(29)
激しい咳とひゅうひゅうという悲鳴のような呼吸音が響く。アンナの顔色は明らかに青ざめていた。慌てて駆け寄ろうとした侯爵に剣を向けたのは、ブライスの後ろにいたはずの神殿騎士だ。互いにじりじりと睨み合う。
「貴様、アンナに何をした!」
「あらやだ、侯爵さまったら。何をしたか聞かせてもらいたいのは、あたしのほうよ。一体どれだけ爛れた暮らしをしているの? ちょっといけない目で見てしまいそう」
「どういう意味だ?」
「だって、むせかえるほどの濃さで焚いていたのに、いつまで経っても平気な顔をしているんだもの。ずいぶんとお盛んなのね」
面白いものでも見つけたかのように、ブライスがウォルトを不躾に眺める。ウォルトが、忌々しそうな声を絞り出した。
「眠りの林檎を使ったのか。それも、とびきり強烈なものを」
「その様子だと、媚薬としては使っていないみたいね。なんだ、つまらない。それじゃあ、眠れないほど不安な日が続いたのかしら。それとも大怪我をして痛みを誤魔化してるのかしら」
「何と無礼な。そもそも貴様だって、平気な顔をして立っているではないか」
「だって、あたしは特別な薬を飲んでいるもの。侯爵さま、今ここで使っている眠りの林檎は特別製なの。それこそ、悪魔の林檎なのよ。どんな気つけ薬を使ったって、一度眠りに落ちた者を起こせやしないわ。ほら、こんな風にね」
ブライスは、ちらりと足元のアンナを見やった。そのまま、令嬢にはあるまじき速度で足を蹴り上げる。けれど、その足がアンナの細い身体にめりこむことはなかった。倒れ込んでいた秋人が、アンナを庇ったからだ。
「やっぱり狸寝入りだったのね。本当に嫌になっちゃう。昔から、ちょっとしたことで緊張して、すぐに眠れなくなっていたものね。いくら薬の範疇でも、常用していたら耐性ができて当然だわ。本当に毎度毎度、あたしの邪魔ばっかり。ちっとも役に立たないんだから」
「いったん気絶してたのは本当だからな。この暴力女が」
ブライスに踏みつけられた状態の秋人が、わりと本気でうめいていた。
「本当に鬱陶しい。やっぱり、これをつかうべきだったかしら? 貴重なものだからできれば使いたくなかったのに」
小さく舌打ちしながら、ブライスはどこからか黒光りする首輪を取り出した。禍々しい気配に、ウォルトが顔を引きつらせる。
「隷属の首輪だと! 一体どこでそんなものを」
「蛇の道は蛇って言うじゃない」
「……そんなものを見せつけて、わたしと取引がしたいのか?」
「いいえ、まさか。だって眠ったら、もう二度と起きられないの。今はまだうつらうつらしているようだけれど、どうせすぐに何もわからなくなるわ」
「ではなぜ、今ここで隷属の首輪をつけようとする?」
「だから何度も言っているでしょう? 間違いは正さないと。あなたたちが大事にしているお姉さま、あたしが死ぬまで辱めてあげる。ああ、侯爵さまも、せっかくだから最後まで見たらいいんじゃない?」
「何をぬけぬけと」
隷属の首輪は禁制品だ。そもそも市場に出回らないし、一般の魔導具師では材料をそろえることはおろか、術式を組み立てることさえかなわないだろう。眠りの林檎といい、隷属の首輪といい、厄介なものばかりだ。
「どんななぶり方をしようかしら。ふふふ、せっかくだからイーノックが選んでもいいわよ」
ブライスは、隷属の首輪をアンナの細い首に近づけた。ばちっと光が弾け、ブライスは悔し気な顔でアンナを見つめる。アンナの首に、隷属の首輪をつけることができないのだ。魔力を流したところで、より大きな魔力で編まれた防御結界に阻まれていることがわかった。
「そんなにお姉さまが大事なの? でもお姉さまは悪いひとよ。あたしなんかよりも、ずっとたくさんの隠し事をしているもの。あたし、知ってるんだから」
