6 防衛ライン完全崩壊! 危険すぎる『タチウオ捌き教室』
「魚屋さんとかに持っていけば有料で捌いてくれますよ?」
(よしッ!! 完璧なカウンターだ!!)
修平の頭の中で、勝利のファンファーレが鳴り響いた。
うら若き女性を独身男の部屋に招き入れるなんて、誰の目にも触れない完全な密室空間を自ら作り上げるようなものだ。
そこから生まれる「手料理を振る舞われる」「不意の身体接触」「そのまま宅飲みへ発展」という数々の破滅的シナリオ。
それらを一瞬で灰燼に帰す、究極の『現実的解決策の提示』だ。
(自慢じゃないが、俺のリスク管理能力は伊達じゃない。プロの鮮魚店へアウトソーシングすることを勧めることで、俺の部屋という防衛ラインを守りつつ、彼女の『魚が捌けない』という課題もスマートに解決する。誰も傷つかない完璧な解だ!)
修平は自分の完璧なロジックに酔いしれながら、一切の隙を見せない表情で彼女を見つめた。
しかし——
「う、有料……ですか……?」
彼女は一瞬ぽかんとした顔をした後、悲しそうに眉を八の字に下げ、ギュッとクーラーボックスの取っ手を握りしめた。
その瞳にはうっすらと涙すら浮かんでいる。
「そう……ですよね。すみません、いきなり押し掛けようとしちゃって……。私、野島さんと一緒に……美味しく食べたかっただけなんですけど……ごめんなさい」
(ぐ、はぁッ……!!!!)
修平の心臓に、目に見えない巨大な杭が突き刺さった。
(な、なんだその子犬みたいな顔は……!? 違うんだ天野さん! 俺は君が嫌いなんじゃない! 君が超絶美女すぎて、俺が不審者扱いされて社会的抹殺を受けるのを恐れているだけなんだ!!)
罪悪感が修平の胸を激しく苛む。営業で鍛えたポーカーフェイスが、今にも瓦解しそうだった。
さらに追い打ちをかけるように、彼女は消え入るような声で呟いた。
「魚屋さん探してみます……。あ、でも、野島さんのタチウオも……私のせいで時間取らせちゃってすみませんでした。……失礼します」
トボトボと、重いクーラーボックスを引きずるようにして自分の車へ向かおうとする彼女。
その背中はあまりにも小さく、哀愁に満ちていた。
(待て……待て待て待て! ここでこのまま帰したらどうなる!? 『せっかくの親切心を冷酷に踏みにじった最悪のおじさん』として、明日から会社でも書道教室でもジムでもマンションでも、地獄のような気まずさが待っているんじゃないか!?)
リスクを回避したはずが、別の最大級リスク(関係性の冷え込みによる永続的ストレス)が発生している。
修平の脳内警戒システムが、パニックを起こして赤く点滅し始めた。
(くそっ……! 部屋に入れるリスクと、このまま彼女を絶望させて関係性が崩壊するリスク……天秤にかけるまでもない!!)
修平は大急ぎで自慢のロジックを投げ捨てると、ガシガシと自分の頭をかきむしり、大声で叫んだ。
「あー……っ! 待ってください!!」
ハッと足を止める彼女。
修平は肩で大きく息をつきながら、半ば諦めたように重い深いため息を吐いた。
「……魚屋だと、こんなデカいタチウオは持ち込み断られることもあります。……それに、せっかく釣った新鮮な魚ですから、すぐ捌いた方が美味いです」
「野島さん……?」
「……うちのキッチン、狭いですよ。それでもいいなら……捌き方、教えます」
(言っちまったーーーッ!? 自宅防衛ライン決壊!! 陥落!! 陥落です!!)
