(38)
「アンちゃん、僕はイーニーとマシューおじさんと一緒にちょっと向こうを見てくるね!」
「ええ、気を付けていってらっしゃい」
あの不思議な夢を見た翌日、目を覚ましたイーノックは秋人ではなくなっていた。予想通り、本来の持ち主であるイーノックが帰ってきたのだ。
秋人がいなくなったことで、ずいぶんとエドワードはショックを受けていた。エドワードにしてみれば、秋人が突然消えたのだ。動揺するのは当然のことである。そんなエドワードの心を解きほぐしたのは、イーノックが作ってくれた絵本だった。それはかつて秋人が話してくれた内容とまったく同じものだったのだ。
こちらの世界では聞いたこともないお話を、何のてらいもなく読み聞かせてくれる。そんなイーノックを見ているうちに、秋人との約束の意味を考えるようになったらしい。今ではイーノックのことを、「イーニー」と愛称で呼ぶほどにまでなっている。
もともと客人としてキャリントン侯爵家に滞在していたイーノックだが、今は料理人見習いとして働き始めている。長い間婚約者だったアンナも知らなかったことだが、イーノックは実は料理を趣味としていたらしい。
キャリントン侯爵家では当主や当主夫人が料理をすることに肯定的だが、アンナの知る限りこの王国の貴族社会においては料理はあくまで下働きがするものだ。それゆえイーノックの趣味は完全に秘匿されていた。
今思えば、イーノックの身体に入った秋人がスムーズに経口補水液を作ったり、さまざまな料理に挑戦したりすることができたのは、もともとその身体の持ち主であるイーノックが、料理に慣れ親しんでいたからという可能性もあるのだろう。
夏実とイーノックは、意外にも穏やかな関係を築いていたらしい。早々に中身が違う人間であることはバレたものの、追い出されずに済んだのだそうだ。念願かなってバリキャリだが、どうにも生活能力のない夏実に代わって、イーノックは嬉々として家事に専念していたのだとか。秋人の高校は夏休みということも功を奏したようだ。ちなみに、きちんとアルバイトとして給与をもらっていたらしい。また時には、夏実に料理を教えることもあったと聞いて、アンナは夏実も少しずつ前に進んでいることを知った。
ちなみにアンナは、こちらの世界に帰ってきたイーノックから既に謝罪を受けている。それを受け入れたのは、陰鬱な表情をたたえていたはずの彼の瞳に、光が宿っていたからだ。
「ずいぶんとすっきりとした顔つきになりましたね。向こうの世界は、居心地がよかったですか?」
「……やっぱり、君は向こうの世界から来たんだね。ああ、とても心地よくて、可能ならばずっとあそこに住んでいたかった。まあ、追い出されてしまったから、粛々とこちらで頑張るしかないみたいだ」
「やっぱり……というのは? 私はこの世界に馴染めていませんでしたか?」
「別に君が特別おかしかったわけじゃない。俺自身、この世界では異物みたいなもんだった。異物は他の異物に気が付きやすい。だから、君のことに気づいたんだよ」
「その割には異物同士で仲良くすることもなく、あっさりブライスに乗り換えたようですが」
「魔力も頭脳もない俺にできることは、婚約を解消してあの家から逃げ出せるようにしてあげるくらいだったからね。とはいえ、君にとっては最低な婚約者だったと思う。許してくれるとは思っていないが、謝らせてくれ。本当にすまない」
イーノックは、今までの言い訳もすることなくただひたすらに頭を下げるばかりだった。アンナと秋人がこの世界で生きる希望を取り戻したように、イーノックもまたあちらで自身の心を取り戻したのだろう。薄っぺらな影みたいなイーノックの姿は、もうどこにもなかった。
秋人と過ごした庭は、エドワードにとって大切な場所だ。今日も、マシューおじさんを連れて走り回っている。それをアンナとウォルトは、木陰の下で見守っていた。
庭の奥へと駆けていくエドワードとマシューおじさんを眺めていると、ウォルトがアンナにグラスを差し出してきた。木陰の下は心地よいとはいえ、まだまだ夏の日差しは強い。ありがたくうけとり口をつければ、冷えた炭酸が喉を心地よく通り過ぎていく。
秋人が作っておいてくれたシロップをソーダで割ったものだ。からからとグラスの氷を揺らしながら、ウォルトが呟く。
