで掛けた。
「ハァ……ハァ……勝った……!! 我が家を取り戻したぞーーーーッ!!」
玄関でガッツポーズを決める修平。
しかし、安息したのも束の間。修平の視界に、リビングの光景が飛び込んできた。
ピカピカに磨かれたキッチン。テーブルの上には、丁寧にかぶせられたラップと、1枚のメモ用紙。
メモには、あまりにも綺麗な丸文字でこう書かれていた。
『野島さんへ
昨日は高級和牛、とっても美味しかったです! 野島さんの分は綺麗に焼いて冷蔵庫に入れてありますので、レンジで温めて食べてくださいね。
あと、勝手にシャワーとお布団お借りしちゃいました! すっごくぐっすり眠れました!
あ、野島さんのバスタオル、いい匂いですねっ。
それでは、会社で待ってます!
玲奈より』
「…………………………」
修平の手に持っていたハンカチが、ハラリと床に落ちた。
(俺の……俺のベッドで……俺のバスタオルを使って……和牛食って熟睡していっただと……??)
自分の家なのに、部屋中にうっすらと漂う彼女の上品な甘い香り。
そして冷蔵庫を開ければ、完璧な火加減で焼かれたA5ランク和牛のステーキが、行儀よく出番を待っていた。
修平は崩れ落ちるようにキッチンの床へ膝をついた。
「俺……俺……家すらも侵略されてるじゃねぇか……ッ!!」
恐怖と敗北感、そしてなぜか空腹の腹から響いた「グゥ〜」という情けない音。
修平の遅刻確定の朝は、あまりにも惨絶な敗北の味で満たされていた。
「野島さん……? 大丈夫ですか……? 本当に大丈夫ですか……!?」
出社した営業部のフロア。
デスクに座り、両膝を抱えてカタカタと震える修平の姿に、後輩社員たちが青ざめた顔で集まってきた。
目の下には色濃いクマ。髪は寝癖と公園の夜風でボサボサ。スーツはシワシワで、口元からは消え入りそうな声で「怖いよ〜……怖いよ〜……」と壊れたレコードのように呪文が漏れ続けている。
昨夜の野宿の疲労、プライドの崩壊、我が家を侵略された恐怖、そしてA5ランク和牛を一口も食わずに飛び出してきた空腹——。
43歳・泥臭い営業マンのライフゲージは、すでに「1」すら残っていなかった。
「野島さん、熱があるんじゃないですか!? 病院行きますか!?」
「いいえ……病院では……治らない……」
虚ろな目で天井を見つめる修平。
彼の脳内では、あの綺麗な丸文字のメモが無限ループで再生されていた。
(『野島さんのバスタオル、いい匂いですね!』……『野島さんのバスタオル、いい匂いですね!』……ヒィッ……!! 自分の部屋なのに自分の匂いじゃない……! あいつの匂いに染め上げられている……!!)
逃げ場はない。我が家はすでに敵の補給基地と化し、自分は公園で野宿するハメになったのだ。
その時だった。
コッ……コッ……コッ……
営業部のフロアに、規則正しく響くヒールの音。
修平の全身の毛穴が一斉に開いた。
(き……来たァァァァァァッ!! パブロフの犬ばりに体が恐怖を覚えてやがる……!!)
「失礼しまーす。営業部の方に、追加のマーケティング資料をお持ちしました」
透き通るような明るい声。パリッとした服に身を包み、社内MVPの圧倒的なオーラを纏った天野玲奈が、書類の束を持って入ってきた。
「あ、天野さん! いつもすみません!」
後輩たちが対応する中、天野の視線がスッとフロアの奥——ゾンビのように萎れきっている修平へと向けられた。
彼女の瞳が一瞬、心配そうに揺れたかと思うと、すぐさま「やっぱり野宿したんですね……」と言いたげな、いたずらっぽくも愛おしそうな光を宿した。
「野島先輩っ。お体、大丈夫ですか? なんだか、とっても『お疲れ』のようですが……」
(話しかけるなーーーーッ!! 近寄るなーーーーッ!!)
天野が歩み寄ってくる一歩ごとに、修平の体感寿命が5年ずつ縮んでいく。
天野は修平のデスクに近づくと、周囲に聞こえないギリギリの小声で、とびきりの笑顔を添えて囁いた。
(……野島さん、お肉食べなかったんですね? 冷蔵庫にそのままありました。……あと、今夜は私、ちゃんと自分の部屋にいますから。安心して帰って、シャワー浴びて、お肉食べてくださいね?)
(……ヒッ……!!)
(あ、でも……もし寂しかったら、いつでもお隣のインターホン押してくださいね)
ふふっ、と可愛らしく笑うと、天野は「では、お仕事頑張ってください!」と爽やかに去っていった。
去り際、彼女の髪からフワリと漂ったのは——昨夜、修平の部屋に残されていたのと同じ、甘く上品な香りだった。
「野島さん……天野さん、なんか野島さんにだけ優しくないですか? いいなぁ……」
羨ましそうに言う後輩の声を、修平は遠い世界のことのように聞いていた。
(優しい……? 違う……これは『捕食者の余裕』だ……! 俺は生かさず殺さず、あいつの掌の上で転がされているんだ……!!)
