2 偶然じゃありません。私、全部追いかけてるんです〜彼女side
深夜2時、マンションのエレベーター前。
「ふぅ……今日も遅くなっちゃったな」
仕事のトラブル対応で終電を逃し、タクシーで帰宅した私は、疲れ切った足取りで1階のエレベーターボタンを押した。
ドアが開いた瞬間、そこに立っていた男性を見て、私の心臓は跳ね上がった。
(あっ……野島さんだ!)
同じマンションの隣の部屋に住む、43歳の野島修平さん。
シックなスーツを崩さず着こなし、どこか落ち着いた大人の色気を漂わせている人だ。
私が小さく頭を下げると、野島さんは視線をスッと斜め下に逸らし、無言で静かに会釈をしてすれ違っていった。
(……相変わらず、私のこと全然見てくれないなぁ)
すれ違いざまにふわっと漂う、品のある微かな石鹸の香り。
私は自分の部屋の前まで歩きながら、胸の奥がキュッと締め付けられるのを感じていた。
実は、私は意図的に野島さんの影を追っていた。
……なんて言うとストーカーみたいで怖いけれど、違うのだ。
始まりは完全に偶然だった。
半年前、マーケティング部の打ち合わせで12階の営業部を通ったとき、部下に優しく、でも的確に指示を出している野島さんを見かけたのが最初だった。
気になって調べてみたら、なんと住んでいるマンションの真隣。
そこから私の「野島さんアンテナ」は異常な精度を発揮し始めた。
野島さんが火曜の夜に大人の書道教室に通っていると知れば、私もすぐに同じ曜日の夜の部に申し込んだ。
深夜帯にフィットネスジムで汗を流していると気がつけば、本来は朝型だった生活リズムを無理やり夜型に変えて、同じ24時間ジムに入会した。
極めつけは週末の趣味だ。
野島さんのSNS――鍵アカウントだったけれど、アイコンや投稿される海の風景から奇跡的に特定できた――を隅々までチェックして、彼が乗る東京湾の遊漁船をこっそり予約。
さらに、彼が会社で「好きだ」と話しているのを耳にしたアニメの原画展にまで足を運んだ。
完全に重度の片思いだ。
だけど、野島さんは本当にガードが堅い。
同じ会社、同じマンション、同じ趣味、同じジム。
ここまで接点があるのに、彼は一度だって私に私情の籠もった視線を向けない。
いつだって「一人の洗練された大人の男性」として、完璧な距離感を保っている。
(私、魅力ないのかな……。それとも、やっぱり迷惑に思われてるのかな……)
翌週の火曜日。
書道教室。
静寂が包む室内で、私は野島さんの隣の席が空いているのを見つけ、意を決して座った。
野島さんは「温故知新」という文字を、ブレのない力強い筆遣いで書いている。かっこいい。
横顔に見とれてしまいそうだ。
(話しかけたい……でも、急に話しかけたら『隣の部屋の女が馴々しくしてきた』って引かれちゃうかも……)
緊張で手が震え、持っていた半紙が1枚、ひらりと野島さんの足元へ滑り落ちてしまった。
(あ、やっちゃった……!)
どうしようと焦ったその時。
野島さんが静かに腰を落とし、私の半紙を拾ってくれた。
表情は一切崩さず、まるで『親切な自動販売機』のように無機質な、でもとても綺麗な立ち振る舞い。
「……どうぞ」
低くて落ち着いた、最高の声。
「あ、ありがとうございます……!」
頭を下げて半紙を受け取ったけれど、私の胸はバクバク言っていた。
野島さんは「いえ」とだけ短く返すと、すぐに自分の「温故知新」に視線を戻してしまった。
(ああ……やっぱり深追いしてくれない。でも、拾ってくれた手つきも、書いてる字も、すごく丁寧で素敵……)
私は受け取った半紙を抱きしめながら、彼の横顔をじっと見つめてしまった。
その日の深夜1時。24時間フィットネスジム。
「今日こそは、もう少し自然に近くにいたい……!」
私は野島さんが走っているトレッドミルの、思い切ってすぐ左隣のマシンに乗った。
チラッと横目で見ると、野島さんは正面のモニターを鋭い目つきで凝視し、黙々と走っている。
汗をかいていても清潔感があって本当に素敵だ。
(よし、私も野島さんのペースに合わせて走ろう!)
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
足音のピッチが野島さんと重なる。
それだけで嬉しくて、心の中でニヤけてしまいそうになる。
野島さんの走るスピードが少し上がったのを見て、(あ、私も頑張らなきゃ!)とペースを上げようとした——その時だった。
ポケットのスマホが滑り落ちそうになり、慌てて足を踏み外してしまった。
「きゃっ……!」
(やばい、転ぶ——!)
目を瞑った瞬間。
バシィッ!と隣のマシンの緊急停止音が響き、私の腕がガシッと力強く支えられた。
ウェア越しに伝わる、野島さんの大きな手の温もりと圧倒的な安定感。
「……大丈夫ですか」
目の前に、野島さんの顔があった。至近距離。
汗をかいているのに信じられないくらいクールで、落ち着いた大人の男の顔。
息が止まりそうだった。
「あ……っ、はい! すみません、足がもつれて……!」
「怪我がなくてよかったです。マシン、急に止めると危険なので気を付けてください」
私の身体が安定したのを確認すると、野島さんはサッと手を離し、タオルで丁寧に自分の手を拭いた。
その「絶対に下心を見せない、完璧な紳士としての振る舞い」に、私は感動すら覚えていた。
「あの……本当にありがとうございました。あの、私……」
(私、隣の部屋の天野です! いつも偶然一緒になりますよね! って言いたい……!)
勇気を振り絞ろうとした瞬間、野島さんは「フッ」と軽く会釈をして、「では」とだけ言い残し、スマートにプロテインコーナーへ去っていってしまった。
(あああっ……! また行っちゃった……!!)
残された私は、野島さんに支えられた自分の腕をそっと触った。
熱が残っている気がする。
胸がキュンとして、涙が出そうなくらい好きがあふれてくる。
ぽつりと、心の声が漏れた。
「……やっぱり、野島さんだ」
冷たいんじゃない。彼はただ、どこまでも紳士で、誠実な人なのだ。
いつか絶対に、あの固いガードを解いて、私の方を向かせてみせる——
私は去っていく彼の後ろ姿を見つめながら、密かに心に誓っていた。




