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【書籍化予定】継母になった嫌われ令嬢です。お飾りの妻のはずが溺愛だなんて、どういうことですか?  作者: 石河 翠
第二章

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 ランタンを用意させようかと思ったが、わざわざ使用人を呼び出すのも面倒だ。何より、今夜は月が明るい。庭で頭を冷やす程度なら、灯りは不要だろう。そう思って庭に下り立てば、むせかえるような薔薇の香りが立ち込めていた。


 先ほどまで感じていたアンナの甘く柔らかな香りが一瞬にして吹き飛んでしまったことが少しだけ残念で、ことさらにゆっくりと深く息を吸う。薔薇に手を伸ばせば、指先が夜露で濡れた気がした。その湿り気に、彼女の涙をまた思い出す。


 その時、庭園に設えられたガゼボに人影が見えた。目をすがめてみれば、なんともきまり悪そうな顔をしているイーノックがいる。その瞬間、ウォルトは思わず小さく舌打ちをしてしまった。そもそも先ほどアンナがうなされていたのは、あの元婚約者と異母妹のせいだろう。優しく対応できるはずがない。今日の手紙のせいでどれほど彼女が不安になったことか、考えるだけで腹が立つというものだ。


 イーノックに関することだったのでアンナにも手紙を見せたが、最初から握りつぶしておくべきだったのかもしれない。さっさと屋敷から放り出してアンナの異母妹に引き渡してしまえば、それで終わる話だったのである。ウォルトはそもそもイーノックのことが嫌いだ。何せイーノックは、アンナを傷つけた元婚約者である。そんな彼が不幸になったところで、自業自得、因果応報だとしか思わない。


 だが不思議なことに、アンナはイーノックのことをとても大事にしているようだった。アンナの異母妹の要求通りにイーノックを屋敷から追い出せば、アンナはウォルトに失望するに違いなかった。それどころか、イーノックのことを心配して彼と一緒に実家に戻るなどと言いだしかねない。


 やけぼっくいに火がついたりすることのないよう、ウォルトは嫌いな男のために心を砕かねばならないのだ。アンナのが同席していない今、本人に嫌味のひとつやふたつくらい言っても許されるだろう。


「あ、侯爵さまじゃん」

「身分の低い者から声をかけるな。このうつけが」

「うわ、俺ひとりだと、あからさまに態度がかわってやんの。すげえな」

「貴様こそ、なんだその口の利き方は。貴族としての礼儀も忘れたのか」

「だから、俺、記憶喪失だって言ってんじゃん」

「その割には、アンナにべたべたとくっついていたようだが。アンナのことだけは覚えている記憶喪失か? 随分と都合の良いものだ」

「でも全部本当のことなんですう」

「煽るのはかまわないが、いつまでもわたしが許すと思うなよ? 罪に問われない方法で消す方法など吐いて捨てるほどあるのだからな」

「うっわ、まじでとんでもないじゃん。こんな危険人物が夫でいいわけ?」


 慌てて逃げ出そうとしたイーノックの首根っこをつかむと、ウォルトはガゼボの椅子に無理矢理座らせた。


「こんなところで何をしている」

「眠れなかったから、ちょっと庭でぼーっとしてただけ。ベッドの中にいるとさ、寝なくちゃって気持ちになって焦るんだよ。いっそ散歩とかするとさ、頭の中もすっきりするし、身体もほどよく疲れてちょうどいいんだ。あ、ちゃんと、執事のひとに声かけて出てきてるし! 無断で庭に出てきてないから!」

「ジムは家令だ。執事ではない」

「ええ、俺、よくわかんないよ。貴族のお坊ちゃんのお世話係は執事のセバスチャンって決まってるんだよ」

「何を言っているんだ、貴様は。寝言も大概にしろ」


 身分差をちっとも理解できていないらしいイーノックを前に、ウォルトは頭が痛くなってきた。まだ幼いエドワードでさえ、貴族社会の立ち居振る舞いをそれなりに理解している。いくら記憶喪失とはいえ、イーノックの反応はあまりに異質過ぎた。そして、異質という意味では、イーノックとアンナは共通しているのだ。


「アンナのことをどう思っている。正直に言え。遠慮は無用だ。この場で聞いたことは、咎めないと誓おう」

「不器用なお節介おばさん」

「貴様の首をこの場ではねてやろうか?」

「不問にするって言ったじゃん! だって、自分のことは後回しにして、ひとのことばかっかり世話焼いてさ。その分の労力を自分に向けた方がいいって」

「その内容は貴様に対しては完全にその通りだ。自分自身のことをよく理解しているようでなによりだ。命拾いしたな。それだけか? その、恋愛感情は……」

「あるわけないって! はあ、家族のそういう話とか聞くのきついんだけど!」


 家族、そう家族だ。アンナとイーノックは、元婚約者同士。貴族の家門はお互いに婚姻を繰り返しており、どこかの血筋が入り込んでいることも少なくない。だから、そういう意味で血族である可能性はあるだろう。


