(32)
「そんな非科学的な」
「この際、アンナが助かるならば神の奇跡だろうが、ただの偶然だろうがどうでもいい。お前がやらないというのなら、貸せ。わたしがアンナに食べさせる」
「はあ? これを作ったのは俺とエドワード。だから、グラニータを食べさせるのも俺とエドワードに決まってんだろ!」
怖いくせに、素直にウォルトに頼るのも許せなかった。ウォルトは自分とは異なる、大人の男だ。せっかく会えたアンナに謝罪をするどころか、八つ当たりをしてしまうほどに愚かな子どもとは大違いだ。アンナも、ウォルトのことを頼りにしているように見えた。前世とは異なるこの世界で、アンナが頼れる相手がいることは喜ばしいはずなのに、どうしても認めることができない。
もう一度、母を失うことは絶対に嫌だった。それなのに、自分の行動にアンナの命が左右されるということが恐ろしくて、先ほどとは違う意味で手が震える。
「ほら、早く食えよ」
「アンちゃん、食べて。お願い!」
「お願いだから。俺、言いたいことまだいっぱいあるんだから」
「僕のこと、置いていったら嫌だよ」
本当にこんなものが効くのだろうか。いや、自分が信じなければ加護の効果は発揮しないのではないか? 震える手で秋人は、逡巡している間にすっかり溶けてほとんど液体になったグラニータをアンナの口元に押し込む。少しでも飲みやすくできればとアンナの身体を、ウォルトが起こして背中側から支えている。力なくその身体をウォルトに預けているアンナからは、まったく生気が感じられない。
「やっぱりこんなものに特別な力なんて宿っていないんじゃ……」
「弱気になってどうする。何かを為すために、お前はここまで来たんだろう?」
「……あんた、どこまで俺のことを知って……」
「何も知らん。アンナが話したくなるまで待つつもりだからな。それでも、お前を観察していれば、わかることは少なくない。大丈夫だ。お前の行動がどう転んだとしても、アンナはお前を責めはしない。親というのは、そういう生き物だ」
飲み込んでくれ、本当に自分が作った食べ物に治癒の効果があるのならどうかその唇を開けてくれと、祈るような気持ちでアンナを見つめた。溶けかけたグラニータは口の端から溢れるばかりで、アンナの身体にさえ入ってくれない。
ブラックベリーとラズベリーの果汁は、レモン汁のお陰でとても発色がいい。だからこそ、溢れた汁は口の端からまるで血を吐いているようにも見えて焦りばかりが募る。いっそ、スプーンを口の中に無理やり押し込むべきなのか。右手がうまく制御できなくなり、スプーンを取り落としそうになった。
「どうしよう、父さま。僕、できないよ」
当然のようにウォルトに助けを求めるエドワードのことが、心底羨ましくなった。アンナを助けてみせると大見栄をきったくせに、自分は何もできない役立たずだ。頭をかきむしって、叫び声を上げたくなる。ぐっと唇を噛んでその衝動を抑えてはみたものの、じわりと涙がにじんだ。そんな秋人の右手を、スプーンごとウォルトが握る。
「人命救助のためだ。許せとは言わない。あとから、決闘を申し込むなりなんなり好きにしろ。受けて立ってやる」
「へ?」
「頼む、アンナ。どうか、戻ってきてくれ」
そのままウォルトがスプーンの中身を口に含むと、アンナにゆっくりと顔を近づけた。ふわりと風が吹き込み、レースのカーテンが揺れる。夜だというのに、アンナとウォルトの間から一瞬差し込んだ光がまぶしくて、目がくらんだ。雷鳴よりも柔らかな、月明かりにも似た、すべてを覆いつくす白銀の輝き。驚いてしがみついてきたエドワードを抱きしめ返したところで、周囲の明るさが元に戻る。
「よし、しっかり喉が動いたな」
何拍か遅れて、先ほどウォルトが口移しで溶けたグラニータを飲ませたのだと気が付いた。けれどなぜだろう、不思議なほど嫌悪感は生まれなかった。むしろ、秋人の中にあったのは、この苦境を自分ひとりで背負う必要はないのだという安心感だった。
