(15)
さきほどまで秋人が座っていたソファーに座る。べそをかき始めているエドワードを優しく抱きしめながら、アンナはその小さな頭を撫でた。
「アッキーが言った通り、先ほどのメニューは私の好きなもので間違いないわ」
「だったら」
「でもね、好きなものを食べることだけが幸せではないのよ。あなたと一緒に楽しく食事をすることが、今の私には何より嬉しいことなの」
アンナの言葉にエドワードが目を丸くした。
「何を食べるかはもちろん大事なことだけれど、誰と一緒にどんな風に食べるのかだってとても大切なことなの」
「……本当に?」
「ええ。それにね、今のテッドは卵や牛乳を食べることはできないけれど、もしかしたら大きくなってからなら食べられるようになるかもしれない。あるいは卵や牛乳を使わなくても、使っているものと同じくらい美味しいお料理を作ることができるようになるかもしれない。いろんな楽しみがあるでしょう?」
「……うん。アンちゃん、本当に本当に僕のこと、迷惑じゃない?」
「迷惑なわけがないわ。私のこと、信じられない?」
「ううん。アンちゃんが嘘つかないって、僕知ってるもん」
「ありがとう」
エドワードは安心したようにアンナにぎゅっと抱き着く。ぐすぐすと鼻を鳴らすエドワードをゆらゆら抱っこしたまま慰めていれば、いつの間にかエドワードはアンナの腕の中で眠りに落ちていた。ぐっすりと眠っているのだろう。エドワードの髪が汗でしっとりと濡れている。風邪を引かないようにタオルを用意しなくては。そんなことを考えつつソファーにおろしたところで、ウォルトが部屋に入ってきた。使用人から家令のジムに話が伝わり、最終的ウォルトの耳にまで届いたのかもしれない。
「エドワードは眠ったのか」
「はい。本当に申し訳ありません」
「君が謝る必要はない。とはいえ今回の件は、イーノック殿が悪いというわけでもないのだがな。エドワードも、自分の知る世界がすべてではないということに気が付いたのだ。悪いことばかりではないだろう。傷ひとつつかないように真綿でくるんで育てていくことなどできないのだから」
それは放任しているのではなく、エドワードを見守っているからこそ出た言葉なのだろう。柔らかな温もりを感じて、アンナはウォルトの変化を嬉しく思った。アンナの口元が弧を描いていることに気が付いたのか、ウォルトの口角も上がる。やや茶化すような声音で、けれど目だけは真剣に尋ねてきた。
「イーノック殿は、エドワードに付き合って競い合っているのかと思っていたのだが。今日の様子を聞くに、どうにも負けられない勝負だったようだな。それは、やはり君に未練があるからではないか?」
「まさか。絶対にありえません」
「だが、君にとって彼は幼い頃から大切な相手だったはずだ……」
アンナがイーノックをいまだに特別視しているのではないか。その心配が透けて見えるウォルトの言葉に、アンナは苦笑する。不貞を疑われていないことがわかっていた。お飾りの妻から始まり、今はエドワードを守るという形で家族として繋がりを持っている。自分だって家族がややこしいことに首をつっこんでいたら、きっと心配するはずだ。
「今も昔も、彼に対して恋愛感情を持ったことなどございませんよ。ですが、私が彼に心を砕いていることで、ウォルトさまにご心配をかけてしまっているようですね。本当に申し訳ございません」
アンナは深々と頭を下げる。もともと年下のイーノックは、アンナにとって弟のような存在だった。もちろん婚約者としての関係を築こうと努力はしていたが、それでもイーノックを男性として愛することはできなかった。あるいは前世の記憶があるせいで、愛すること、愛されることそのものを諦めていたのかもしれない。
そして現在のイーノックの中身は、前世の息子の秋人である。ますます恋愛対象になどなりようがない。前世の息子の将来が心配だから、まっとうに生きていけるように手助けをしなければという親心が生まれてしまっているだけ。
それにこれは、自分なりの製造者責任とも言えるのだ。息子が自分と死別してもなお、ひとの痛みを理解できない人間として暮らしてきていたならば、周囲の女性陣のためにもその性根を叩き直すべきである。改心できないのであれば、いっそのこと恋人も配偶者ももたない方がお互いのためだ。
「違う、迷惑だとか、負担だとかそういう話ではないのだ」
「まあ、そうなのですか?」
「何と言えばよいかわからないのがもどかしいが」
ウォルトが唇を引き結ぶ。その仕草は、自分のわがままが通らないときに口をへの字に曲げる秋人の姿を彷彿とさせた。けれど、ウォルトの場合はむくれているわけではない。
かしずかれる立場であるウォルトは、周囲の人間が察することが多かったはずだ。それに何より、高位の立場にあるものは率直な言葉をつむぐことはなかなか難しい。婉曲に話をすることが貴族的だと尊ばれている世界である。自分の心情をまっすぐに伝えることには慣れていないのだ。
その上、侯爵の家族関係も穏やかなものとは言い難かった。アンナもウォルトも家族というものに関してあまりに初心者なのだろう。手探りで、少しずつ進んでいくしかないのだ。
「ウォルトさまでもそのようにお悩みになられるのですね。私も、どうすれば相手に気持ちが伝わるのか、そしてそれを受け入れてもらえるのか悩むことが多々あるのです」
「気持ち……というのは、それは……」
「彼に関しては、弟のようなものですから。目の前で不幸に向かって突き進むような目には遭ってほしくないのです。少し引いてみればわかることなのに、どうして険しく困難な道ばかり選んでしまうのかもどかしく思うことばかり。とはいえ、私自身が適切な選択肢を選ぶことができているかと聞かれると怪しいものなのですが」
家族に何かを伝え、それを素直に受け入れてもらうということは、思っているよりも難しい。春香の離婚が決まる直前、春香と秋人の関係は他人以上にぎくしゃくとしていた。この世界での数日の方が、よっぽどコミュニケーションがとれているのではないかと思えるくらいだ。まあ、先ほどの喧嘩でそうもいっていられなくなったが。それでも、喧嘩ができるだけ状況はまだ前世よりもましなのだろう、たぶん。
「どうすれば、曲解されることなく気持ちを伝えることができるのでしょうね」
「残念ながら、それはわたしにもわからないな」
「まあ、ウォルトさまもですか。これではまさしく、私たちは似た者夫婦でございますね。はっ、申し訳ございません。対外的な理由で夫婦の在り方を変更しただけだというのに、つい調子に乗ってしまいました。私とウォルトさまが『似た者夫婦』だなんて、不敬もよいところでした」
アンナが慌てて頭を下げれば、侯爵がゆっくりと髪をかきあげた。
「似た者夫婦と呼ばれることに、わたしは抵抗などない。むしろ、好ましいとさえ思う」
「……さようでございますか。それはありがたい限りです?」
「なぜそこで、最後に疑問形がつくのだ」
ウォルトが額に手を当てて天を仰ぐ。その仕草が妙におかしくて、アンナはくすくすと小さく笑い声をあげたのだった。




