第22話「栞と、ベタベタの朝」
翌朝。
寮の門の前で、私は足を止めた。
「……おはようございます、ミヤビさん」
門柱の陰から、黒髪ボブの小さな女の子が、ひょこんと顔を出した。
栞だ。
昨夜、あれほど理性を失いかけていた子とは思えない。今は頬をほんのりと赤く染め、前髪の奥から、じっと私を見つめている。
「あら。早いのね。ここで待っていたの?」
「……はい。一時間前から」
「だいぶ待たせてしまったようね」
「……どうしても、会いたくて」
栞は俯いたまま、小さな手をそっと私の袖に伸ばした。
きゅっ。
私の袖を、控えめにつまむ。
(……ふふ。この子、昨夜とは別人みたいね)
『……「守るために強くなる」のはいいが、急激な変化すぎる気がするな』
(あら、あなたが言うの?)
『……事実を述べただけだ』
そんな内心のやり取りをしていると、栞が上目遣いで私を見上げた。
「……あの、ミヤビさん」
「なあに?」
「今日も、一緒にいていいですか? 学校でも、お昼も、放課後も……」
栞は、少しだけ袖を握る力を強めた。
「……迷惑でしたら、引き下がります」
「迷惑なわけないでしょう。ほら、こっちにおいで」
私は栞の手を取り、自分の腕にそっと絡ませた。
栞は驚いたように目を丸くしたものの、すぐにぎゅっとしがみついてきた。
「……ありがとうございます。宝物にします」
「宝物は大げさよ」
「……大げさじゃ、ありません」
小さな声でそう言う栞が、あまりにも可愛らしくて。
私は思わず、笑みをこぼした。
「おはようございます、ミヤビさん、栞さん」
寮の門の内側から、眼鏡をかけた小柄な少女が姿を現した。
日和だ。
「あら、日和。おはよう」
「……朝から、すごいですね。寮の前を通る人たちが、少しざわついていますよ」
日和は、私と栞の腕をじっと見つめた。
確かに、腕に絡みつく栞と、それを受け入れている私。傍から見れば、かなり目立つ光景かもしれない。
「……どうやら、手をつなぐ作戦は大成功だったみたいですね」
「成功と言うのかしら、これは」
「抱きつけるくらい信頼している、ということですから」
日和は穏やかに微笑み、栞へと向き直った。
「栞さん。昨夜のお話については、すでに準備を始めています。孤児の皆さんの居場所を見つけるための調査です」
「……本当ですか?」
「はい。ですから、今日だけは学校で、普通の生徒として過ごしてください」
「……はい。日和さん、ありがとうございます」
栞は深々と頭を下げた。
ただし、私の腕は離さない。
「……そういうところですよ」
日和が、私にだけ聞こえる声で呟いた。
「昼も放課後もこの調子ですと、相当に騒がしくなりますよ。覚悟しておいてくださいね」
「それはとても楽しみだわ」
「……本当に、ミヤビさんは……」
日和は小さくため息をついた。
けれど、その表情はどこか楽しそうだった。
*
教室の扉を開けた瞬間、空気が凍った。
「……ミヤビちゃん」
「……ミヤビ。その腕にくっついているのは、誰だ?」
「……ミヤビさん。説明を願います」
小春、茜、凛。
三人が、ほとんど同時に立ち上がった。
笑顔こそ浮かべているものの、目がまったく笑っていない。
(……早速、騒動になったわね)
『……みんなにちょっかいをかけてるんだ。そりゃそうだろう』
「みんな。落ち着いて?この子は栞ちゃん。一年生で、生徒会の書記をしている子よ」
「こ、こんにちは……」
栞は私の背中に隠れながら、小さく頭を下げた。
その仕草は、警戒心の強い小動物のようで、実に可愛らしい。
「……親しいですね。昨日、二人の間に何があったのですか?」
凛が眼鏡を押し上げ、静かに尋ねた。
いつも以上に鋭い視線だ。
