3 早朝4時の東京湾! 逃げ場なきタチウオ釣りと船長のキラーパス
シャワールームの冷水で顔を洗いながら、修平は天面を仰いで深いため息をついた。
(危ねぇ……本当に危なかった。だが、俺のリスク管理は本日も冴え渡っていたな)
修平の脳内では、自分がいかに完璧な対応をしたか、厳正なる「自己評価会議」が執り行われていた。
まず、彼女の転倒という不測の事態に対する迅速な回避行動。これは紳士的な配慮として文句なしの100点だ。
次に、素肌への直接接触を避け、ウェア越しに身体を支えたハラスメントリスクの完全回避、これも当然100点。
さらに、接触直後に速やかに汗拭きタオルで手を拭くことで、「下心など一切ありません」と無言のうちにアピールした完璧なパフォーマンスも100点。
そして極めつけは、会話が泥沼化する前に「では」のひとことでエンカウントを早期収束させた見事な撤退戦術——これぞぶっちぎりの100点である。
(これでよし。彼女も『このおっさんは私に一切の興味がなく、ただ危機を救って立ち去った無害な近隣住民だ』と認識したはずだ。よし、勝った。完全に俺の勝ちだ!)
修平は勝利のプロテインを喉に流し込み、意気揚々とジムを後にした。
しかし、そんな修平の平和な日常は、週末の「東京湾タチウオ釣り」で脆くも崩れ去ることになる。
日曜日、早朝4時半。千葉県の港。
修平は愛用の竿を手に、暗闇のなか船宿の受付に並んでいた。
(フッ……今日こそは何も邪魔されず、静かに東京湾のドラゴン級タチウオとタイマンを張る。書道もジムも会社も関係ない。ここは男の戦場だ)
受付で船の座席札を取る。右舷のミヨシ(船首側)。絶好のポジションだ。
修平がホクホク顔で船に乗り込み、仕掛けの準備を始めたその時——
タッ、タッ、タッ、と軽快な足音が船のデッキに響いた。
(……ん?)
仕掛けを結ぶ手を止め、修平はゆっくりと顔を上げた。
そこには、ダイワの最新お洒落フィッシングウェアを完璧に着こなし、ロッドケースを肩にかけた超絶美女の姿があった。
(……嘘だろ???)
彼女は受付で札を取り、左舷の胴の間(船の中央)あたりへ歩いていく。
そして、仕掛けを準備しようとした瞬間——
ふと船首側に視線を向け、修平とバッチリ目が合った。
「あ……っ!」
「……っ!!」
修平の脳内警戒アラートが、今までにない音量で「ウー! ウー!」と爆音をあげた。
(待て待て待て! 会社、マンション、書道教室、深夜ジムまでは百歩譲って偶発的な生活圏の重複として処理できた! だが早朝4時の千葉の港の遊漁船は無理があるだろ!! なんだこの確率!? 数学者が泣くぞ!?)
修平は心臓をバクバクさせながら、視線を速やかに東京湾の遥か沖合へと固定した。
(落ち着け野島修平! 俺は絶対につきまとっていない! 釣りの予約をしたのは2週間前だ! 証拠のWeb予約メールも残っている! 裁判になっても勝てる! だが問題はそこじゃない……彼女に『このおっさん、ついに船まで追いかけてきた』と思われたら俺の社会性が死ぬ!!)
修平の手が、過去最高レベルで震え始めた。
タチウオの針にエサのサバの切り身を刺す作業すら、緊張でまともにできない。
その時、左舷の彼女の方から、船長の声が響いた。
「おーい、お姉さん! PEラインの結び目、それちょっと甘いよ! 魚かかったらすっぽ抜けるぞ~」
「えっ!? あ、あの、私まだ初心者で……どう結べばいいんでしょうか……!」
困惑する彼女。船長は操縦席の準備で手が離せない様子だ。
(スルーだ。スルー一択だ。俺は右舷の男。彼女は左舷の女。住む世界が違う。船の上で教えに行ったりしたら『教え魔のおっさん』としてSNSに晒されるのが関の山だ……!)
