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4 結ばれた糸とドラゴン級タチウオ。そして最大の危機(自宅フラグ)

「ブオォォォォン……」


重厚なエンジン音とともに遊漁船が出港する。

風を切りながらポイントへと向かう波しぶきの中、修平は右舷で静かに呼吸を整えていた。


(よし……港での事故(船長の不意打ちパス)は無事に収束した。ここからは完全に仕事(釣り)の時間だ。俺はただ黙々とタチウオを釣り上げ、夕方には静かに撤収する……それだけだ)


ポイントに到着。船長のアナウンスが響く。


『はい、どうぞ〜。水深70メートル。底から15メートル上まで探ってみて〜』


「……勝負開始スタートだ」


修平は仕掛けを投入。リールから勢いよくラインが伸びていく。

底を取り、シャクリを入れる。竿先を細かく跳ね上げながら、規則正しいリズムでリールを巻く。

その動きには一切の迷いがない。長年の経験が培った完璧なフォームだ。


ガツンッ!!


開始わずか3分。修平の竿先が強烈に海面へと突き刺さった。


(来た……! このズシリとくる重み、本命だ!)


修平は落ち着いたドラグ捌きでラインを巻き上げていく。フッキングも完璧。

海面にギラリと輝く銀色の刀——メーターオーバーの立派なタチウオが姿を現した。


「よし……」


手際よくサワリを外し、氷の張ったクーラーボックスへ叩き込む。無駄のない一連の動作。


(ふっ、幸先のいいスタートだ。これで心置きなく釣りに集中できる——)


そう思った、次の瞬間だった。


『おーッ!! 左舷のお姉さん、ヒットだ! でかいぞそれ!!』


船長の大声が響き渡る。

チラリと視界の端に入ったのは、竿を極限まで曲げ、必死の形相でリールを巻こうとしている彼女の姿だった。


「きゃっ……! すごい重い……っ!! どうすれば……っ!?」


慣れない電動リールの操作と、想像以上のタチウオの引きに翻弄され、彼女の身体が船の手すりへと引っ張られている。


(おいおいおい! 巻き上げのクラッチ入れっぱなしで強引に引き剥がそうとしてるだろ! それじゃバレるか、最悪竿が折れるぞ!!)


修平の脳内「釣り人としての本能」と「不審者と思われたくないリスク管理」が、時速300kmで激突する。


(落ち着け! 左舷のサポートは船長の仕事だ! 俺が口を挟む筋合いはない! 黙って自分の釣りを続けろ!!)


自分に強く言い聞かせ、修平は再び仕掛けを落とそうとした。

しかし——


「野島さんが結んでくれた糸だもん……絶対にバラしたくない……っ!」


エンジン音と波の音にかき消されそうな小さな声。

だが、奇跡的にも修平の耳に届いてしまった。


(……えぇぇぇぇぇぇぇぇッ!?!?)


修平の手が、ピタリと止まった。


(な、なんだその重すぎる想いは!? 糸にドラマを乗せるな!! ただのPE2号だぞ!? 勘弁してくれ、俺はただ静かに休日を過ごしたいだけなんだ!!)


修平の額から、今日一番の冷や汗が吹き出した。


「んもう、仕方ない。」


修平は盛大な溜め息をひとつ吐き出し、手にしていた自分の竿を船のロッドホルダーにガチリと固定した。


(俺は助けに行くんじゃない。船上で怪我人が出たり、お気に入りの遊漁船の竿が折れたりする事故を未然に防ぐ『防災活動』をしに行くんだ。そう、これはボランティア! ただの安全管理だ!!)


自分に強烈な自己洗脳をかけながら、修平はドスドスと重い足取りで左舷へと向かった。


「竿を立てすぎです。角度を45度に保ってください!」


背後から届いた低く力強い声に、彼女がハッと振り向く。


「野島さん……!?」


「喋らなくていいです、釣りに集中してください! ドラグを少し緩めます。リールを強引に巻かないで、魚が引いている時は耐える、引きが弱まったら巻く!」


修平は彼女の後ろにスッと立ち、適切な距離感をミリ単位で保ちながら、彼女の手元を的確に指示した。

自分の手は一切彼女に触れさせず、竿の角度とリールのドラグダイヤルだけをサッと調整する。

まさに職人技の危機介入だ。


「はい、今巻いて! テンションを緩めない!」


「は、はいっ!」


修平のアドバイス通りに動作を合わせると、あれほど暴れていた手応えが嘘のようにコントロールできるようになり、仕掛けがどんどん巻き上がってくる。

そして——

海面にバシャバシャッと踊り出たのは、先ほどの修平の獲物を上回るほどの超ド級・ドラゴン級タチウオだった。


「おぉ〜ッ!! でけぇ! 指6本分のドラゴンだ!!」


「よし、抜き上げますよ。仕掛けを持って……せーのっ!」


修平が手際よくリーダー(糸)を掴み、一気に船内へ引き上げた。

デッキの上で銀色に輝く巨大なタチウオがのたうつ。


「すごーい!! 釣れた……! 釣れました、野島さん!!」


興奮の絶頂に達した彼女は、弾けるような笑顔で修平に向かってパッと両手を広げ、抱きつかんばかりの勢いで一歩踏み出してくる。


(アカン!!! 接触事故発生リスク99.9%!!!)


