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「閣下、申し訳ございません。このような不躾なお願いを聞き入れていただけるなんて、なんとお礼を申し上げればよいものでしょうか」
「アンナ、気にすることはない。君が彼と金輪際関わりたくないというのであれば、わたしは全力で彼との縁を断ち切らせてもらうが、そういうわけではないのだろう? 君が力になりたいというのに、それを断るほど狭量な男ではないつもりだ」
侯爵に微笑まれて、アンナは再びゆっくりと頭を下げた。わだかまりがないとはとても言えないが、前世の息子が異世界で野垂れ死にする姿を見たくはない。元婚約者であるイーノックに対しても言いたいことはいろいろとあるものの、こちらの世界に生きて帰ってきてほしいとは思っているのだ。ふたりが元の世界に戻れるようにするためにも、アンナはできる限りの協力をするつもりでいる。
「そういえば、先ほど神官長さまとお話をなさっていましたが、お知り合いだったのでしょうか?」
「ああ、そのことか。キャリントン侯爵家は、王都に私有の小神殿を持っている。小神殿の建設や、小神殿にお抱えの神官を迎え入れる際に、いろいろと世話になったのだ。神官長は、王都でもそれなりの地位に就いていた」
「今となっては、ただの田舎の耄碌じじいでございますよ」
ふたりの会話を聞いていたらしい神官長はそううそぶいてみせたが、水竜のいる湖を管理している神官長が、田舎に引っ込んだただの老人であるはずがないのである。まあと驚いたように神官長を振り返るアンナ。そんな彼女を見つめながら、ウォルトは先ほどまでの神官長との会話を思い出していた。
「お久しぶりでございます」
「まさか、このような形で会うことになるとはな」
「キャリントン侯爵家の保有する小神殿にお伺いしておりました頃以来ですな。大変懐かしゅうございます。最近は、あまり小神殿にお越しいただけていないご様子。神官たちが残念がっておりました」
「こちらが頼んだわけでもないというのに、特定の人間の息がかかった神官どもが入り込もうとしてきていたのでな。少々、掃除をさせてもらった。中央神殿でも、そなたとは異なる派閥の人間が随分と派手にもめているそうじゃないか」
「残念ながら、神殿も一枚岩ではないのでございますよ」
「神殿内部の大掃除を行うよりも、いっそのこと神殿全体を壊して作り直せば、ずいぶんと楽に綺麗になりそうだが」
「閣下は非常に合理的でいらっしゃる。そんな閣下には、ひとの心を学んでいただくべく、イーノック殿のお世話をお願いしたいのですが……」
「あの男の世話などお断りだ。奴の神殿での滞在費が必要だというのでれば、寄付金を弾ませてもらおう。それでこの話は終わりだ。ああ、神殿ごとアンナを傷つけた連中をまとめて埋めてしまってよいのであれば、喜んで協力するつもりだが?」
取り付く島もないといったウォルトの反応を前にしても、神官長は慌てることはない。さきほどウォルトは、アンナに対して秋人の滞在を許してみせたが、もちろん彼の心が広いからというわけではないことは誰の目にも明らかだ。ウォルトの心を動かしたのは神官長の説得ではあるのだが、その説得は神の慈悲や博愛精神を説くようなものではなかったのである。
「閣下、イーノック殿の面倒を見てさしあげることは、イーノック殿のためになるだけではありません。巡り巡って、閣下のためになることでございましょう」
「情けはひとのためならずだと? あいにくだが、いつになるかわからないあやふやな未来の恩恵のために、妻を裏切った元婚約者を保護してやろうとは思わない。生き馬の目を抜くような貴族社会に、そんなお人好しがいるはずがないだろう。そもそもあの男は、妻の異母妹との問題まで持ち合わせている。誰が好き好んで、いつ爆発してもおかしくない爆弾を引き受けたいと思うのだ」
「閣下はまだまだ男女の機微がおわかりではございませんな。このままでは、奥方さまとの関係はなかなか深まりますまい」
「……清廉潔白な神官長殿には、打開策があると?」
ほっほっほと、神殿長が笑う。本来、神官たちは妻帯が認められていない。それにもかかわらず、高位の神官たちは密かに愛人を抱え、甥や姪という扱いで我が子を可愛がっていることも多い。それを当て擦られながらも、神官長はどこまでもひょうひょうとしている。