修平はデスクに突っ伏し、そのまま二度と顔を上げようとしなかった。
「怖いよ〜……帰りたくないよ〜……でも会社にも居たくないよ〜……」
43歳・野島修平。彼の心は完全に折れ、今やただの「天野玲奈におびえる小型草食動物」と化していた。
しかし、追い詰められた草食動物にも「最後の生存本能」は残されていた。
(ダメだ……このままじゃ俺は完全に食われる。身も心も、家もバスタオルも全てあいつに飲み込まれる……! 自陣の防衛ラインが完全に崩壊した今、俺が生き残る手段はただ一つ。『身代わり(デコイ)』を用意することだ……!)
修平はバッと顔を上げた。
血走った目でフロアを見渡し、そして――斜め前の席で、のんきにコーヒーを飲んでいる後輩の若手営業マン、佐藤(25歳・独身・爽やか系)にロックオンした。
(佐藤……すまん。お前を生け贄に捧げて、俺は平穏な日常をターンエンドさせる!)
修平は獲物を見つけた猛禽類のように(あるいは追い詰められたネズミのように)立ち上がり、ズンズンと佐藤のデスクへ歩み寄った。
「えええええええええっ!?!? な、なに言ってるんですか野島さんっ!?」
後輩の佐藤は、デスクを両手で叩いて立ち上がった修平の勢いに圧倒され、目を丸くして後ずさった。
周囲の営業部員たちも一斉にこちらを振り返る。
「いやいやいや! 無理ですよ!! 天野さんですよ!? 社内MVPでマーケティング部のエースで、僕らの高嶺の花どころか雲の上の存在ですよ!? コクれって……正気ですか!?」
「正気だ!! 超絶正気だ!! 頼む佐藤、お前ならいける!! 若いし、爽やかだし、独身だ!! 今日! 今日の晩飯に誘うんだ!! 『美味しい和牛のステーキがあるんで行きましょう』って誘え!!」
狂気すら孕んだ目で自分の両肩をガシッと掴んでくる修平に、佐藤はひたすら引きつった笑いを浮かべるしかない。
「和牛ってなんですか急に!? っていうか、なんで野島さんそんなに必死なんですか……? さっきから『怖い』とか『逃げる』とか言ってますし、様子がおかしいですよ……」
「いいから行けぇぇぇぇッ!! お前が天野玲奈と付き合えば、俺に平和が訪れるんだ!! 俺のプライドも、俺の家も、俺のバスタオルも全部守られるんだよ!! お願いだ佐藤、俺の平穏な日常のために散ってくれ!!」
「『散ってくれ』って言いました!? 捨てる気満々じゃないですか!! 嫌ですよ! 撃沈確定の特攻なんてできるわけないでしょう!?」
佐藤が全力で拒否し、必死に修平の手を振り払おうとした、まさにその時。
「——あら、佐藤くん。何が撃沈確定なんですか?」
ヒエッ……!!!
営業部の入り口に、いつの間にか天野玲奈が立っていた。
書類を胸に抱え、首をちょこんと傾げながら、天使のような(修平にとっては悪魔のような)笑顔を浮かべている。
「あ、あ、あ、天野さん……! いや、これは野島さんが急に『天野さんに告白しろ』って……」
「ふふっ、聞こえてましたよ。『あいつ今フリーだからぁぁ』って大声で叫んでましたもんね、野島さん」
(終 了)
修平の顔から一瞬で血の気が引き、白目を剥いてデスクへ崩れ落ちそうになる。
天野は修平の元へゆっくりと歩み寄ると、佐藤には見えない角度で、修平の耳元にそっと唇を寄せた。
(……残念でしたね、野島さん。私、フリーですけど『絶賛片思い中』なので、佐藤くんのお誘いはお断りしちゃいます)
(……ヒッ……!!)
(それに……野島さん以外の人とご飯食べるくらいなら、野島さんの部屋の冷蔵庫にあるお肉、一人で食べ尽くしちゃいますよ?)
(お肉は俺のだーーーーーッ!!!!)
心の中で絶叫する修平を余所に、天野は「じゃ、お邪魔しましたー」とご機嫌な様子で去っていった。
取り残された佐藤は、冷や汗をダラダラと流しながら修平の肩を叩いた。
「……野島さん。なんか……天野さんの『片思いの相手』って……もしかして……」
「言うな。それ以上言ったら、俺は今すぐこの会社を辞めて山に籠る」
後輩に押し付けるという最後の悪あがきすら秒で粉砕された野島修平(43歳)。
彼の逃げ場は、いよいよ地球上に存在しなくなりつつあった。