 だが、そうではないのだ。彼らは兄弟姉妹、いやむしろ親子のような自然さと親密さを持っている。現在、婚姻をしているウォルトが、その関係性に密かに嫉妬してしまうほどに。だが、鳥肌が立ったと言いながら腕をさするイーノックを見ていれば、彼がアンナに恋心を抱いていないだろうこともまた十分に理解できた。彼らの関係は、正しく家族なのだ。自分なんかよりも、ずっと。


「まったく、妬ましいことだ」

「は? 何? あ、もしかして疎ましいって言った? 悪い、悪い。新婚夫婦の家に転がり込んだお邪魔虫だってことはわかってるし、反省している」

「ほう? 急にどうした」

「いや、ちょっと一緒に住まわせてもらって、いろんなことが見えてきたっていうか。今さらなんだけど」

「本当に今さらだな。まあ、それでも反省できたならいいだろう。その気持ちを覚えていれば、アンナを裏切ったり、ブライスとやらに騙されることもあるまい」


 そこで急にイーノックは、あはははと力なく笑った。この男らしからぬ、どこか空っぽな笑い声だった。


「大丈夫、俺は侯爵さまたちを裏切らないよ。あんたたちには、ちゃんと幸せになってほしい。だから、あの馬鹿女の言うことは聞かない」

「なるほど、その辺りのことは理解していると」

「問題は、とりたてて俺に対抗手段がないことなんだよ。歴史の勉強をしていると、もしかして一番簡単に物事が解決する方法って、こいつが死ぬことなんじゃないかなって思うことあるんだけど。今まさに、俺がその立ち位置にいるような気がしてならないんだよねえ。侯爵さま、俺、まだ死にたくないです! お願い、助けて!」

「何の躊躇もないとは。貴様、男の癖に恥ずかしくないのか」

「カッコ悪いとは思うけど、恥ずかしくはない。むしろ、自分は何でもできる、大丈夫だって思い込んで、相談もなしに行動に移すことのほうが問題なんだ。大事なことは、ちゃんと口にしなきゃ伝わらないってわかってたのに」


 その言葉には、いつもの子どもじみたイーノックから発せられたとは思えないほどの重みが漂っていた。


「では、キャリントン侯爵家に連なる者たちに決して不利益を働かないという契約を結ぶか」

「あ、それって、昼間に言ってたやつ」

「そうだ」


 契約の内容ややり方を説明しつつ、それでもウォルトはイーノックが契約を結ぶことはないだろうと予想していた。何せ、この契約は雇用主と使用人だからこそ成り立つ契約なのだ。自分の情報すべてが契約相手に筒抜けとなってしまう。貴族同士で行えば、それは忠誠を誓うという宣言にも等しい。嫌いな相手なら、奴隷契約にさえ似ているような感覚を覚えるかもしれない。実際、昼間イーノックはとても怖がっていたではないか。


「了解! じゃあ、ちゃっちゃっと始めようぜ」

「……おい、待て。少しは考えろ! そうだった、貴様には貴族の常識が欠けていたのだったな」

「え、なに、俺の選択、ダメだった?」

「いや、こうなってくるともういっそ全力で貴様を守るべきなのだろうな。アンナが寝ているうちに、さっさと契約を結ぶぞ」

「ラッキー! 確かに今じゃなきゃ、絶対反対されちゃいそうだし。ちなみにさ、この契約の縛りってどうなるの? 俺、何か痛い目に遭ったりする?」

「契約違反さえしなければ大丈夫だ」

「ちょっと、何それ。怖いんですけど!」


 ウォルトが何事か呟くと、イーノックが首を傾げた。


「なんかこう、光がぱあああとか、きらきらが降り注ぐとか、そういうすごい感じにならないんだ。意外と地味……」

「使用人との契約でいちいち魔力を最大限に注ぎ込むわけなかろうが。それほどまでの守護の力は、愛する者相手にしか発揮されない。それこそ危機的な状況下でしか、わたしも見たことはないな」

「えーん、侯爵さまあ。俺のことも愛してよお」

「ええい、気色悪い。くっつくな。離れろ!」


 そうして月夜の晩、男たちの語らいはしばらく続いたのだった。

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