(22)
その夜、ウォルトは何かが聞こえた気がして目を覚ました。まだ窓の外は真っ暗だ。真夜中に目を覚ますなんて自分らしくない。もしや真ん中に寝ているはずのエドワードが、横に転がったあげく寝台から床に落下したのではあるまいか。慌てて身体を起こせば、苦しそうな顔でうなっていたのはエドワードではなく、まさかのアンナだった。そっと近づいてみれば、頬が濡れている。どうやら眠っている間に、少し泣いたらしい。
頬を指の腹でぬぐい、ウォルトは声をかけたくなるのを必死でこらえた。今ここで起こしたところで、今度は眠りにつくことさえできないかもしれない。しばらく考え、エドワードを抱きかかえるとジムに声をかけに行く。
「夜中に起こしてすまない。アンナがうなされているようなのが気になってな」
「さようでございますか。ここ最近、いろいろなことが立て続けに起きてお疲れなのでございましょう。奥さまは我慢強いお方ですから、限界まで堪えておられたのやもしれません」
別の使用人にエドワードを任せると、ウォルトは低い声でジムに尋ねた。
「例の香油は、薄めれば安眠効果として使えるはずだったな? 今からアンナのために焚いてもらってもいいだろうか」
「ええ、もちろんでございます。早速用意いたしましょう」
「量さえ守れば、身体に害はないのだよな?」
「ご安心ください。毒も薬も、すべては使い方次第でございます。さすがにお子さまには勧められませんので、エドワードさまはこちらで自室にお運びいたしましょう」
「そうか。それならば助かる」
「坊ちゃま。そのような難しい顔をなさらずとも、奥さまがゆっくりと身体を休められるのが一番でございますよ」
「だから、坊ちゃまと呼ぶなと言っているだろうが」
ジムにより用意されたのは、青りんごを思わせるほのかに甘い香油だ。陶磁器でできた香炉に香油を垂らし、熱を加えれば華やかな香りが部屋の中にじんわりと広がっていく。この香りを嗅ぐのはいつぶりだろうか。香りは記憶と結びついていると聞くが、この香油がアンナの心を落ち着かせてくれるとわかっているせいか、腹立たしさが蘇ってくることはない。むしろ、自身の焦りも鎮まっていくようだ。
王都でも評判の薬師から融通してもらっていたこの香油は、もともと前妻対策にウォルトが用意したものだった。山の天気のようにころころと機嫌が変わる前妻は、笑っていたかと思えば唐突に泣き叫ぶ。また隙あらば、ウォルトの寝台に忍び込んで来ようとする傍迷惑な積極性まで持ち合わせていた。彼女を落ち着かせ、適切な距離をとるためにウォルトはこの香油をたびたび利用していたのである。
香水はつけるひとによって、その香りを変化させるという。部屋に焚いた香油もまた、その香りに違いが生じるのだろうか。魅力的な香りにつられて、アンナの隣に横たわりたくなる。欲望に必死に抗って、寝室内のテーブルに用意させた酒をあおった。とろりとした琥珀色の液体を喉に流し込めば、それほど度数が強いわけでもないというのに、心臓の音がやけにうるさく感じた。
さきほどまで苦しげだったアンナの寝息が、すうすうと穏やかで規則正しいものになった。思わず、ほっと大きく息を吐いた。即効性があることが評判の香油であり、その効果はウォルト自身も熟知していたが、どうしようもなく不安だったのだ。アンナの涙を見るのがこれほど辛いとは、ウォルトにとっても予想外である。
アンナには笑顔がよく似合う。恥ずかしそうに嬉しさをにじませた彼女の微笑みは、どれだけ見ていても飽きることはない。日頃から穏やかで家庭的なアンナだが、彼女の育ってきた環境はあまりにも厳しいものだ。正直なところ、彼女が血の繋がりのないエドワードのことを受け入れていることさえ奇跡に近いだろう。彼女は大人として子どもを慈しむのは当然だという態度を崩さないが、それができない人間はたくさんいる。卑近な例で言えば、エドワードの実母やウォルトの実父がそのよい例だ。
愛されたことのない人間が他人を愛することは難しい。ウォルトにとって仲の良い家族というものは、物語の中にのみ存在するものだった。友人知人の家族を見ても、それがどこまで本物であるのか疑わしく感じていたくらいだ。他人には期待しない。人間は基本的に悪人だと思っているくらいでちょうどよい。そう考えていたウォルトにとって、自分よりも他人を心配するアンナの振る舞いは非常に奇妙なものだった。
たとえばウォルトに近づいてくる若い女性たちは子ども好きを公言していたが、エドワードが自分に懐かない挙句、非常に扱いにくいことを知るとあっという間にてのひらを返してきた。しかしアンナの場合は、子どもというのは可愛いばかりの存在ではないことを既に受け入れているようでもあった。助けを求めているはずの人間が、支援を拒むこともある。それさえも彼女が理解していたのは、彼女こそが助けを求められなかったからなのではないか。アンナの善性は美しいけれど、時に胸が痛くなる。
困っているのは、そんなアンナのことがちっとも嫌ではないことだろう。むしろアンナはウォルトによって心地よく、自分のそばから離れることなど考えられない存在になってしまっている。いつの間にか抜けられないほど深みにはまってしまっていた。
何気なくアンナの頬に手を当てた。柔らかな水蜜桃のような肌は、もう涙で濡れてはいない。しっとりした温もりがてのひらを通して伝わってくる。そのままじっとしていれば、何やら甘い声とともにもぞもぞとアンナが寝返りをうった。ウォルトの手は冷たいが、それを氷嚢か何かと勘違いしたのか、腕にぎゅっとしがみついてきた。そのまますりつかれて、身体が固まる。アンナの頬以上に柔らかな双丘に挟まれて、一気に身体が熱くなった。
慌てて離れようとして、思わず息を呑む。寝返りをうった際に、ナイトドレスがまくれあがったらしい。すらりと伸びた白い足が露わになっていて、目の毒とした言いようがなかった。
どうせ泣かせるのであれば、いっそ自分の手ですべてを忘れさせたい……そんな妄想を広げたところで、テーブルの上に置いていたグラスの氷が、からんと音を立てた。いつの間にかそれなりの時間、アンナを見つめ続けていたようだ。
静かな部屋に響いたその音で我に返り、首を振る。精神的に辛い思いをしているアンナの弱みに付け込むなんて、紳士の風上にもおけない。そもそも彼女が抱えている傷を癒すことができなければ、ウォルトの好意はきっとアンナの心には届かないのだ。離れることを名残惜しく思いつつ、指輪の跡さえないアンナの左手の薬指にそっと唇を押し当てた。
部屋の中に立ち込める青りんごのような香りとはまた異なる、甘く優しい香り。その優しい匂いをもっと味わいたくなって、それでも鋼の意志で唇を離す。自分の欲望の強さに頭がくらくらした。
ここにいるのは、お互いのためにならないだろう。テーブルの上に置きっぱなしになっていた残りの酒を一気に飲み干すと、ウォルトは部屋を出て屋敷の庭に向かった。




