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「なあ、侯爵さま。あの女は一度眠ったらもう目が覚めないって言ってたけど、嘘だよな? そんな呪いみたいな毒なんてないよな?」
アンナを運ぶウォルトに秋人がすがりつく。ウォルトは返事をしないまま、アンナを抱きかかえて屋敷に走った。ありがたいことに、万が一の事態に備えて家令であるジムがお抱えの医師を手配していたらしい。何人もの足音と何かを巡る声が屋敷内を交錯している。自分が何もできないことをわかっていながら、秋人はウォルトの後を追いかけた。
寝台にアンナを横たえるが、アンナはくぐもったうめき声をあげるばかりだ。アンナの診察を終えた医師が渋い表情を浮かべている。それだけで、アンナの状態が思わしくないことは一目瞭然だった。
「今できることは何もないのか? 騎士団に渡した例の魔法薬、あれを与えてみるのは?」
「閣下、もともと夏の眠りには魔法薬の効果がないことはご存じでしょう。魔法薬は等級にもよりますが、いわゆる外傷に対しては非常に有用です。みるみるうちに傷が塞がっていく様子は、見事としか言いようがありません。しかし、魔法薬があるからといって医師が不要になりましたか?」
「いいや、魔法薬は万能ではない。怪我の場合は欠損した部位の回復は難しいし、傷が塞がったところで熱が下がらないまま死ぬこともある。病気にも効果がないことが多い」
「その通りです。明らかな異常である夏の眠りにさえ、魔法薬は効かない。そして、悪魔の林檎は、異常状態とさえ認識されません。あくまで、身体におかしなところはなく、深い眠りに入っているだけなのです」
「指をくわえて見ていろと?」
「『聖者の指輪』をお持ちであればあるいは」
医師の言葉にウォルトは目を見開いた。「聖者の指輪」は、どんな異常状態も回復させることができると言われている幻のアイテムだ。しかしそれを人間が利用することはできないと言われている。何せ、宝石のような種子に触れた瞬間に、その人間は聖者の指輪の養分にされてしまう。ひとひとり分の魔力と生命力と引き換えに聖者の指輪は完成するが、その指輪を持ち運ぶことができるのは、その魔力と生命力を差し出したものに限られるのだ。
もともとは、心臓が複数存在する魔獣が利用していたのが「聖者の指輪」だ。どんなにすばらしい回復効果があったところで、人間には手が出せない代物である。そのため、何かの引き合いとして「聖者の指輪」という言葉が出てきたときには、それは「不可能」「なすすべなし」という意味を表している。そう、本来であれば。
しかしウォルトには、心当たりがあった。そう、エドワードの実母であり、ウォルトの前妻こそが、存在するはずのない「聖者の指輪」の持ち主……あるいは依り代なのだった。自分が過ごしたあの苦痛の日々は、今日のためにあったのかもしれない。医師が退室した部屋の中で、そんな確信さえ抱きながらウォルトは告げた。
「……地下に向かう」
「侯爵さま、地下には一体何があるんだ? それに『聖者の指輪』って?」
「……アンナを救えるかもしれないものだ。アンナの異母妹であるブライス嬢はとんでもない女だったが、彼女が準備したものはどれも恐ろしく質の良いものだった。暗殺だとか、騙し討ちという分野においてはな。おそらく神の奇跡に等しいものでなければ、アンナを救うことはできないのだろう」
「はあ?」
「アンナ。もう少しだけ待っていてくれ。すぐに、戻ってくる」
アンナの頬を撫で、ウォルトが扉へ向かう。しかし数歩進んだところで、怪訝な顔をして足を止めた。ウォルトの上着の裾を、意識がないはずのアンナが硬く握りしめている。意識を取り戻したのかとウォルトがもう一度顔を覗き込んだが、苦し気な表情を浮かべたまま、その瞳はかたく閉ざされていた。
「アンナ、手を離してくれないか。君のために、少し席を外すだけだ。すぐに戻ってくる」
「行くなってことなんじゃないの?」
「なぜそんなことがわかる」
「いや、前にちょっと聞いたことがあってさ。眠ったままの病人でも、耳だけは聞こえていることが多いんだって。だから、うまく反応はできなくても、俺たちの話はちゃんと理解しているんじゃないかな」
