第5話「純粋な子ほど、手に負えない」
一時間目は、能力基礎論だった。
教壇に立つ担任の霧島先生が、黒板に大きな円を描いている。
能力の発現には、本人の感情と魔力の流れが深く関わる、という話らしい。
(……眠いわ)
『始まって五分で何を言っている』
(だって先生、授業が長いんだもの。観察する楽しみがないわ)
『授業は観察するものではない。聞くものだ』
(じゃあ、あなたが聞いておいて)
『おい、待て――』
視界が揺れ、体ががっしりと重くなる。
俺は小さくため息をついて、背筋を伸ばした。
ノートを開き、先生の板書を写し始める。
こうなるのは、もう毎度のことだ。
[彼女]は、教室の女子を一通り眺めて満足すると、すぐに頭の奥へ引っ込んでしまう。
授業を受けるのは、いつも俺の仕事だった。
「……あ」
隣の席から、小さな声がした。
小春だった。茶色のショートボブを揺らして、俺のほうをちらりと見ている。
「ミヤビちゃん、今、男の子のほう?」
「……ああ。授業中だ、静かにしたほうがいい」
「うん、ごめんね」
小春は、ほっとしたように笑った。それから、自分のノートに視線を戻す。
(……今の顔、見たわよ)
頭の奥で、冷えた声がした。
(私のときより、安心した顔してたわね)
『気のせいだろう。授業中に寝る奴が静かなのは、普通のことだ』
(……面白くない)
『お前が引っ込んだのだろうが』
(それとこれとは別よ)
[彼女]は、それきり黙った。拗ねたのだと思う。
十分もしないうちに、状況が変わった。
(……退屈)
『またか』
(ねえ、ちょっとだけ代わって。小春ちゃんにちょっかい出したいの)
『断る。今は授業中だ』
(大丈夫よ、先生は黒板を向いてるもの。はい、交代)
『お前は、いつもそうやって――』
視界が揺れ、髪が肩に落ちる。体が軽くなる。
私は、机の下で、小春の指先をそっとつついた。
「ひゃっ」
小春が、声を殺して肩を跳ねさせる。
「な、なに?」
「ふふ。暇だったから」
「授業中だよ……」
小春は、顔を真っ赤にしながらも、嫌がっている様子はない。
むしろ、少しだけ嬉しそうに、私のノートの端に小さく何かを書いた。
『あとで、お話しよ』
丸っこい字。かわいい。
私は、その下に返事を書き足す。
『もちろん。小春と話すのが、一番楽しいの』
小春の耳まで、ほんのり赤くなった。
そのとき、教室の反対側から、鋭い視線を感じた。窓際の席。
黒髪の少女が、ノートの陰から、こちらを見ている。
――凛だ。
私は、目を細めて、にこりと微笑んだ。
凛は一瞬だけ眉をひそめ、すぐに視線を逸らした。ペンが走る音が、かすかに聞こえた気がした。
(……凛ちゃん、また私をみてるわ)
『お前が騒がしいからだ』
(あら、起きてたの)
『誰かが毎回、お痛が過ぎるからな』
(ふふ、ありがとう。後でまた代わってあげるから)
『……要らん』
ふと、隣から視線を感じた。
小春が、じっと私を見ている。さっきまでの笑顔が、少しだけ曇っていた。
「どうしたの、小春」
「……ううん。なんでもない」
小春は、慌てて教科書に目を落とす。
でも、その手が、ぎゅっと握りしめられていた。
(……あら?)