不愉快そうに口を曲げつつ、ウォルトがつかみどころのない神殿長の言葉に耳を傾けているのは、アンナとの関係性に事実、行き詰まりを感じているからだ。何かふたりの関係性を変えるきっかけがほしいと思っているウォルトにとって、神殿長の話は聞き逃すわけにはいかなかった。
「イーノック殿を引き取ることは、おふたりの関係改善の絶好の機会となりましょう。なにせイーノック殿は、侯爵家で奥方さまが虐げられていると思い込んでいらっしゃる。その誤解を解くのは容易ではございません」
「それは、確かにそうだな」
アンナの悪い噂を真実だと思い込み、初手を大きく誤った自分自身を苦く思い出しながらウォルトはうなずいた。
「ですから、イーノック殿に直接、奥方さまが侯爵夫人として幸せに暮らしているところを見ていただくのです。そうすれば、噂はあくまで噂でしかないのだと納得していただけるのではないでしょうか?」
「なるほど……悪くはない」
「奥方さまとイーノック殿は仲睦まじくみえますが、ご心配には及びません。ふたりの間にあるのは、男女の愛情などではございません。あれは、聞き分けのない幼子の面倒を見ているようなものです。もともと、出来の悪い弟と真面目で世話焼きの姉という関係性だったのでしょうな」
イーノックが元婚約者であること、彼がアンナを傷つけたこと、それにもかかわらず今でも親し気に声をかけてくること。そのすべてが気に食わないことは事実だが、それを指摘されて流してしまえるほどには、ウォルトは大人になり切れていない。侯爵の眉間の皺が深くなる。さらに、神官長が言葉を続けた。
「失礼ながら、現在閣下は本邸に、奥方さまは離れにお住まいでいらっしゃるのだとか。この機会に、一般的なご夫婦のように同じ屋敷、同じ寝室でお過ごしになられてはいかがでございましょう」
「同じ……! いや、それは、だが、確かに……」
神殿長のアドバイスに、ウォルトは目を見開くとぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。これは確かに使える手だ。現状、アンナは継母として積極的にエドワードの世話を焼いているが、ウォルトとは契約妻、いわゆるお飾りの妻でしかない。
彼女にとっては、仕事上の上司と部下という関係性でしかないだろう。だが、イーノックを屋敷に招き本邸の客間に案内した後ならば、アンナとて自分が離れに引っ込むわけにはいかないと思うに違いないのだ。それがたとえ仕事の延長線上であったとしても、このチャンスを生かさない手はない。
「まあ、その前にいろいろと段階を踏む必要がございますが……。今の閣下のお耳には届きそうにありませんな」
「……何か言ったか?」
「いいえ、これもまた試練なのでございましょう。取り返しのつかない失敗をする前に、転んで学ぶこともまた大切でございます」
「……ああ、うん、よくわからないが、そういうものなのだろうな」
数秒の逡巡のあと、ウォルトはがっしりと神殿長の手を握り返した。そして妻の元婚約者であり、今現在妻の異母妹の婚約者であるにもかかわらず、秋人は侯爵家に匿われることになったのである。
改めてウォルトは、笑顔で釘を刺すことにした。ここ最近、侯爵も心はますます狭くなっているのだ。タイミングよく、アンナは神官長と何やら話し込んでいる。ウィルトはにこやかに微笑みながら、壁際で所在なさそうに立っていた秋人の耳元に顔を近づけた。
「捨てた婚約者を連れ戻して、また甘い汁を吸おうという算段をしているのだろうが、そんな腑抜けた考えが通るとは思うなよ」
「誰もそんなことは思っていないけど?」
「その口の利き方、立場というものがわかっていないようだな。心優しいアンナのことだ。表面上でも反省してみせれば、自分のことを許してくれるとでも思っているのだろう? アンナは騙せても、このわたしの目は誤魔化せんぞ」
「謝ったところで、今さら許してもらえるなんて思ってないし」
「はっ、どうだかな。口先だけ取り繕うのは、お前たちの得意技だ。そもそも許されないからと言って、謝らないのはひととして最低の行為だ」
「自分だって噂に惑わされていたくせに。何、自分だけは本当の理解者とでも言いたいわけ? こいつ、マジでキモいんだけど」
その後ふたりは、異様な様子に気が付いたアンナと神官長が仲裁に入るまでいがみ合ったままとなってしまったのだった。