「彼女に触れるな!」
「ああ、本当に頭にくる。こんなのおかしいじゃない! この世界で愛されるべきなのは、あたしの方なのに! やっぱり、こいつも、こいつを生んだブスと一緒に殺しちゃえばよかったんだ!」
その瞬間、じゅっという嫌な音とともに、ブライスが隷属の首輪を取り落とした。
「熱い! 熱い! 熱い! 熱い!」
何が起きたのか、ブライスが髪飾りを抑えてのたうちまわっている。何が起きたのかわからないまま、ウォルトと秋人はアンナのもとに駆け寄った。護衛対象であるはずのブライスの奇行を止めることもなく、なぜか得心がいったかのような顔で、神殿騎士は穏やかに微笑んでいた。
「誰にでも他人に踏み込まれたくない領域というものはあるものだ。言いたくないことを他人が暴き立てるべきではない」
「隠し事の内容さえ知らないくせによく言うわね!」
「彼女がその秘密を抱えきれないというのなら、その秘密をわたしも共に背負えばいいだけの話しだ」
「ふざけんじゃないわよ! どうしてこいつが愛される! どうしてあたしばっかりこんな目に!」
ブライスが叫んだその時、ぐらりと建物が揺れた。地震なのだろうか、天井からいろいろなものが落ちてくる。色とりどりのステンドグラスにひびが入った。慌ててウォルトがアンナを抱え上げる。秋人もそれに続いて、のろのろと立ち上がった。
「ちょ、ちょっと、あたしのことも助けなさいよ! あたしが生き埋めになったらどうするの!」
「どうもしねえし」
「ああああ、そんな、ねえ嘘でしょう! どうして隷属の首輪があたしに嵌まっているの?」
「知らねえよ。あれだけのことをやらかして、刺されないだけマシだと思え。俺、あんたのこと絶対に許さねえから」
そこで建物が再び揺れる。神殿騎士は、うずくまったまま悶絶するブライスを問答無用でひきずり、そのまま主聖堂の外へと走り出て行った。
「この状況でまだあいつが聖女だって信じているのか? マジかよ」
こんな状況だというのに首を傾げながら見送る秋人に向かって、ウォルトが声を荒らげる。
「何をぼうっとしている! 脱出するぞ!」
「え、地震の時には、机の下とかでじっとしておくんだよ。慌てて飛び出すと危ないから、揺れが収まってから逃げるんだ。小学生でも知っている常識だろ。あ、こっちには避難訓練とかないのか? 地震大国育ちを舐めるなよ」
「お前こそ、一体何を寝ぼけたことを言っている。地震大国がどこを指しているかは知らんが、この国は地震なんてめったに起きない。つまり大地震に耐えうる建物など存在しない。言っている意味がわかるか? このままいれば、神殿の瓦礫に埋もれて一巻の終わりだ」
「じゃあ、やばいじゃん!」
「だからそう言っている。さっさとついてこい」
「なんで奥に向かうんだよ。生き埋めになりたくないなら、さっさと外に」
「お前はここにどうやって来たんだ?」
「どうやって、それは……あ!」
アンナを抱えたウォルトと秋人は、地下聖堂に飛び込む。結界で補強をし、奥へと移動する。
「そのクラバットピンを破壊しろ。いつものように魔力を全力で込めれば、簡単に破壊できるはずだ。あいにく、わたしは結界を維持するのに忙しいのでな」
「壊せって急に言われたって……」
困惑しつつも、秋人はクラバットピンに嵌められた魔石に手を伸ばす。身体の中に流れる魔力をかき集めながら、ぎゅうぎゅうに魔石に込めていく。小さなカバンに無理矢理承服を詰め込むように、あるいはパンパンのゴミ袋になんとかもう少しだけゴミを押し込めるように。力の流れを意識して魔石を握りしめた瞬間、魔石は手の中でさらさらと砂のように崩れていった。そして彼らは無事に開いた地下通路を通り、キャリントン侯爵邸の庭へと戻ってきたのである。




