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【書籍化予定】継母になった嫌われ令嬢です。お飾りの妻のはずが溺愛だなんて、どういうことですか?  作者: 石河 翠
第二章

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「イーノック殿のことだが、君は十分にイーノック殿のために尽力している。弟のような相手に対して、それはもう十分すぎるほどに。手を差し伸べることだけが優しさではないことは覚えておいてほしい。彼は自分がどれほど恵まれているかをもう少し理解するべきだ」


 ウォルトの言いたいことはもっともだった。この世界において、アンナとイーノックの関係は元婚約者でしかない。しかも事実だけを並べてみれば、イーノックはアンナを捨て、アンナの異母妹と婚約を結び直したとんでもない男だ。


 彼の中に、アンナの前世の息子が入り込んでいるなんて、一体誰が思いつくだろう。そしてそんな事情を知らなければ、アンナは元婚約者に過剰に忖度をしているようにしか見えないのだろう。さきほど未練があるのかと心配されたが、今度は弱みを握られていると思われているのかもしれない。


「イーノック殿も赤子ではない。いまだ大人になり切れていない部分もあるだろうが、それでも彼には自分で立つ足がある。考える頭がある。誰かに庇護されなければ生きていけない子どもとして扱うことは、彼のためにもならない。彼が誰かに侮られることをよしとしてはいけないのだ」


 ウォルトの言葉は、アンナにとっては驚きで固まってしまうほどの衝撃だった。秋人がそれなりの年齢だということは当然わかっているつもりだった。何せ、この屋敷には正真正銘幼子のエドワードがいるのだ。秋人とエドワードの年齢差も体格差も目の当たりにしている。


 むしろ定期的に、秋人の大人げない行動を注意しなければいけないと思っていたし、いずれ独り暮らしするために必要な家事スキルを教えてやらねばならないとも考えていた。それと同じくらい、アンナの中では秋人はまだ守るべき子どもだという感覚が抜けきれていなかったのである。


「イーノック殿と向き合いにくいと感じるのは、もしかしたら君の中にいまだ消えることのない怒りがあるからかもしれないな」


 ウォルトには伝えていないはずの後ろ暗い感情を指摘されて、わずかに身じろぎした。


「彼はまだ君に謝っていないのだろう? 君を捨てて、君の異母妹を選んだ。そのことについて正式な謝罪を要求してもいいはずだ」


 ああ、そのことかと密かに胸を撫でおろした。当然と言えば当然だ。だってウォルトは、アンナの前世である春香のことなど知りはしない。春香と秋人ではなく、アンナとイーノックの間にある確執は何かと問われれば、結婚前の裏切りと婚約破棄で間違いないのだ。


「それは、もう良いのですよ。本当に気にしていないのです」


 アンナは首を振った。事実、アンナはイーノックとの婚約がダメになったときもああやっぱりと納得していた。前世の記憶がなければ、イーノックを未来への希望として心のよりどころにしていたかもしれない。けれど、アンナにはそんなかすかな希望を抱く気力もなかったのだ。初めから期待していなければ、それ以上傷つくこともない。


「では、言い方を変えよう。謝罪を要求するのではなく、君がどう思ったのかを相手に伝えるべきなのではないかな。君があの時、何を考えていたのか。言葉にしても相手には届かないかもしれない。けれど君は、君の心に刺さる棘が一体何なのか、その正体を把握するだけでも何かが変わるのでは?」


 確かに心の奥底に秘められた感情が、アンナと秋人の関係性に影響を与えているというのは真実味がある話だった。秋人が子どもであるということは、アンナにとって自分を守るために必要なことだったのかもしれない。だって、秋人が聞き分けのない子どもではなく自分と同じ大人になっているのだとしたら、アンナはいつか秋人に向かって言うべきではない言葉を言ってしまったかもしれないのだから。


 離婚する両親のどちらに残るのか、それを決める権利は子どもたちにある。彼らの選択に文句をつけることなどあってはならない。大人ができることは、彼らが困ったときに手を差し伸べることだけ。それでも、アンナは思ってしまうのだ。あの時の春香は、子どもたちが自分と一緒にいることを選んでくれるなら、死ぬその瞬間まで子どもたちのために生きただろうにと。


 それはたぶん、秋人にとっては間違いなく自分を責めていると感じられる言葉になってしまうだろう。どんなに物腰と言葉を柔らかく話したところで、ただの疑問ではなく糾弾という形で届いてしまうと、アンナもまた想像がついてしまっていた。だから、このことは秋人に聞かずにうやむやにするつもりだったのだけれど……。アンナは小さくうめいた。


「……かさぶたは、無理に剥がすべきではないのです。治らないまま、なんとかその場をしのぐべき時もあるでしょう」

「けれど、治療法を変えることで回復に向かうかもしれない。もちろん、失敗する可能性もあるが。逆に大怪我を負った場合は、わたしが責任もって治療しよう」

「痛くて泣き叫びながら八つ当たりするかもしれません」

「君は我慢するのをやめて、もっと心のままに振舞ったほうがいい」


 ウォルトが、あの避暑地の湖で出会った水竜のようなことを言う。なぜかあの湖のきらめきを思い出した。目の前の男の微笑みが妙にまぶしい。


「閣下はお優しいのですね」

「全部、君が教えてくれたことだ」

「……自分ができもしないことを、ウォルトさまに偉そうに説いていたのですね。本当に申し訳ありません」

「だから、謝る必要はないと言っているだろう? わたしと君は対等なのだ。そういう家族になりたいとわたしは願っている」


 そっとウォルトに両手を握られた。先ほどまで抱えていたエドワードと同じくらい、ウォルトの手はあたたかい。その温もりに気が付いた途端、なぜか指先が急激に熱くなった。慌てて手を引っ込めようとするが、ウォルトはそれを許さなかった。むしろ、アンナの手を引き自身との距離を縮めてくる。


 見上げたウォルトの麗しい顔が、普段よりもずっと近くにあることにアンナは落ち着かない気持ちになった。エドワードと一緒の時であればなんら違和感などなかったはずなのに。


「アンナ、もしよければ今夜……」


 ウォルトが何か言いかけた時だった。ソファーの上で横になっていたエドワードが寝返りを打つ。エドワードは、結構寝起きが悪い。特に昼寝から起きるタイミングが悪いと、信じられないくらいの癇癪を発揮する。それを知っているアンナとウォルトは顔を見合わせる。もう一度寝返りをしてソファーから落ちかけたエドワードを、ウォルトがすかさず抱きかかえた。危なげない手つきで背中を軽く叩きながら落ち着かせている。


「エドワードを子ども部屋に連れて行ってくる」

「私も一緒に」

「君は少し休むといい。ずっとエドワードの世話をしていて、休憩もろくにとれていないだろう? 美味しいお茶とお菓子で一息ついてくれ」


 アンナを制止した上で、使用人にお茶の準備をするように言いつけるとウォルトは出て行ってしまった。手持無沙汰なまま、アンナは用意されたお茶に口をつける。疲れているときには、甘い物がよく効く。じんわりと身体の奥に砂糖の甘さが染みわたっていくのを感じながら、アンナはこれからのことについて考えていた。

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