現実世界でも、植物状態と診断された患者が、奇跡的に意識だけを回復させた事例がある。彼は、自分の身体が眠っている状態にあった数年間の出来事を、耳から情報を取得し、把握していたはずだ。同じようなことが、アンナに起きていてもおかしくはない。秋人の説明に、ウォルトが震える声でアンナに尋ねていた。
「アンナ、教えてくれ。君は何をわたしに伝えたいんだ?」
「……」
「なんか言ってる?」
「わからない。だが、わたしをつかむ手の強さが上がったような気がする。絶対に地下へ行かせないという気概を感じる」
アンナの加護の力は、こんなところで発揮されているらしい。無理矢理にアンナの手を振りほどくことは難しそうな状態に、ウォルトが困惑していた。
「……地下に行ってほしくないのか? 自分のそばにいてほしい? 離れたくない? いや、違うか。地下にあるものを、使ってほしくない?」
秋人が首を傾げながら考えるように独り言を言うと、ウォルトがはっとしたように目を見開いた。
「あれは、エドワードのものだから自分に使うなと言いたいのか? エドワードは君を助けるためなら、喜んで差し出すだろう。何も心配はいらない」
「よくわかんないけど、何かすごい薬があって、それはエドワードの許可がないと使えないものなのか?」
「……まあ、だいたいそういうところだ」
アンナの呼吸は先ほどよりも明らかに浅くなっている。本当は息が止まっているのではないかと疑いたくなって、秋人はぞっとした。顔の前にてのひらをかざしてみると、わずかにあたたかく湿った空気がてのひらに当たる。
「どうして死ぬかもしれないって時に、我慢するんだよ」
思わず舌打ちしながら呟けば、生前の春香の姿が思い起こされた。春香はどんなに朝が早くても、夜が遅くても、秋人のために動いてくれていた。具合が悪い、吐きそう、怖くてトイレについてきてほしい、明日必要なものを言い忘れていた、そんな父親に言えば怒鳴り散らされそうなことを、春香はどんなときだって対応してくれた。それは夏美であっても同じだ。もしかしたら、浮気性な父であっても、嫌味ったらしい祖母相手にだって笑顔で、まめまめしく動いていたのかもしれない。
当時はそれが普通だったし、そんなものかと思っていた。でもそうではないのだと、春香がいなくなってから秋人は思い知ることになる。自分で早起きして弁当を作ったり、買い物をしたり、用事を片付けたりするようになって初めて気がついたのだ。あれもまた、春香の無償の愛だった。
そんな春香がエドワードに遠慮して、謎の特効薬とやらを使うことを嫌がっているらしい。飲んで毒になるわけではないのなら、飲めばいいのだ。秋人の祖母はもったいないと、賞味期限が何十年も前に切れたお中元を後生大事に抱えていた。必要なときに使わなければ、何の意味もない。本当に馬鹿馬鹿しい。生きてさえいれば、なんだってできるのに。
「使えばいいじゃんか! なんでだよ、使えよ!」
「おい」
「なんだよ、それ。今死んだら、意味ないじゃんかよ。だって、あんた、今幸せなんだろ? じゃあ、もっと生きることに貪欲になれよ! 薬が欲しいって、頼んでみろよ! エドワードだって、困るだろ。あげないなんて言ってないのに、欲しいって言われなくてそのままにしていたら、新しいお母さんが死んだとか、そっちの方がよっぽどトラウマになるわ! あいつが超マザコンのキモ男に成長したら、あんたのせいだぞ!」
「落ち着け」
「返事しろよ。そんなに使いたくないの? じゃあさ、やっぱり俺と一緒に帰ろうよ! 俺、一生懸命、水竜さまに頼んでみるから」
アンナの両手を握りしめて、秋人が叫ぶ。そんな秋人の肩に、ウォルトが静かに手を置いた。
「お前がアンナを連れて帰りたがっている場所では、初見の毒でもどうにかできるような万能薬が存在しているのか?」
「それは……。でも、俺は嫌なんだよ。もうなんにもできないまま、見送るのだけは嫌なんだ!」
「アッキー、大丈夫だよ。これをアンちゃんに食べさせて!」
声を震わせながらウォルトに訴え続ける秋人に声をかけたのは、息をきらせたエドワードだった。




