5 野島さんが結んでくれた糸は、絶対に切らせない〜彼女side
日曜日、早朝4時半。千葉県の港。
潮風が混じる冷たい暗闇のなか、私はロッドケースを握りしめて胸を躍らせていた。
(よし……! 今日の『東京湾タチウオ釣り』、ついにこの日が来た……!)
もちろん、完全に偶然を装ったターゲット追跡作戦だ。
野島さんのSNSの投稿から、彼が今日この船宿の遊漁船に乗ることを特定し、私も気合を入れてダ◯ワの最新ウェアを一式揃えて予約を入れたのだ。
受付で座席札を取り、船へと乗り込む。
私は左舷の席へ向かいながら、右舷の船首側に立っている男性の姿を捉えた。
シックなウェアを完璧に着こなし、静かに竿を準備する横顔。
(野島さんだ……! 朝の暗闇の中でも、やっぱり凄くかっこいい……!)
私が視線を向けると、野島さんもふとこちらに気づき、バッチリと目が合った。
野島さんの表情がわずかに強張ったように見えたけれど、彼はすぐにシュッと素早く視線を沖の海へと固定してしまった。
(あ、また目を逸らされちゃった……。でもいいの。同じ船に乗っているだけで、今日の私は世界一幸せなんだから!)
ところが、浮かれていたのも束の間。
準備を始めようとしたところで大変なことに気づいた。
PEラインとショックリーダーの結び方が、Youtubeで予習した通りにいかないのだ。
「おーい、お姉さん! PEラインの結び目、それちょっと甘いよ! 魚かかったらすっぽ抜けるぞ~」
「えっ!? あ、あの、私まだ初心者で……どう結べばいいんでしょうか……!」
焦る私。
船長さんも操縦席の準備で手が離せないみたいで、パニックになりそうだった。
思わず藁にもすがる思いで右舷の野島さんの方をチラッと見つめてしまった。
(野島さん……助けて……っ)
すると次の瞬間、船長さんが大声で叫んだ。
「おい修平ー! お前、FGノット得意だっただろ? ちょっとサッと結んでやってくれよ!」
(えっ……!? 船長さん、ナイスアシストすぎる……!!)
野島さんは一瞬だけ深いため息を吐くと、重厚な雰囲気を纏いながらゆっくりと左舷の私の元へ歩いてきてくれた。
「……失礼します。船長に言われたので」
低くて落ち着いた、大人の声。
「あ……っ! 野島さん……! すみません、お手数おかけして……!」
申し訳なさと嬉しさで胸が爆発しそうだった。
野島さんは「いえ。解けると危ないですから」とだけ言い、雑談ひとつ挟まずに私の竿を受け取った。
指先で、大きな手で、手際よく、驚くほどの速さでラインを編み込んでいく。
その無駄のないプロのような手捌き……横顔の美しさに、私は息を呑んで見とれてしまった。
「……はい。これでマグロがかかっても抜けません」
「すご……! ありがとうございます! あの、私、タチウオ釣り初めてで……」
お礼と一緒にもっと話しかけようとした瞬間、野島さんは「フッ」と軽く頭を下げて、「では、お互い良い釣果を」とだけ言い残し、風のように右舷へ去っていってしまった。
(あああっ、また行っちゃった……! でも、野島さんが結んでくれたこの結び目……すごく綺麗な編み込み。絶対に解けさせない。この糸で、絶対に大きな魚を釣ってみせるんだから!)
私は固く結ばれた結び目を愛おしく撫でながら、心に誓った。
ポイントに到着し、いざ釣り開始!
『はい、どうぞ〜。水深70メートル』
船長のアナウンスとともに仕掛けを落とす。
すると開始早々、右舷で「よし……」という野島さんの低い声が聞こえた。
見ると、もう立派なタチウオを釣り上げている。さすが野島さん、何をやらせても完璧だ。
(私も負けていられない……!)
気合を入れて竿を振っていると——
ガガガツンッ!!と手元に強烈な衝撃が走った。
「きゃっ……! すごい重い……っ!? どうすれば……っ!?」
想像を絶する引きの強さ。電動リールの操作も分からなくなり、身体ごと海に引っ張られそうになる。
(どうしよう、逃げられちゃう……! ううん、ダメ!! 野島さんが結んでくれた糸だもん……絶対にバラしたくない……っ!)