修平は咄嗟に「タチウオの入ったフィッシュグリップ(魚掴み器)」を二人の中間にガツンと掲げ、見えないバリアを張った。


「危ないです。タチウオの歯はカミソリ並みなので、触ると指が飛びますよ」


「あ……っ、すみません! 嬉しすぎてつい……!」


パッと足を止める彼女。

頬をほんのり赤く染め、上目遣いで修平を見つめてくる。その破壊力たるや、東京湾の波すら静まり返りそうなレベルだ。


「あの……本当にありがとうございました。野島さんが結んでくれた糸じゃなかったら、絶対切れてました……!」


(だから糸に感情を込めるなと言っている!!)


修平は心の中で叫びつつも、表情筋を一切動かさずに、深く、重々しく頷いた。


「……見事な型でしたね。おめでとうございます。では」


「では」の一言とともに、光の速さで右舷の自陣へと撤退する修平。

自分の座席に戻り、大きく肩で息を突いた。


(耐えた……! 抱きつかれそうになるという最大級の危機すら、タチウオを盾にすることで回避した! 俺のリスク管理能力、いよいよ神の領域に達してきたな……!)


修平は一人、達成感で震える手で自分のプロテイン(水分補給用)のキャップを開けた。


しかし、修平は気づいていなかった。

左舷でドラゴン級タチウオと並んで船長に記念写真を撮られている彼女が、カメラではなく、右舷でストイックに海を見つめる修平の背中を、ウットリとした目で見つめ続けていたことに。


港へと戻る船のエンジン音が、徐々に小さくなっていく。

夕暮れ時の赤金色の光が、東京湾の海面を眩しく照らしていた。


(終わった……長かった一日が、ようやく終わる……!)


修平は右舷のロッドホルダーから竿を外し、手際よく片付けを進めていた。

今日の釣果はタチウオ5匹。型も良く、本来なら大満足でホクホク顔で帰るはずの1日だ。

しかし、修平の精神的疲労度は「フルマラソンを3完走した直後」と同等であった。


(とにかく、船が岸壁に着いたら光の速さで下船する。道具を車に押し込み、彼女が車を出す前に港を脱出する。これだ。これが本日の最終ミッション『電撃撤退作戦』だ!)


修平は頭の中で完璧な脱出シミュレーションを描いていた。

ゴゴン。船が静かに岸壁へと接触し、ロープが固定される。


「はーい、お疲れ様でした〜! 足元気をつけて降りてね〜!」


(今だッ!!)


修平はクーラーボックスとロッドケースを両手に抱え、誰よりも早い素早さでタラップを駆け上がり、着岸からわずか20秒でおかへと上がった。


「ふぅ……!」


胸をなでおろし、駐車場に止めてある愛車(SUV)へ一直線に向かう。

リアゲートをバッと開け、クーラーボックスを押し込み、竿を積み込む。完璧な無駄のない動き。タイムにして1分30秒。


(勝った……! 完璧な電撃撤退だ! これで今日のミッションはすべて完遂——)


「あのっ……野島さん!」


後ろから、息を弾ませた鈴の鳴るような声が聞こえた。


(ぐはッ!!!)


修平の身体がカチンコチンに凍りついた。


(なんでだ!? 俺はクーラーボックスを船から投げ出す勢いでダッシュしたぞ!? なんで追いついてるんだあの子は!? アスリートか!?)


恐る恐る振り返ると、そこには自分の重そうなクーラーボックスを両手で必死に抱え、ハァハァと息を切らせている彼女の姿があった。


「ハァ……ハァ……よかった、間に合った……っ!」


「……天野さん? 」


(咄嗟に苗字が出てしまった!)と心の中でしまったと叫ぶ修平。


「あ……っ、私の名前、覚えててくれたんですね……!」


彼女の顔が、パーッと花が咲いたように明るくなる。


(やってしまった!! 同じ会社の同じマンションだから苗字くらい知ってて当然だが、口に出したら『意識して名前を覚えていた』と思われる危険性があったのに!! 俺の危機管理意識が疲労で鈍っている……!)


修平は速やかに表情筋を極限まで硬化させた。


「……あ、いや、会社の社内名簿で見かけた記憶があったもので。それより、何か?」


どこまでも「ビジネスライクな無害なおじさん」を演じ切る修平。

彼女は抱えていた重そうなクーラーボックスをそっと地面に置くと、モジモジとフィッシングウェアの裾を指先でいじり始めた。


「あの……今日、野島さんが助けてくれなかったら、私、ドラゴン級のタチウオなんて絶対釣れませんでした。仕掛けも結んでいただいて……本当にありがとうございました」


「いえ。船の安全管理の一環ですから、お気になさらず」


「それで……あの! もしよかったら……このタチウオ、私一人じゃとても食べきれなくて……。あ、あの、野島さん、お魚捌くの上手ですよね?」


「……は?」


「もし……もし迷惑じゃなかったら、なんですけど……! 私の釣ったタチウオも差し上げますので……野島さんの部屋で、捌き方とか……教えていただけたり……しませんか……ッ!?」


夕焼けの赤さのせいではない。彼女の顔は、耳の先まで真っ赤に染まっていた。

修平の脳内警戒アラートが、「警報! 警報! 自宅マンションへの直接侵入フラグ検知!! 最大級警戒態勢!!」と鳴り響いた。


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