(33)
意識を取り戻したアンナだったが、その後もしばらく病人としての生活が続いていた。上げ膳据え膳の生活はありがたいが、寝台の上で寝てばかりの生活はなんとも落ち着かない。
前世でも今世でも寝込んだことはほとんどない……というよりも、寝込むことなど許されなかった。こちらの世界で熱が出た時など、使用人に風邪がうつったら大変だと、物置小屋に放り込まれた記憶しか残っていないくらいだ。
常日頃から忙しいはずのウォルトが、こまめにアンナの様子を見に来てくれている。それが嬉しいのと同時に申し訳なくて、アンナはウォルトの顔を見るたびに身体を起こそうとした。そんな彼女を、ウォルトが困ったように押し留める。
「医者からのお墨付きが出るまで、君は寝ておきなさい」
「ですが、ウォルトさまが迷惑を被っていらっしゃるというのに、元凶の私が呑気に寝ているなんて許されません」
「今回の一件は、君の異母妹の暴走によるものだ。彼女を止めるべきであったのは、君の両親であって、君ではない」
「ですが」
「そもそもあの家を出て、キャリントン侯爵家に嫁いだ時点で縁は切れているのだ。こちらとしても彼らと親戚づきあいをするつもりはなかったのでね。君はうちの親戚筋の家の養女となってから、ここに輿入れしたことにしてある」
「まあ!」
「戸籍の管理は神殿が行っている。鏡湖の神官長は、とても頼りになったよ」
神官長は確かに自分を頼るように言ってはいたが、少なくとも何の利益もない状態で手を貸してくれたわけではないだろう。どのような交渉を行ったのか、ウォルトが神官長相手に何を差し出したのかを考え、ただひたすらに頭を下げた。
「本当に、申し訳ありません!」
「まあ何を言ったところで君が責任を感じてしまうことはわかっている。だがせっかくなら、謝罪よりもお礼の言葉が聞きたいものだ」
「もちろんです! ウォルトさま、本当にありがとうございます!」
「君の笑顔が見られるなら、狸たちとのやりとりも楽しいものに思えてくるから困ってしまうな」
ウォルトが笑いながら、アンナの髪を撫でる。大きなてのひらから伝わる温もりはなんとも心地よくて、自然と身体を預けたくなった。ウォルトに甘えすぎている自分に気が付いて慌てて離れようとするが、ウォルトはアンナの身体に回した腕を外そうとはしなかった。何度か脱出しようと試みて、最終的にアンナは顔を見られないようにウォルトの胸に額を押し当てた。これが家族として許される甘え方なのか、アンナにはもうよくわからない。
「実家との後始末までお任せしてしまって……」
「これはわたしが勝手にやりたかったことだ。君を散々利用してきた人間が、またいつどんなきっかけで君を食い物にするかわからない。わたし個人としても、キャリントン侯爵家としても、君の実家の無法を許すわけにはいかなかった。君にとって、辛い結果になってしまったことを申し訳なく思う」
「ウォルトさまこそ、お気になさらないでくださいませ。当主を挿げ替えるだけで片を付けてもらえたのです。私個人としては、むしろすがすがしいほどですわ」
アンナの実家は、この一件がもとで当主が代替わりしている。アンナの実父は当主の資格なしと判断され、新たな当主が立てられたのだ。父方の親戚たちは、正統な後継ぎであるはずのアンナが虐げられている時には触らぬ神にたたりなしとばかりに黙認していた。
しかし異母妹が加護持ちを騙り、王家を謀ったという話を知るやいなや、信じられない速度で重い腰を上げたらしい。連座で処刑されるのはまっぴらごめんということだ。他人事ではなくなった途端の展開の速さには、アンナもさすがに苦笑するばかりだった。この一連の流れのおかげで、イーノックの婚約に関する話も正式に終わりにできたのだけはありがたいことだったのだが。
主犯である異母妹の行方はようとして知れない。彼女の護衛をしていた神殿騎士についても、すでに神殿を離れる手続きを済ませてしまっているらしい。この件で懲りて大人しくしていてほしいとアンナは切に願っている。
ちなみに崩壊した神殿のがれきは撤去している最中だが、巻き込まれた人間は見当たらないそうだ。もともと、常駐の神官が数人しかいない本当に小規模な神殿であったことがその理由らしい。神殿が崩壊した理由については、興味深い報告が挙げられている。
どうやら、唐突に神殿の真下で大規模な地盤の空洞化が発生したらしい。地下水流の急激な変化に伴う土砂の流失かと思われたが、もともと神殿付近に水脈はないとのこと。
