1 異常なエンカウント率。43歳独身男の完璧な『リスク管理』
深夜2時、マンションのエレベーター前。
「頼むから、誰も降りてくるなよ……」
野島修平(43歳・独身)は、祈るような気持ちでボタンの点灯を見つめていた。
しかし無情にも『1』のランプが灯り、ドアが静かに開く。
そこに立っていたのは、ロングヘアを軽くまとめた超絶美女――隣の部屋の彼女だった。
修平は咄嗟に視線を3度ほど右斜め下に逸らし、無言で会釈だけして乗り込む。
彼女もまた、小さく頭を下げてすれ違い、エントランスへと去っていった。
香水の押しつけがましさがない、ほのかな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
(ふぅ……危ねぇ。怪しまれてないよな? ていうか、なんでこの時間に帰宅がかぶるんだよ!)
修平は心の中で叫びながら、自室の鍵を開けた。
彼女との「異常なエンカウント率」は、もはや恐怖の域に達していた。
まず大前提として、自宅はまん前の隣室。
職場は某大手IT企業の同じ12階フロアで、修平が営業部、彼女がマーケティング部だ。
ここまではまだ「百歩譲って偶然」で片付けられる。
だが、趣味の領域まで被ってくるのはどう考えても異常だった。
火曜夜の『大人の書道教室』。
深夜帯の『24時間フィットネスジム』。
週末に出かけた『東京湾のタチウオ遊漁船』に至っては、まさかの右舷と左舷で乗り合わせた。
極めつけは、こっそり行ったアニメの原画展だ。
物販の待機列で、前後に並んでしまった実績すらある。
普通なら運命の糸を疑うレベルだ。
しかし修平は冷静だった。いや、冷静にならざるを得なかった。
「相手はモデル並みの美女だぞ? 43歳のおっさんが『これって運命ですかね?』なんて声かけた瞬間、会社には人事通報、ジムは強制退会、マンションは引っ越し確定だろ……!」
修平に彼女への下心は一切ない。
ただ「ストーカーだと誤解されたくない」という防衛本能だけで生きている。
翌週の火曜日。書道教室。
静寂が包む室内で、修平は集中して「温故知新」と筆を走らせていた。
その時、すっと隣の席に誰かが座る。
(……デジャブか?)
チラッと横目で見ると、またしても彼女。
白のブラウスの袖を少し捲り上げ、淀みのない手つきで墨をすっている。美しい横顔。
だが、修平の額には冷や汗が伝っていた。
(またかよ! なんで空いてる席がここしかないんだ! 先生、頼むから席替えシステム導入してくれ!!)
修平の筆先が緊張でわずかに震え、「新」の文字の「斤」が微妙に歪んだ。
(落ち着け野島修平。俺はただの書道愛好家だ。彼女の存在なんて気にしていない。無心だ。無になるんだ……!)
修平が必死に精神統一を図っていたその時。
カサッ、と隣から小さな音がした。
見ると、彼女が半紙を一枚落とし、それが修平の足元まで滑ってきていた。
(……詰んだ。)
拾って渡さざるを得ない状況。
しかし、声をかけたら「ついに話しかけてきた」と思われるかもしれない。
スルーしたら「冷酷なおっさん」あるいは「やっぱり意識してる」と思われる。
修平の頭の中で、43年間の人生で培ったリスクヘッジの回路が高速回転を始めた――。
意を決して、ゆっくりと腰を落とした。
あらかじめ呼吸を整え、顔の筋肉を極限まで無にする。
笑顔を見せれば「下心」、引きつれば「不審者」。
目指すべきは「親切な自動販売機」のような無機質さだ。
すっと指先で半紙の端をつまみ上げ、立ち上がる。
「……どうぞ」
声のトーンは低め、声量は最小限。余計なニュアンスを一切排除した完璧なボイスコントロール。
「あ、ありがとうございます……!」
彼女がハッとしたようにこちらを向き、ペコリと深々と頭を下げる。
その瞬間、ふわりと舞う髪、間近で見ると直視できないほどの整った顔立ち。
修平の心臓が一瞬ドクンと跳ね上がったが、長年の営業で鍛えたポーカーフェイスで完全に抑え込んだ。
「いえ」
それだけ言い残し、修平は速やかに自分の「温故知新」へと視線を戻した。
(よし……完璧だ! 完璧すぎるリスク管理! 必要最低限の挨拶、深追いしないスタンス、一切の気持ち悪さを排除した動作! これで『親切だが関わりたくはなさそうな隣人』というポジションを確立したぞ!)