「正直なところ、今のイーノック殿は以前のイーノック殿とは別人にしか思えない。記憶喪失というものは、そういうものなのだろうとはわかっているつもりだが……」
それはそうだ。日本からやってきた男子高校生と、現代日本で新たな価値観を得た貴族令息。彼らはお互いの立場を交換することで、彼らにとって必要な生きる力を得たのだろうから。
「以前の彼は、なんというか、エドワードと君を見ているようだった。嫉妬するほうがおかしいというのに、胸のざわつきをおさえられない。子どもじみたわがままな独占欲を持つなんて、おかしいと思うだろう? 自分がこんなに君に、そして家族に執着するなんて思ってもみなかったんだ」
命じることに慣れた強い男性が、手を震わせて本音を語ってくれている。ウォルトの本音を聞いたからこそ、アンナもまた心の中に秘めていた希望をさらけ出してみることにした。
「それでは、私もひとつわがままを言ってもよいでしょうか?」
「ああ、何でも言ってくれ」
「実は、実母のお墓参りに行きたいのです。王都から随分離れたところにありまして、私は一度もお墓参りに行ったことがなくて」
「なるほど。だが、お墓参りはわがままには入らないだろう?」
「でもお墓参りに行こうと思ったのは、私のわがままでしかありませんから。ウォルトさまやテッドと一緒に暮らしていたら、家族っていいものだなと自然に思えたんです」
「アンナ……」
「そうしたら、何だか急に私も実母に家族を紹介したくなってしまって。母は私を生みたくなかったかもしれませんが、私は母が産んでくれたおかげで今確かに幸せに暮らしているのだと伝えたくなったんです」
真剣な顔をしたウォルトが、アンナの唇を指先でなぞる。どきどきと胸が高鳴ったところで、きゃらきゃらとした笑い声が近づいてきた。慌ててふたりは居ずまいを正す。
「はい、アンちゃん。これ、あげるね」
何やらエドワードが、一生懸命運んできた。両手で手渡されたのは、シロツメクサとたんぽぽが丁寧に編み込まれた花冠だった。ふふんと得意げな顔をしたエドワードの横で、家令のジムがにこにことしている。
「坊ちゃまは、奥さまにプレゼントするのだと一生懸命練習していたのです」
「まあ、ジム、あなたがテッドに教えてくれたの?」
「いいえ、まさか。こちらを教えてくださったのは、イーノックさまでございます」
「イーニーはね、とっても手先が器用なんだよ。それからね、僕とマシューおじさんで、これも見つけたの!」
エドワードが高々と掲げたのは、四葉のクローバーだった。
「僕やアンちゃん、みんなの分も探したんだけれど、今日やっとひとつだけ見つかったの。だからね、これ、父さまに一番最初にあげるね」
「いいのか?」
「うん! だからね、父さま、頑張って。きっとうまくいくから!」
エドワードが、四葉のクローバーをウォルトに手渡す。受け取った四葉のクローバーを上着のポケットに入れたウォルトは、その代わりに小さな箱を取り出した。
「すっかり遅くなってしまった。今度は、ちゃんと君に似合うものを選んだつもりだ。どうかわたしの色を身に着けてほしい。これからもずっとそばにいてくれないだろうか。愛している」
誤解や逃げの余地がない、まっすぐな求婚の言葉にアンナが頬を赤く染めた。瞳がみるみる潤んでいく。
「すまない。結婚式のやり直しをさせてほしい。いや、挙げなかったものをやり直しというのもおかしな話なのだが、どうか神の前で愛を誓わせてほしい」
「僕も、みんなにアンちゃんのこと自慢したいな。僕のお母さま、とっても素敵でしょって」
まっすぐな愛情を伝えられて、目の前がみるみるぼやけていく。苦しいとき、悲しいときの涙は簡単に止められるのに、どうしてだろう、今日の涙は頬や舌の先を噛んでもちっとも止められない。
「どうした? わたしはまた何か間違ったのか?」
「アンちゃん、お腹いたい? 大丈夫?」
「いえ、そんなまさか。ただ、とても嬉しくて。どうにも涙が止められないのです」
感極まったらしいウォルトに、強く抱きしめられた。おろおろとアンナが慌てているうちに、家令に連れられてエドワードとイーノックがいなくなっていた。
「結婚式までお預けだなんて意地悪は言わないでくれ」
「ウォルトさま」
初めての口づけは、甘くとろけるような幸せの味がした。
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