心の中で血の涙を流す修平。
しかし、振り返った彼女の顔を見た瞬間、修平の思考は停止した。
「……っ! はい!! 喜んで!!」
夕焼けよりも眩しい、満開の笑顔。
その破壊力に、修平は「あ、これ俺の負けだわ」と遠い目をしながら、愛車のリアゲートを静かに閉めたのだった。
(そうか……田舎から出てきて、都会の暮らしに不安なんだ。会社も同じ、マンションも隣、趣味も被ってる……そりゃ頼りたくもなるか。俺しか知ってる奴がいないなら、まあ……隣人としての助け合い、防犯的な観点からの『近所付き合い』として手を貸してやるのが大人ってものだな)
自らの脳内で「田舎から上京してきた寂しがり屋の隣人少女を助ける親切なおじさん」という完璧かつ無害な大前提(※完全に修平の勘違い)を作り上げることで、修平はなんとか自尊心とリスク管理意識の均衡を保った。
「よし……天野さん、車で一緒に戻りましょう。クーラーボックス、俺の車のトランクに積んでください。重いでしょう」
「えっ……! 一緒に乗せていってくれるんですか!? ありがとうございます……!」
天野玲奈(26歳・都内出身・実家は目黒区・超お嬢様)は、跳ね起きるような笑顔でクーラーボックスを修平のSUVのトランクへと積み込んだ。
(よし……車内でも『親切だが一線を超えるつもりはない頼れる隣人』のポジションを崩すなよ俺)
30分後。マンションの廊下。
「じゃあ、準備して俺の部屋に来てください。まな板と包丁はうちのを使いますから、手だけ洗ってくればいいです」
「はいっ! すぐ準備して伺います!」
自分の部屋(隣)へと嬉しそうに駆け込んでいく彼女の背中を見送りながら、修平は自室のドアノブに手をかけた。
(ふぅ……まずは部屋の生活感を消す。下心を感じさせる要素(?)を徹底排除だ。男の一人暮らしとはいえ、清潔感と『無機質さ』をアピールせねば)
修平は大急ぎで部屋に入ると、光の速さで散らかっていた上着をクローゼットに叩き込み、コロコロで床のホコリを掃除し、キッチンのシンクをピカピカに磨き上げた。
そして、手洗いを済ませ、エプロン(無地の紺色)を装着。
ピンポーン。
(来た……!)
インターホンが鳴る。
修平は深呼吸を一度して顔の筋肉をニュートラルに戻し、ドアを開けた。
そこには——
髪を後ろでひとつにまとめ、淡いピンク色のパステルカラーのエプロンを身につけた彼女が立っていた。
「お邪魔します、野島さん……!」
(破壊力が……高すぎる……っ!!)
修平の脳内警戒アラートが、すでに最大音量で鳴り響き始めている。
「あ、はい、どうぞ。スリッパはそこを使ってください。……じゃあ早速、タチウオ捌きましょうか。時間置くと傷みますからね」
「はい! よろしくお願いします!」
こうして、修平の防衛ライン(自室キッチン)での、危険すぎる包丁レッスンが幕を開けた。
「じゃあまず、この一番デカいドラゴンからいきましょう。タチウオはウロコがないから楽ですが、歯と背びれには気を付けて」
「はいっ! お願いします!」
キッチンの調理台。二人の距離、わずか30センチ。
修平の鼻腔を、彼女のシャンプーの甘い香りが容赦なくくすぐる。
修平は意識を無理やり目の前の銀色に輝くタチウオへと集中させた。
(集中しろ修平! 俺はいま魚屋だ! 腕の良い、無口な板前だ!)
「まず、頭の後ろから包丁を入れて……こうやって落とします。やってみてください」
包丁を渡された彼女は、緊張した面持ちでタチウオに向き合う。
「えっと……このへん、ですか……? んっ……! 硬くて入らない……です……!」
華奢な腕で必死に包丁を押し込もうとするが、ドラゴン級の骨は太く、刃が途中で止まってしまう。
彼女が「うー」と眉をひそめ、さらに力を込めようとしたその時——
(あ、危ねぇ!! 滑ったら指いくぞ!!)
「待った! 危険です!」
反射的に、修平は彼女の背後から手を伸ばした。
彼女の右手の上から、自分の大きな手を重ね、包丁の柄を握り直す。
がっちり。
結果として、修平が彼女を後ろから包み込むような——完全にマンガの胸キュンシチュエーション(壁ドンならぬ包丁ドン)の体勢が完成してしまった。
「あ……っ」
彼女の動きがピタリと止まる。耳元で聞こえる彼女の吐息。
修平の胸板に、彼女の華奢な背中の温もりがダイレクトに伝わってくる。
(……やらかしたァァァァァァッ!!!!)