「素敵な出会いがあっただけ。それ以上は、あとでね」
「……都合が悪くなると、すぐ『あとで』ですね」
「だって、本当にあとで話すつもりだもの」
「……ミヤビちゃん、ねえ」
小春が、ぷくっと頬を膨らませた。
「その子、すごく近いよ?」
「あら、そう?」
「そうだよ!」
小春は私の反対側の袖をつまんだ。
すると、茜も負けじと前へ出てくる。
「お、おい! あたしにもちゃんと説明しろよ! あんた、毎回こうやって……!」
言いかけた茜の顔が、みるみる赤くなる。
気がつけば、私の両腕が左右から引っ張られていた。
右腕には小春。
左腕には茜。
そして背中には栞。
(……遊園地のアトラクションみたいね、これ)
『……楽しんでいるやつの顔だな』
(だって、みんな可愛いんだもの)
『……そうか』
男のミヤビは、早々に諦めたようだった。
*
授業中も、栞は落ち着かなかった。
初めて入る教室が珍しいのか、それとも私が気になるのか。きょろきょろと周囲を見回しては、時折こちらをちらりと窺っている。
そして休み時間になると、真っ先に私の席までやってきた。
「……ミヤビさん。ノートを見せていただけますか?」
「あら、どうして?」
「……今日の授業、あまり頭に入ってこなかったんです」
「それは困ったわね。何かあったの?」
「……あなたのことを考えていたら、頭に入ってこなくて」
「おやおや。この子、ずいぶんはっきり言うようになったわね」
栞は、自分で言った言葉に気づいたのか、耳まで赤くなった。
教室のあちこちから、ひそひそと声が聞こえてくる。
「今の、生徒会の書記の子だよね?」
「いつもあんなに大人しかったのに……」
「ミヤビさんと、何があったんだろう?」
(……騒がしいわね)
そんなことを考えていると、凛がすっと立ち上がった。
「栞さん。こちらの席へ」
「……え?」
「ノートを見せます。授業の内容も説明しますから」
凛は自分の隣の席を示した。
「この程度の情報整理は、観察記録をつけるうえでも基本ですから」
「……観察記録、ですか?」
「ええ。この人のことをよく知るための」
凛は、いかにも当然という顔で言い切った。
栞の目が、ぱっと輝く。
「……はい。この人のこと、知りたいです。すべて」
「「「すべて!?」」」
小春、茜、凛の声が、見事に重なった。
「あらあら。大人気ね、私」
『……お前が原因だろう』
(ふふ。そうとも言うわね)
*
昼休み。
屋上のベンチに向かうと、栞が小さな弁当箱を抱えて待っていた。
「……ミヤビさん。お昼、一緒に食べませんか?」
「あら、もちろんよ」
「……あの、実は……作ってきたんです」
栞は、少し恥ずかしそうに弁当箱を差し出した。
「組織にいた頃から、仲間のためによくお弁当を作っていたんです。だから、その……」
「私にも食べてほしかった?」
「……はい」
蓋を開けると、彩り豊かなおかずが、きれいに詰められていた。
卵焼きに、野菜の煮物、小さなおにぎり。どれも丁寧に作られているのがわかる。
「あら、すごいわね。ずいぶん手間がかかっているじゃない」
「……ミヤビさんに、食べてほしくて」
栞は箸で卵焼きをつまむと、おずおずと私の口元へ差し出した。
「あ、あーん……してください」
「ふふ、大胆ね」
「……だ、駄目ですか?」
「いいえ。喜んで」
私は笑いながら口を開けた。
ぱくり。
「……美味しい。とても優しい味ね」
「……よかった」
栞は口元を小さな拳で押さえた。
「……やった、です」
そのまま、嬉しそうに足をぱたぱたと動かす。
(……ああ、もう。可愛いわね、この子)
『……お前、本当にこういうのに弱いな』
(だって、私のために一生懸命になってくれる女の子って、素敵じゃない?)