どちらかといえば、新規の隧道掘削中に地盤が崩壊した現場によく似ていたというが、さすがに小規模とはいえ、神殿直下での隧道工事は予定されていなかったらしい。そのため神殿倒壊については原因不明扱いになるようだ。今後は、別の場所に小神殿を建て直す予定らしい。
ちょうどよく潰れたおかげで、隠蔽工作が楽で済んだとウォルトは話していたが、基礎工事に魔術が使われていることの凄さをしみじみとアンナは実感したのだった。
「ありがたいことに、この機会にいろいろな場所で風通しが良くなった。これまで放蕩の限りを尽くしていた連中も、慌てて襟を正し始めているそうだ。それから毒に倒れた君を救ったのはイーノック殿だ。彼にも礼を言うといい。きっと喜ぶ。……どうした、そんな浮かない顔をして。どこか具合でも?」
アンナが命を取り留めたのは、秋人とエドワードが作ってくれたグラニータのおかげだという説明は聞いていた。ウォルトは、秋人が特別な力を持つことを知ってしまった。本当なら、もう一度監査官を呼び、改めて効果のある経口補水液なりなんなりと作って、王家に献上すべきなのだろう。その場合は、秋人の身柄を神殿に移すことになったかもしれない。
けれどウォルトは、アンナと秋人が政争に巻き込まれないように口をつぐんでくれている。貴族として許されない行為で、王家を謀っていると糾弾されても仕方がない。それでも、彼は一貫してアンナや秋人を守るために動いてくれている。どうして彼は、こんなにもアンナに良くしてくれるのだろう。アンナは彼のために、何にもしてあげられていないのに。
「いいえ。ただ、せっかく輿入れしたというのに侯爵家のお役に立つどころか、ウォルトさまにご迷惑をおかけしてばかりなのがやはりどうにも心苦しくて……」
前世から育てることのできなかった自尊心の低さは、そう簡単には治らない。さきほどウォルトに言われたばかりだというのに、すぐに縮こまって謝罪の言葉を繰り返したアンナに、ウォルトはそっと頭を振った。
「わたしは、君が役に立つからそばにいてほしいわけではない。君が君らしく生きていてくれるなら、それだけでわたしの望みは叶っているんだ」
「ウォルトさまは、私を甘やかしてどうするおつもりですか」
「大切なひとに笑っていてほしいと思うのは、当然の感情だろう? エドワードも同じだとも」
てらいもなく微笑みかけられた上に、頬を優しく撫でられる。また顔が普段よりもぐっと近づけられた。予想外の触れ合いに、アンナは思わずベッドの中に潜り込みたくなってしまい、さらに顔が熱くなった。
そう、ここは寝台の上なのだ。書類上とはいえ、夫婦であることを考えればふたりの距離の近さはおかしくはない。けれど、あくまでエドワードを間に挟んだうえでの家族という形に慣れているアンナには、少々刺激が強かったのだ。そんな彼女のことをあえて見逃してくれたのだろう。ウォルトが、あからさまに話題を変える。
「ちなみにエドワードは、イーノック殿と一緒に毎日楽しく料理に勤しんでいる。これからの時代は、料理ができる男がモテるんだとか」
「まあ。どのようなものを作っているのでしょう?」
「塩漬けライムに、スグリ酒、ラズベリー・コーディアルを作っていたな。今日はプラムの砂糖漬けを作ると張り切っていたような。作ると言い出したくせに、作り方を知らないものだから料理人が困惑していた」
「申し訳ありません。それはたぶん、私の影響でして……」
「君の得意料理なのか?」
「いいえ。どれも、昔、私が食べてみたいと列挙していたものなのです」
「そう、か……」
ウォルトは少しばかり口ごもる。アンナが実家で虐げられていたことを知っているウォルトにしてみれば、お腹を空かせたアンナが空腹を紛らわせるために美味しそうな食べ物の名前を列挙しているように聞こえたのかもしれない。
実際はどれも、前世の春香が海外児童文学を読んだ時に見知った食べ物ばかりだ。調べてみたところで、実際に味わうことなど難しく、それでもいつか食べてみたい憧れの料理として、アンナは子どもたちに読み聞かせの時にこれらの食べ物の名前を出したことがあったのだ。もう随分と昔の話だというのに、覚えていてくれたことがとても嬉しい。そして、それを今の世の大好きな家族と一緒に食べられるなんて、胸の高鳴りを抑えることができなかった。
「どれも食べるのは少し先になりそうですね。お楽しみはこれからというところでしょうか」
「ああ、そうだな。エドワードは、作ったその日のうちにどれも食べられると思っていたそうで、恨めしそうに地下の貯蔵庫を見つめていた」
くすくすとこらえきれずに笑いだすアンナのことを、ウォルトは目を細めて優しく見つめていた。