そう自分に言い聞かせ、必死に海を見つめる修平。
しかし、困り果てた彼女が、船の上で助けを求めるようにチラッと右舷の——修平の方を見た。
(……詰んだ。本日2度目の詰みだ。)
修平は、完璧な「無」になった。
(見えない。俺には何も見えない。ここは東京湾、俺とタチウオのタイマン勝負の場だ。左舷に人間など存在しない。いいね? そうだよね?)
船の手すりを力強く握りしめ、ひたすら波間を見つめる。
視界の端で彼女が不安そうにオロオロしているのが嫌でも入ってくるが、修平の首は硬直したように1ミリも動かない。
「教え魔」の烙印を押されるリスク。
「追いかけてきてドヤ顔でノットを教えてくるキモいおっさん」と認定されるリスク。
それらを天秤にかけた時、修平の出すべき答えはひとつしかなかった。
(耐えろ……耐えるんだ修平! 親切心は時に刃となる! ここで手を出したら、これまでの『スマートで無害な近隣住民』のブランディングが全て水の泡だ!)
修平は無心でサバの切り身を針に刺し直した。
手元は微妙に震えているが、顔面は彫像のように無表情である。
しかし、その時——
「あー、お姉さん困ってんな。おい修平ー! お前、FGノット得意だっただろ? ちょっとサッと結んでやってくれよ! 出港しちまうぞ!」
船長からのまさかのダイレクトパス。
(船長ぉぉぉぉぉぉ指名すなーーーっ!!)
心の中で叫び声をあげる修平。
船長の悪気のない大声が、朝の静かな港に響き渡る。
これで無視したら「船長の指示すら無視して若い女性をシカトする激ヤバ頑固おやじ」になってしまう。
積んだ。完全に八方塞がりだ。
修平は諦めたように重い溜め息をひとつ吐き出し、ゆっくりと立ち上がった。
あらかじめ顔の筋肉を極限までニュートラルにし、呼吸を整える。
目指すべきは「頼まれたから仕方なく作業を遂行するプロのボランティア」だ。
「……失礼します。船長に言われたので」
左舷へと回る。声のトーンは低く、淡々と。
「あ……っ! 野島さん……! すみません、お手数おかけして……!」
彼女が申し訳なさそうに、でもどこか嬉しそうに目を輝かせる。
至近距離で見ると、朝日に照らされた素肌とフィッシングウェアのギャップが破壊的だ。
だが、修平は一切の動揺を殺した。
「いえ。解けると危ないですから」
一切の雑談を挟まない。
修平は彼女の竿を受け取ると、熟練の手つきでPEラインとショックリーダーを手際よく編み込んでいく。
締め込みの際、手袋をはめた手でギュッとラインを張る。
その無駄のない洗練された手捌きは、まさに「職人」のそれだった。
「……はい。これでマグロがかかっても抜けません」
わずか1分で作業を完了させ、竿を彼女に返却する。
「すご……! ありがとうございます! あの、私、タチウオ釣り初めてで……」
彼女が何かを尋ねようと口を開かけたその瞬間、修平は「フッ」とだけ小さく頭を下げた。
「では、お互い良い釣果を」
深追い厳禁。
修平は風のように自分の右舷ポジションへと撤退した。
(勝った……! 船長からの不意打ちという絶体絶命のピンチを、『熟練の無口な釣り人』というロールで完璧に切り抜けたぞ! 会話のドロ沼化も阻止した!)
右舷に戻った修平は、自分の完璧な危機管理能力に自画自賛の笑みを浮かべた。
一方、左舷の彼女は、固く完璧に結ばれたラインの結び目を愛おしそうに撫でながら、キュンと胸を躍らせていた。
(やっぱり野島さん、めちゃくちゃかっこいい……! 教えてくれた仕掛け、絶対切らせないんだから……!)
修平の必死の防壁は、彼女の恋心をさらに燃え上がらせているだけだということに、修平が気づく術はまだなかった。




