11 逃亡の果て。43歳独身男が選んだ『究極のリスク管理』
夜20時。
後輩への丸投げ作戦も無惨に散り、すべての逃げ道を絶たれた修平は、重い足取りで自室のドアの前に立っていた。
(……帰るしかない。俺の家なんだから……)
覚悟を決めてドアを開けると、そこにはエプロン姿で出迎える天野玲奈の姿があった。
部屋の中には、温め直されたA5ランク和牛の暴力的なまでに食欲をそそる香りが充満している。
「おかえりなさい、野島さん。遅かったですね。お肉、温め直しましたよ」
「……ただいま」
修平は抵抗する気力すら失い、促されるままダイニングテーブルの席に着いた。
目の前に差し出された、完璧なミディアムレアの和牛ステーキ。
一口食べる。
「……うまっ」
「ふふっ、良かったです」
向かいの席で嬉しそうに微笑む玲奈。
修平はその笑顔を見つめながら、ふと彼女の通勤バッグに付けられている「奇妙なキーホルダー」に気がついた。
それは、ピンク色のビーズと一緒に結ばれた、無骨な緑色の釣り糸(PEライン)。
間違いなく、先日のタチウオ釣りで修平が結んだ「FGノット」の結び目だった。
「お前……それ……」
「あ、気づきました? 野島さんが結んでくれた糸、絶対に解けなくて綺麗だったから、船長さんに頼んでそこだけ切ってもらって、お守りにしたんです!」
(釣り糸をお守りにする女がいるか……!)
普通ならドン引きするかもしれない。しかし、修平の胸に湧き上がったのは恐怖ではなく、抗いようのない「降伏」のサインだった。
(ダメだ。この子の想いは、ちょっとやそっとじゃ絶対に解けない。俺が編み込んだあのFGノットより、ずっと強固で、一直線だ……)
修平はお箸を置き、深く、長く、息を吐き出した。
そして、43歳の大人として、真正面から玲奈を見据えた。
「天野さん。俺は43歳で、君より16歳も年上で、年収も君より低くて、休日は釣りか書道しかしない、くたびれたオッサンだ」
「はい。そんな野島さんが大好きです」
「……このまま君から逃げ続けても、君は俺の行く先々に現れるんだろうな」
「はい! もちろん、地の果てまで追いかけます!」
満面の笑みで即答するストーカー気質の社内MVP。
修平はガシガシと頭を掻きむしると、半ばヤケクソ気味に叫んだ。
「わかった! 俺の負けだ!! これ以上、不意打ちでエンカウントするリスクに怯えながら生活するのは、俺の精神衛生上よろしくない!」
「えっ……?」
玲奈が目を丸くする。修平は立ち上がり、彼女の目の前まで歩み寄った。
「君が俺の行動範囲のすべてに出現する『異常なリスク』を、完全にゼロにする方法がひとつだけ見つかった」
「リスクを……ゼロに……?」
「ああ。簡単だ。――君を、俺の『身内』にしてしまえばいい」
修平の言葉に、玲奈の顔がみるみるうちに赤く染まっていく。
「同じ家に住んで、同じ苗字になれば、マンションの廊下で鉢合わせるリスクもない。休日に一緒に釣りに行くのも『夫婦の趣味』として完全に合法化される。社内で変な噂が立つ前に、堂々と人事に『結婚しました』と報告すれば、コンプライアンス上の問題も完全クリアだ!」
それは、ロマンチックな愛の言葉など微塵もない、あまりにも理屈っぽく、営業マンらしい「リスク管理」のプレゼンテーションだった。
だが、その言葉の意味を理解した玲奈の目から、ポロポロと大粒の涙が溢れ出した。
「それって……それって……!」
「というわけで天野さん。俺の今後の人生におけるあらゆるリスクヘッジのため、俺と結婚を前提に、同棲してください」
修平が差し出した右手を、玲奈は泣き笑いの顔で両手でギュッと握りしめた。
「はいっ……! 私のリスクも、野島さんが一生管理してください……っ!」
こうして、リスク管理を極めた43歳独身男の「平穏な逃亡劇」は終わりを告げた。
結果として、年下・高収入・超絶美女の社内MVPという最大級のイレギュラーを人生の共同経営者として迎え入れた彼の日常は、今までよりもずっと騒がしく、そして温かいものになった。
数ヶ月後。
某大手IT企業の人事部に提出された「身上異動届(婚姻)」。
そこには、野島修平と、野島(旧姓・天野)玲奈の名前が並んでいた。
「ふぅ……これで社内リスクも完全クリアだな」
「野島さーん! 今週末は二人でタチウオ釣り行きますよー!」
「おいバカ! 会社でデレるな! リスクが上がるだろ!!」
今日もまた、野島修平の幸せなリスク管理は続いている。
【完】