必死で耐えていると、背後からあの大好きな声が降ってきた。
「竿を立てすぎです。角度を45度に保ってください!」
(野島さん……っ!!)
振り向くと、野島さんが私のすぐ後ろに立ってくれていた。
押しつけがましい接触は一切せず、私の手元を的確に、冷静に指導してくれる。
「ドラグを少し緩めます。リールを強引に巻かないで……はい、今巻いて!」
「は、はいっ!」
野島さんの指示通りにリールを巻くと、どんどん仕掛けが上がってくる。
そして海面から躍り出たのは——船長さんも大興奮するほどの、巨大なドラゴン級タチウオだった!
「すごーい!! 釣れた……! 釣れました、野島さん!!」
嬉しさが爆発して、私は思わず野島さんに抱きつこうと一歩踏み出した。
すると野島さんは素早くタチウオの入ったトングをパッと掲げ、見事なガード体勢をとった。
「危ないです。タチウオの歯はカミソリ並みなので、触ると指が飛びますよ」
「あ……っ、すみません! 嬉しすぎてつい……!」
冷静で、紳士的で、どこまでも私の安全を一番に考えてくれる野島さん。
もう胸のキュンキュンが止まらない。
「あの……本当にありがとうございました。野島さんが結んでくれた糸じゃなかったら、絶対切れてました……!」
野島さんは一切誇ることなく、深く重々しく頷くだけ。
「……見事な型でしたね。おめでとうございます。では」
いつもの「では」を残して、彼はスマートに右舷へと戻っていった。
私は自分の釣った巨大なタチウオと記念撮影をされながらも、右舷で静かに海を見つめる野島さんの背中から目を離せなかった。
釣りを終え、帰港。
船が港に着いた瞬間、野島さんはまるで風のようにものすごいスピードで下船していった。
(あ、待って! 行っちゃう……!)
私はドラゴン級タチウオが入った超重いクーラーボックスを必死で抱え、全速力で野島さんの後を追った。
ハァハァと息が切れそうになりながら、駐車場で愛車のリアゲートを開けている野島さんの背中に追いつく。
「あのっ……野島さん!」
野島さんがビクッと肩を揺らして振り向いた。
「……天野さん?」
(え……?)
一瞬、時が止まった気がした。
(野島さん……今、私の名前を『天野さん』って言った……!?)
今まで一度も名前を呼んでくれたことなんてなかったのに。
同じマンションでも、会社でも、一度も言葉を交わしたことがなかったはずなのに。
野島さんは、私の名前を知っていてくれたのだ。
「あ……っ、私の名前、覚えててくれたんですね……!」
野島さんは一瞬ハッとした顔をして、すぐにいつものクールな表情に戻り、「会社の社内名簿で見かけた記憶があったもので」と素っ気なく言ったけれど、私には分かっていた。
彼が本当は、私に関心を持ってくれていたということが。
もう、我慢できなかった。
このチャンスを逃したら、ずっと「ただの隣人」のままだ。
私は地面にクーラーボックスを置くと、勇気を振り絞って、真っ赤になった顔を上げた。
「あの……今日、野島さんが助けてくれなかったら、私、ドラゴン級のタチウオなんて絶対釣れませんでした。本当にありがとうございました」
「いえ。船の安全管理の一環ですから、お気になさらず」
どこまでもガードの堅い野島さん。
だからこそ——私は一気に踏み込むことに決めた。
「それで……あの! もしよかったら……このタチウオ、私一人じゃとても食べきれなくて……。あ、あの、野島さん、お魚捌くの上手ですよね?」
「……は?」
野島さんが初めて見せた、少し驚いたような顔。
「もし……もし迷惑じゃなかったら、なんですけど……! 私の釣ったタチウオも差し上げますので……野島さんの部屋で、捌き方とか……教えていただけたり……しませんか……ッ!?」
夕焼けの空よりも赤くなっている自覚があった。
心臓がうるさいくらいに鳴り響いている。
(お願い、野島さん……! 私のこの気持ち、少しだけでも受け取って……!)
私は祈るような思いで、固まる野島さんの顔をじっと見つめた。