修平の脳内警戒システムが、過去最大の赤色灯を点滅させながら爆破された。
(接触! 接触です! 密着度99%! 完全にセクハラおよび不審者確定の体勢!! 違うんだ天野さん、これは純粋な刃物事故防止の動作なんだ!!)
心の中で血を吐きながらも、ここで慌てて離れたら逆に「意識していた」と認めることになる。
修平は奇跡のポーカーフェイスを維持し、声のトーンを限界まで低く、冷静に保った。
「……包丁は力で押すんじゃなく、引いて切るんです。いきますよ」
修平が手を添え、引くように刃を動かすと、スッと綺麗に頭が落ちた。
「……こうです」
パッ!!
仕事を終えた瞬間、修平は光の速さで彼女の手から自分の手を離し、3歩後退した。
「……あとはお腹を出して、三枚におろします。怪我のないよう、自分のペースでやってみてください。俺は……ちょっと手を洗います」
完璧な(?)アフターフォローを残し、水道でガシガシと手を洗う修平。
(耐えた……! 事故は防いだ! 手を重ねたのはあくまで『技術指導』の一環だ! これで文句は言わせん!)
しかし、修平が必死に洗面台で精神統一をしている間、まな板の前に残された彼女は——
(……あ、野島さんの手の大きさ……すっごく温かかった……)
顔をリンゴのように真っ赤にし、包丁を握りしめたまま、完全にトランス状態に陥っていた。
修平の必死の防衛線は、彼女の乙女心を完全にノックアウトしていたのだ。
「ふぅ……なんとか無事に終わったな」
まな板の上には、綺麗に三枚におろされたタチウオの身と、刺身用に引き揃えられた銀色の綺麗な柵。
調理開始からの約30分間、修平は「包丁事故を1ミリも起こさせない安全管理アドバイザー」に徹しきった。
途中、彼女の指先が刃物に近づくたびに心臓が縮み上がる思いだったが、修平のミリ単位の指示(と間一髪のセーフティ介入)により、怪我人はゼロ。
(勝った……! 完璧な調理指導だ! 事故も起こさず、不審者扱いもされず、ミッションを完遂したぞ!)
修平はエプロンを外しながら、達成感に包まれていた。
「よし、綺麗に捌けましたね。あとはラップに包んで持っていけば、ご自宅でいつでも食べられますよ」
さあ、完璧な「お開き」の提案だ。
タチウオを渡して「お疲れ様でした」とドアを見送れば、本日すべてのリスクヘッジが完了する——。
そう思っていた修平の耳に、信じられない言葉が飛び込んできた。
「あの……野島さん。せっかくこんなに新鮮で、綺麗に捌けたんですから……」
彼女は両手で大切そうにお皿を持ち上げ、上目遣いで修平をじっと見つめた。
「……ここで一緒に、食べませんか? お礼に、私、炙り刺身とムニエル作ります! お酒……飲めますよね?」
(最終防衛ライン、突破ーーーーッ!!!!)
修平の脳内警戒システムが、もはや警告音すら諦めて煙を吹き上げた。
(宅飲み!? 一緒に食べる!? なんだその『手料理と酒でいい雰囲気になっちゃうやつ』の教科書みたいな展開は!? 違うんだ天野さん! 俺は君が田舎から出てきて寂しいから手を貸しただけで、別にそういうアレじゃないんだ!!)
修平は咄嗟に「あ、いや、俺ちょっと胃の調子が……」と言いかけようとしたが、彼女が期待に満ちたキラキラした瞳で、嬉しそうにガスコンロのバーナー(炙り用)を手に取っている姿が目に入った。
「野島さんの分も、すごーく美味しく作りますね!」
断るタイミングを完全に逸した修平。
(……詰んだ。本日何度目かわからんが、完全に詰んだ。)
修平は諦めたように天を仰ぎ、重い、重い深いため息を吐き出した。
「……火の取り扱いだけは、本当に気を付けてくださいね」
こうして、修平の自室リビングで、あまりにも危険すぎる「二人きりのタチウオ実食パーティー」の火蓋が切って落とされたのだった。