『……否定はしない』
そこへ。
「――風紀が乱れていますよ。この空気は!」
勢いよく扉が開き、ピンク色のツインテールが姿を現した。
書類を抱え、肩を怒らせている。
桃香だ。
「あら、桃香ちゃん。どうしたの?」
「べ、別に! 見回りです! ここは風紀が乱れていますから!」
桃香は顔を真っ赤にしながら、私と栞の間に割り込んできた。
「……桃香先輩。ここは、あなたの場所では……」
「うるさいですよ、栞! あんた、昨日の夜、この人と何があったんですか! 朝からべったりと、あんな……!」
「…………ひみつです」
栞が、ぷいっと顔を背けた。
「なっ!?」
桃香が言葉を失う。
「と、とにかく! 一年生なんですから、上級生には敬意を――」
「……桃香先輩も、食べますか? 卵焼き」
栞が箸を差し出した。
桃香の動きが、ぴたりと止まる。
「……え? いや、その……」
「……美味しいですよ。仲間にも好評だったんです」
「…………いただきます」
桃香は頬を膨らませながら、卵焼きを口に入れた。
もぐもぐ。
「……美味しいです」
「あら、よかったわね」
「で、でも! ミヤビさんにこれ以上べたべたするのは禁止ですよ!」
(……ちょろいわね、この子)
『……気の毒になるな』
私がくすくす笑っていると、さらに屋上の扉が開いた。
「あらあら。賑やかでいいわね。サンドイッチを持ってきたの。みんなで分けましょう」
緑色の髪をおさげにした千草が、柔らかな笑みを浮かべて現れた。
その後ろから、水色の髪を揺らした生徒会長のヒナタが顔を出す。
「やっほー! 楽しそうだね。わたしも入れて!」
「……会長。見回りはどうしたんですか?」
桃香が、じとっとした目を向けた。
「あはは。さっき千草ちゃんに、一緒に食べようって誘われたんだよ。一年生の子と話したかったしね!」
「……会長。それは、見回りをしていない理由にはなっていません」
「細かいことは気にしない!」
「気にしてください!」
桃香の叫びが、屋上に響き渡った。
こうして、静かに済むはずだった昼食は、いつもの三倍くらい騒がしくなった。
それでも。
みんなに囲まれた栞は、困ったように笑いながら、何度も小さな声で返事をしていた。
その笑顔には、もう人の顔色を窺うような怯えはない。
誰かに命令されて笑うのでもない。
誰かを裏切ることに怯えながら笑うのでもない。
ただ、楽しいから笑っている。
そんな、当たり前の笑顔だった。
(……やっぱり、私。この子には笑顔が似合うと思うわ)
『……だが、これからのことも考えろ。この状況で、どうやって孤児の仲間たちの話をするつもりだ?』
(あら。ちゃんと考えているのね。いい子)
『……茶化すな』
(ふふ。大丈夫よ。楽しい時間を過ごすことと、あの子たちを助けることは、両立できるはずだもの)
私は、栞の笑顔を見つめながら、そう答えた。
*
放課後。
たっぷりと気力を使い果たした私は、寮の部屋に戻るなり、ベッドへどさっと倒れ込んだ。
「……やっぱり、騒がしくなりましたね」
日和が眼鏡を拭きながら、苦笑している。
「……楽しかったけれど、ちょっとだけ疲れたわ」
「そうでしょうね。でも、ミヤビさんの顔、とてもよかったですよ」
「あら、どうして?」
「……『守りたい人』が増えた顔でしたから」
日和は穏やかに微笑み、ノートパソコンを引き寄せた。
「……それと、ご報告があります」
その声に、私は体を起こした。
「孤児の皆さんの居場所について、候補が三つに絞り込めました」
「……早いのね」
「パパとママの組織は優秀ですから」
日和は画面を操作しながら、説明を続けた。
「ただし、一つだけ問題があります」
「問題?」
「……三つの候補地のうち、一つが『ママの実家』に近い場所なんです」
『……俺たちの両親の関係者か。これは、話がややこしくなりそうだな』
(そうね。私たちの過去とも、何か関係があるのかしら)
私は窓の外へ目を向けた。
夕焼けが、寮の屋根を赤く染めている。
朝から、栞が腕にくっついてきて。
教室では小春たちに問い詰められ。
昼休みには桃香や生徒会長たちまで加わって、大騒ぎになった。
そんな、いつもより少し騒がしい一日。
けれど、その裏側では、栞の仲間たちを救うための準備が進み始めている。
そして、その行き先は、私たち自身の過去にもつながっているのかもしれない。
(……どうやら、この物語は、思ったより近いところでつながっているみたいね)
『……のんきに構えている場合じゃないぞ』
(わかっているわ。でも、今くらいはいいでしょう?)
私は、もう一度ベッドに体を預けた。
平和な日常は、まだ、あと少しだけ続いて欲しい。
――そう願いながら。
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