この時の私は、まだ気づいていなかった。
この小さな違和感が、あんな騒ぎを招くことになるなんて。
昼休み。
私は購買でパンを買い、中庭のベンチに向かった。
小春と一緒に食べる約束をしていたからだ。
でも、中庭に着いたとき、先客がいた。
「お、ミヤビ! こっちこっち!」
赤髪の茜が、手を振っている。
その隣には、黒髪の凛が、ノートを広げて座っていた。
「茜ちゃん、凛ちゃん。偶然ね」
「偶然じゃねえよ。あんた、昼はここで食うって、昨日自分で言ってたじゃんか」
「あら、そうだった?」
「……私は、たまたま通りかかっただけです」
凛が、そっけなく言う。
茜が「嘘つけ、ずっと待ってたくせに」と笑って、凛に睨まれた。
私は、二人の間に腰を下ろした。
茜の耳が、すぐに赤くなる。凛のペンが、さっと動く。
(……楽しいわ。こういう時間も、悪くない)
『楽しむのは構わんが、小春さんは待っているぞ』
(あっ)
はっとして、顔を上げた。
中庭の入り口に、小春が立っていた。
茶色の髪を揺らして、パンの袋を両手で抱えたまま、動かない。
「……小春?」
「あ、ごめんね。邪魔しちゃった……」
小春は、小さく笑った。
でも、その笑顔が、どこか張りついているように見えた。
「ち、違うの。私ね、先に教室に戻ってるね」
「待って、小春――」
私が立ち上がるより早く、小春は、くるりと背を向けて走り出した。
『追え』
(言われなくても)
小春は、校舎の裏手の、小さな花壇の前に座り込んでいた。
「小春」
「……来ないで」
小さな声。でも、はっきりとした拒絶だった。
「ごめんなさい。最近何か変なの、私。胸が、ぎゅってなって、息がしづらくて。ミヤビちゃんが、茜ちゃんと凛ちゃんと楽しそうにしてるのを見たら、急に……」
「小春……」
「私、病気なのかな。どうしよう。ミヤビちゃんは何も悪くないのに……」
小春の目から、涙がこぼれた。
――その瞬間。
花壇の花が、一斉にざわめいた。蔦が地面から飛び出し、壁を這い、ぐんぐんと伸びていく。
「えっ……やだ、止まって……!」
小春の声が震える。蔦は、小春の感情に呼応するように、暴れ始めた。
(まずいわね。感情に反応してる)
『分かっているなら、対応しろ』
(……あなたが出る?)
『俺では止められない。お前の魔法が必要だ。……任せる』
(珍しい。素直ね)
『お前がやらなければ、小春さんが怪我をする』
私は、息を吸った。
(……はいはい。しょうがないわね)
「小春」
私は、静かに名前を呼んだ。
暴れていた蔦が、ぴたりと動きを止める。
指先で、空気をなぞる。
柔らかな光が広がり、蔦の表面を、そっと撫でていく。
力を失った蔦は、ゆっくりと地面に降りていった。
小春は、膝を抱えたまま、小さく震えている。
私は、その隣に腰を下ろした。
「怖かったね。もう大丈夫」
「……ごめんなさい。私、何もしてないのに、勝手に……」
「小春のせいじゃないわ。あなたの気持ちに、植物が反応しただけ」
小春は、涙で濡れた顔を上げた。
「気持ち……?」
「ええ。胸がぎゅっとなるのは、病気じゃないの。大切なものを、誰かに取られそうな気がしたときの、心の動きよ」
「大切な……もの……」
小春は、少し考えてから、首をかしげた。
「私にとって、ミヤビちゃんは、隣の席の友達で……でも、友達って、こんなに苦しいものなのかな」
(……この子、まだ気づいてないのね)
『だろうな。純粋な子だ』
(かわいい。……でも、今は言わないでおくわ)
私は、小春の頬に、そっと手を添えた。
「ごめんね。寂しい思いをさせたわ。私が一番大事にしたいのは、隣の席の子よ。それは、本当」
小春の目から、また涙が一粒こぼれた。同時に、足元の蔦が、ふわりと白い花を咲かせた。
「わあ……」
「ほら、小春の気持ちが、お花になったわ」
小春は、小さく息を呑んで、それから、はにかむように笑った。
その笑顔を見て、私の胸が、少しだけ、ぎゅっと鳴った気がした。
(……あらやだ。私まで、変な気持ち)
『何を言っているんだ、お前は』
(うるさいわね)
「――そこまでだ」
低い声がした。
振り返ると、校舎の影に、担任の霧島先生が立っていた。いつからいたのだろう。
その視線は、地面に咲いた白い花と、私の指先を、静かに行き来している。
「霧島先生……」
「驚いた。この年齢の生徒が、暴走した植物の魔力を、一瞬で鎮めるとはな」
先生は、ゆっくりと近づいてきて、蔦に指先を触れた。
「しかも、この魔力の質は……変身系のそれではない」
(……あら)
『気づかれたか』
「君の能力は、体を変えるものだと聞いていた。だが、今のは精神干渉に近い。本当の能力は、何なんだ」
私は、にこりと微笑んだ。
「先生、レディに秘密を聞くものではありませんよ」
「……なるほど。では、あとで少し話を聞かせてもらおうか」
先生の目が、一瞬、鋭く光った。
「放課後、職員室に来なさい。ミヤビ」
そう言い残して、先生は去っていった。
小春が、不安そうに私の袖を握る。
「ミヤビちゃん……大丈夫?」
「大丈夫よ。ちょっと、面倒なだけ」
私は笑って見せた。
だが、胸の奥では、冷たいものが静かに動いていた。
(……厄介な先生ね)
『だから言っただろう。目立ちすぎるな、と』
(あら、あなたが言った覚えはないけれど)
『……今回は、お前の自業自得だ』
学園の日常は、まだ、終わらない。
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