(37)
その夜、アンナは夢を見た。それが夢だとわかったのは、ちゃんと寝室で横になった記憶があるからだ。その上夢の中のアンナは、庭の池の上を歩いていた。満月をそのまま映し出した池は、避暑地で見た鏡湖のように美しい。足が地面につく感覚などなく、足取り軽く進んでいく。こんなことが現実に起こるはずがないのだから、これは夢に違いなかった。
『うむ。その様子なら、それなりに話はできたようじゃな』
穏やかでかつ厳かなその声には聞き覚えがある。例の避暑地の湖で出会った水竜のものに間違いない。のんびりと周囲を見回してから、アンナはその場にしゃがみ込む。前回は湖で溺れかけていたときに出会ったが、もしやこの池は水竜の住むあの湖と繋がっているのだろうか。しげしげと覗き込んだところで水底は見えず、アンナの不思議そうな顔が映るばかりだ。
そんなアンナの様子を眺めていたらしい水竜は、くつくつと喉を鳴らしながら姿を見せた。さきほど見たはずの場所から突然現れた巨体は、いつ見ても圧倒的な質量だ。屋敷を潰してしまいそうなほど大きく、見落とすはずがないというのに、声をかけられるまで見つけることができなかったのは、さすがは聖なる生き物といったところだろう。
『昼間の捧げものは、大層美味であった。礼を言う。神殿の者たちが用意してくれる食事は、どうにも健康的過ぎるのだ。奴らにも、美食の楽しさを教えたいものよの』
「庭にいらっしゃたのは、水竜さまだったのですね。それは大変失礼いたしました」
『よい、よい。そもそも姿を隠していたはずが、よくぞ気が付いた。あの幼子は、魔術の才がある。その才を伸ばしてやるがよい。時々、儂も様子を見に来よう。またガゼボに食事を用意しておいてくれればそれで十分じゃ』
水竜を満足させられるお酒と食事とは一体どういうものなのか。一瞬頭を抱えそうになりつつ、慌ててアンナは頭を下げた。そして恐る恐る問いかける。
「本日は、どのようなご用件でしょうか」
『そなたもわかっておろう? 時が来たのだ』
――加護とはこちらの世界へと渡ってきた方の中でも、選ばれた者だけに与えられた贈り物なのですよ――
鏡湖の神官長の言葉が蘇る。秋人が、たくさんの祈りを捧げたはずなのに、目を見張るほどの治癒効果を持った料理は作れなくなったと嘆いていたことも。ああ、今日がその時だったのか。アンナは感謝の気持ちを持って、水竜に頭を下げた。
「秋人がこの世界に来ることができたのは、水竜さまのおかげだったのですね」
『正確には、儂の友人から頼まれたのでな』
「ご友人ですか?」
首を傾げるアンナに返事を返したのは、水竜ではなく何やら両手に籠を大量に抱えた秋人だった。一か八か、日本に持って帰れないか試してみるつもりなのかもしれない。
「たぶん、係活動で学校のビオトープの世話をしたからだと思う」
「え?」
「高校にさ、めちゃくちゃ汚い池があってさ。臭いもすごいし、ゴミも浮きまくりだったんだよね。でも、その中に鯉とかも住んでるみたいで、ちょっと気になってて。ビオトープの再生を先生に提案して、友だちと一緒にちょいちょい作業してたんだ」
「ビオトープの再生?」
「でもまあ、やってみると大変で、毎回参加してるのは俺くらいなもんでさ。でも、俺、黙々と作業するの嫌いじゃなかったんだ。他のこと、考えなくて済むし。池の鯉も餌をやるわけじゃないのに、毎日行くからか俺のこと覚えてるみたいで。お互いに顔見知りみたいな感じになってからは、ついつい、愚痴とか結構話してたんだよね。だからじゃない? 鯉って、なんか竜やら龍やらと繋がりあるって国語の先生も言ってたし」
『ちなみに、儂が魂をこの世界に連れてきていない場合、こやつは通学中に転倒した挙句、道端の水たまりで溺死していた』
「俺、水深数センチで死ぬの嫌すぎるんだけど! 転倒が原因で死にかけたと思ってたら、まさかそんなことに。下手したら全国ニュースになるじゃん!」
「待って、そんな大怪我したなんて聞いていないわ!」
「だって、言ったらめっちゃ心配するじゃん。だから言わなかった」
「本当に、本当に、ありがとうございます。秋人、あなた、ちゃんと水竜さまにお礼を言ったの?」
どうやら秋人が生き伸びたこと、そしてアンナとの仲が改善したことに関しては、さまざまな偶然が積み重なっていたらしい。何度も感謝の言葉を述べるアンナに、水竜は満足そうにうなずいていた。
大きな月を映し出していた池が、ほんのりと光を帯びている。何も言われずとも、別れの時間がきたのだとわかった。秋人がアンナの元に駆け寄ってくる。
「母さん、今までありがとう」
秋人の口から出てきた、「おふくろ」ではなく、「母さん」という言葉に胸がいっぱいになった。思わず下を向きかけ、慌ててまっすぐに秋人を見つめた。
「身体に気を付けてね。車には注意するのよ。好き嫌いしちゃダメよ」
「母さん、俺、もう高校生なの。小学生じゃないんだから。母さんこそ、ちゃんと幸せになれよ。エドワードはちゃんと頼りになるし、あのいけ好かないイケメンも、母さんのことを大事にしてくれるから。もっと甘えていいと思う。むしろ、いっぱい貢がせてみたら?」
「秋人!」
「あははは、じゃあね!」
初めは前世の息子が、どうして異世界に現れたのか理解できなかった。お互いの主張はどうにも噛み合わなくて、生まれ変わっても分かり合えないのかと胸が痛くなることもしばしばだ。けれどゆっくりと解きほぐしていけば、そこにはちゃんと相手を大切に想う心が残っていた。
本来ならば和解することなどできなかったはずの子どもと、会話をし、分かり合うことができた。それは信じられないほどの幸運で、何よりの僥倖だ。だからこそ自分は、この感謝を胸にこちらの世界で精いっぱい生きていこう。自分は誰かに愛される価値などないなんて思うことはやめて、もう一度周りのひとたちを愛してみよう。
秋人を乗せた水竜が空に向かって飛んでいく。打ち上げ花火のように高く高く飛び上がり、月にも届くのではないかと思ったその時、くるりと反転した。そのまままっすぐにアンナの目の前の池に向かって急降下し始めた。
明らかに質量の大きすぎるひとりと一匹は、池の水面を揺らすこともなくぐんぐんと吸い込まれていく。来ると予想したはずの衝撃は訪れず、あまりにも静かになめらかに彼らは向こう側に行ってしまった。
晴れやかな笑顔でアンナに手を振っていた秋人を見送る。あちら側は、アンナにはもう戻れない世界。さきほど、鏡のようにこちら側を移す池の水面には、イーノックではなく元の姿で笑う秋人と、春香の姿ではないいつも通りのアンナが映っていた。住む世界が違うのだ、それでもどこかで互いの幸せを祈ることはできる。
「秋人、元気でね」
アンナの頬に涙が一筋零れ落ちた。