***
真っ暗な中を、アンナはただひとり走っていた。後ろから、闇が迫ってくる。なぜかはわからないが、足を止めたら最後、もう二度と自分ではいられないような気がした。喉がからからで、息ができない。息を吐いてばかりで、どうやっても酸素が吸い込めないのだ。
目の前にぼんやりと灯りが見えた。真っ暗闇の中で、わずかに開いた扉が見える。そのまま扉に手を伸ばそうとして、弾かれたように手を引っ込めた。扉の向こうに見えたのは、見知らぬ女とむつみ合う前世の夫の姿だった。
どうして自分はこの男と結婚したのだろう。もう悲しむことはないと思っていたはずなのに、胸が痛い。同時に、開いていたはずの扉が予想以上に大きな音を立てて、目の前で閉じた。ドアノブがあったはずの場所を触っても、そこにはもう何もない。
慌てて周囲を見渡せば、前方にまた薄く光が見えた。必死に前へ進み、中を覗き込む。そこでは、娘が夫の浮気相手と楽しそうに買い物をしていた。やっぱり飛び込むことができなくて、たたらを踏んでいると、また大きな音と共に扉が目の前で閉められる。別の扉には、幸せそうに微笑み食卓を囲んでいる実父と異母妹たちがいる。もちろん、扉はぴしゃりとアンナの目の前で閉じられた。
そこから先は同じことの繰り返しだ。光を見つけて、中に入ろうとし、ためらっているうちに扉は閉まってしまう。自分の見たくもない景色を見せつけられることも、中にいるひとたちは幸せそうなことも、誰も自分に気が付かないことも、全部全部同じだ。
ああ、前世の世界にも、今世の世界にも、自分の居場所なんてどこにもないのだ。そう気が付いたら、足がすっかり動かせなくなっていた。さきほどまであんなに必死になって走っていたはずなのに、周囲の景色は何も変わり映えがしない。もしかしたら自分はただ同じ場所をぐるぐると回っていただけなのではないだろうか。
もう、頑張る必要はないのかもしれない。どれだけ頑張っても意味なんてないのかもしれない。走るのを止めるべきか迷って、よろよろとしたまま立ち尽くしている。ああ、もうおしまいだ。そんな気持ちと、やっとやめてもいいんだという気持ちがないまぜになる。もう暗闇はすぐ後ろに迫っていた。
自分に追いついた暗闇は、思っていたほど気色の悪いものではなかった。視界がかすみ、息は苦しくなるけれど、信じられないような痛みはない。ただ疲れ目でスマホの画面がぼやけてみえるような、機械の不具合かなと思っていたら、実はおかしくなっていたのは自分の目のほうだったと後からようやく気が付くようなその程度の違和感だ。これが死ぬということなら、意外と死は怖くないのだと思えた。
ああ、これでもうおしまいだ。ふっと力を抜きかけた時、なぜか強く抱きしめらたような気がした。両手の先に誰かがいるような、背中から誰かに支えられているようなそんな温もりがある。自分を待っていてくれるひとなんて、いるはずもないのに。いや、そうだろうか。本当に自分を必要としているひとは、ひとりもいないのだろうか。
――お願いだから。俺、言いたいことまだいっぱいあるんだから――
――僕のこと、置いていったら嫌だよ――
――頼む、アンナ。どうか、戻ってきてくれ――
その声があまりにも愛おしくて、アンナは思わず深く息を吸ってみたのだ。
***
こんこんと立て続けにアンナが咳き込んだ。薄く目を開け、混乱したように周囲を見回す彼女に、秋人はガラスの器を押し付けた。すっかりぬるくなり、ただの甘いベリージュースになったグラニータの成れの果てが、器の中でたぷんと揺れる。
「早く飲めよ」
「イーノック、そう急かすな。スプーンで少しずつ飲ませるべきだ」
「まだ冷凍庫に山のようにあるんだからな。いっぱい飲めよ。残したら許さないからな」
「今度こそ、お前がアンナに飲ませてやるといい」
「僕は?」
「こぼさないように気を付けて、エドワードも飲ませてやりなさい」
呆けたような顔をしていたアンナだったが、秋人とエドワードにかわるがわるスプーンを差し出される。それは干からびた大地に恵みの雨が染みわたるように、色を取り戻したばかりの唇に吸い込まれていった。