心の中でガッツポーズを決める修平。
しかし、修平は気づいていなかった。
半紙を受け取った彼女が、ほんの少しだけ目を見開き、修平の書いた「温故知新」と、修平の横顔を——まるで何かを確認するかのようにじっと見つめていたことに。
その夜、深夜1時。24時間フィットネスジム。
汗を流して集中しようと、ランニングマシンで黙々と走る修平。
(ふぅ……書道教室の件はうまく乗り切った。今夜はジムで無心になって汗を流して帰るだけだ)
そう思った矢先、左隣のマシンが『ピー』と音を立てて起動した。
チラリと横目で見ると、グレーのワークアウトウェアを着たロングヘアの女性。
(デジャブ……じゃない、嘘だろおい!!!)
そこには、すっぴんに近い状態にもかかわらず信じられないほど美しい、例の彼女が汗を拭きながら走っていた。
(なんで深夜1時のジムで、マシンが横並びになるんだよ! 他に10台くらい空いてんだろ!! 俺が先に走ってたんだからな! 俺がストーカーなんじゃない、偶然なんだ! 頼むから神様、俺の無実を証明してくれ!!)
修平の走る速度が、焦りと緊張で思わず1段上がった。
(走れ……走るんだ修平! 思考を止めろ! 筋肉の収縮だけに集中しろ!)
時速10キロから12キロへ。
修平は正面のモニターに映る大自然のドキュメンタリー映像だけを凝視し、無の境界を目指して脚を動かし続けた。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
トレッドミルのベルトが規則正しい音を立てる。
しかし、すぐ隣からも、まったく同じテンポで軽快な足音が響いてくる。
ザッ、ザッ、ザッ、ザッ。
(シンクロすな!! なんでピッチまで合ってんだよ!)
修平の脳内警戒アラートがガンガン鳴り響く。
隣を走る彼女の存在感が強烈すぎる。
ランニングウェア越しでもわかる引き締まったスタイル、汗をかいても崩れない横顔の美しさ。
だが修平にとって、それは魅了される対象ではなく「高電圧の危険物」だった。
触れたら一発で社会的死が待っている。
(俺はただの背景だ。ジムの器具の一部だ。空気になれ……!)
そう心に念じ、汗をぬぐいながら限界までスピードを維持する。
その時だった。
ピピッ——ガタッ!!
突然、隣のトレッドミルから異常音が響き、急停止した。
「きゃっ……!」
彼女がバランスを崩し、手すりに必死にしがみつく。
どうやらスマホをポケットから落としそうになり、足を踏み外したらしい。
(うおっ!?)
修平の身体が咄嗟に反応した。
自分のマシンの「緊急停止ボタン」を迷わずバシィッ!と叩き込み、ベルトが止まると同時に、倒れそうになった彼女の腕を——ウェアの袖越しにガシッと支えた。
肌への直接接触は避ける。
長年のリスク管理意識がもたらした奇跡のミリ単位コントロールだ。
「……大丈夫ですか」
低く、落ち着いた、一切の動揺を感じさせない声。
「あ……っ、はい! すみません、足がもつれて……!」
息を弾ませながら、彼女が顔を上げる。至近距離。
あまりの顔面の美しさに修平の心臓がバックダンサーばりに跳ね踊るが、表情筋は1ミリも動かさない。
「怪我がなくてよかったです。マシン、急に止めると危険なので気を付けてください」
彼女の身体が安定したことを確認すると、修平はサッと手を引き、汗拭きタオルで自分の手を拭く。
(決して嫌悪感からではなく『変な下心はありません』という無言のパフォーマンスだ)。
「あの……本当にありがとうございました。あの、私……」
彼女が何かを言いかけた瞬間、修平は「フッ」と小さく会釈をした。
「では」
深追い厳禁。
会話のドロ沼化を避けるため、修平はクールにランニングマシンを降り、ドリンクボトルを持ってプロテインコーナーへと立ち去った。
(勝った……! 今回も完璧に乗り切ったぞ! 助けるべきところは助け、一切の執着を見せずに立ち去る! これぞ究極の『スマートな近隣住民』だ!)
シャワールームへ向かいながら、心の中で自分を絶賛する修平。
一方、ランニングマシンに残された彼女は、去っていく修平の背中を呆然と見送っていた。
そして、自分の腕(さっき修平に支えられた部分)をそっと触り、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、野島さんだ」
彼女の瞳には、怯えでも迷惑がる様子でもなく、明確な「何か」が宿っていた。




