番外編 結ばれた糸と、不器用な旦那様のリスク管理〜玲奈side
私の通勤用バッグには、小さなキーホルダーがついている。
ピンク色のビーズの横で、無骨に結ばれている緑色の釣り糸(PEライン)。
それは、あのタチウオ釣りの日、野島さんが私のために結んでくれた「FGノット」だ。
釣りが終わった後、どうしてもあの結び目を手放したくなくて、船長さんに拝み倒してそこだけ切り取ってもらった、私だけの「絶対に解けないお守り」。
これを見るたびに、彼の手の温もりや、真剣な横顔を思い出して胸がキュンとする。
でも――このお守りを見つめながら、一人で泣きそうになった夜も、実は何度もあった。
周りの社員からは「いつも自信満々で行動力がある天野さん」なんて言われているけれど、恋愛に関しての私は、全然そんなことない。
むしろ、臆病で、自信がなくて、いつもギリギリだった。
野島さんが私から逃げ回っているのは、痛いほど分かっていた。
私が近づくたびに彼の顔が引きつり、全力で距離を置こうとする姿を見るのは、本当はすごく怖かった。
(……迷惑、なんだよね。私みたいにグイグイ来る年下の女なんて、重いし、鬱陶しいよね)
特に心が折れそうになったのは、あの夜。
私がA5ランクの和牛を持って彼の部屋を訪ねた時、彼はスマホ一つで部屋を飛び出し、そのまま帰ってこなかった。
(私のせいだ……。野島さんから、安心できる家まで奪っちゃった……)
一人残された野島さんの部屋。
私は勝手にシャワーを借りて、彼のベッドに潜り込んだ。
翌朝、テーブルには『バスタオル、いい匂いですね!』なんて、強気でふざけたメモを残したけれど……。
本当はあの夜、彼の匂いに包まれたベッドの中で、私は声を殺して泣いていた。
「もう、諦めたほうがいいのかな……」
嫌われたくない。野島さんの困った顔は見たくない。
でも、諦めることなんて絶対にできない。
平気な顔をして、明るく彼を追いかけているように見せて。
私の心はずっと、彼に完全に拒絶される恐怖で、限界ギリギリで震えていたのだ。
だからこそ。
翌日の夜、彼がボロボロになって帰ってきて……私に向かって放ったあの言葉は、一生忘れられない。
『君が俺の行動範囲のすべてに出現する異常なリスクを、完全にゼロにする方法がひとつだけ見つかった』
『俺の今後の人生におけるあらゆるリスクヘッジのため、俺と結婚を前提に、同棲してください』
ムードも何もない、野島さんらしい「リスク管理」のプロポーズ。
でも、私にとっては世界で一番甘くて、優しくて、欲しくてたまらなかった言葉だった。
嬉しくて、安心感で、張り詰めていた糸がプツンと切れたように、ボロボロと涙がこぼれた。
彼が差し出してくれた手を握りしめた時、私の中で震えていた迷いは、完全に消え去ったのだった。
「……玲奈。玲奈、朝だぞ。起きろ」
「んん……おはようございます、修平さん……」
目を覚ますと、すぐ目の前に大好きな人の顔。
結婚して半年。私たちは同じマンションの少し広い部屋に引っ越し、夫婦としての生活をスタートさせている。
すでに着替えて、無地の紺色のエプロンをつけた彼が、腕を組んで私を見下ろしていた。
「ほら、朝ごはんできてる。今日はお前、マーケティング部の重要なプレゼンの日だろ。しっかり食べておかないと頭が回らなくなるぞ」
「えへへ……修平さんの作るご飯、大好き……」
「バカ、朝からデレるな。遅刻するリスクが高まるだろ。ほら、早く顔洗ってこい」
口ではそんな理屈っぽいことを言いながらも、私を見る修平さんの瞳はとても優しくて、耳はほんのりと赤い。
もう彼が私から逃げ回ることはない。
それどころか、私の体調から仕事のスケジュール、日々の栄養管理まで、完璧な「リスク管理」で全力で支えてくれている。
彼は相変わらず「俺みたいなオッサンが……」と卑下するけれど、私にとっては世界で一番頼りになる、最高にかっこいい旦那様だ。
「ふふっ。修平さん、いってきますのキスは?」
「……玄関を出る直前に一回だけな。窓から誰かに見られるリスクを最小限に抑える」
「もう、修平さんたら!」
あの釣り糸のように、私たちを結ぶ絆はきっと、一生解けない。
私は愛しいバッグのお守りにそっと触れると、大好きな旦那様の待つダイニングへと駆け出した。




