第21話「旧体育倉庫の夜」
翌日の夜。寮の部屋。
「……ミヤビさん、本当に行くんですね」
日和が、眼鏡の奥から静かに私を見つめていた。
「ええ。あの子が誘ってくれたんだもの」
「罠ですよ、きっと」
「わかっているわ」
私は上着に腕を通した。
日和はしばらく黙っていたが、やがて小さな鍵を私の手のひらに置いた。
「寮の裏門の鍵です。帰りは、こちらから入ってください」
「あら。どうしたの? 珍しく心配してくれているの?」
「……お目付け役として、です」
日和はそっぽを向いた。耳が、ほんの少しだけ赤い。
(あら。この子も、素直じゃないわね)
『……今日だけは、俺にも前を任せろ』
(はいはい。頼りにしているわよ、真面目くん)
私は鍵を握りしめ、夜の寮を後にした。
*
旧体育倉庫の前は、冷たい月明かりに照らされていた。
錆びついた鉄の扉。その前に、黒髪のボブカットの少女が一人、立っている。
「……来てくれたんですね」
「約束したでしょう?」
私が笑いかけると、栞は小さく首を横に振った。
「……約束なんて、していません。私が勝手に誘っただけです」
「そうね。でも、来てよかったわ」
栞は俯くように目を伏せた。
しばらくの沈黙。
やがて、彼女は意を決したように口を開いた。
「……ミヤビさん。私は、あなたに嘘をついていました」
「あら。どんな嘘?」
「私は生徒会の書記ですが、それだけではありません。学園の外にある組織の……スパイなんです」
月明かりの下で、栞が顔を上げた。
前髪の奥に隠れた瞳は、涙で濡れていた。
「……私は、実験体αを探していました。そして、あなたがそうなのだと気づいたんです」
私は口を挟まず、静かに耳を傾けた。
「組織には、私と同じような孤児がたくさんいます。戦争で身寄りを失った子たちです。組織が私たちを育ててくれました。だから……あの子たちを見捨てることは、できないんです」
「……うん」
「今日、ここにあなたを連れ出せと指示されました。ここには……罠が仕掛けられています」
栞の口元が、小さく震えた。
「でも、できなかった。あなたを、組織に引き渡すことが……」
彼女は、ぎゅっと拳を握った。
「……だから、逃げてください。今すぐに」
私は、ゆっくりと栞の顔を見つめた。
この子は、自分の大切なものを守るために、私を裏切ろうとした。
そして今、その大切なものを守りたい気持ちと、私を傷つけたくない気持ちの間で、必死に揺れている。
ああ、本当に。
どうして、こんなに不器用なのかしら。
「ありがとう。正直に話してくれて」
「……え?」
「罠かもしれないって、わかっていたもの。それでも、あなたが何を抱えているのか、知りたくて来たのよ」
私は、栞の手を取った。
冷たくて、小さくて、震えている手だった。
「だから、逃げないわ。でも、一つだけ約束して」
「……約束?」
「この場を乗り越えたら、あなたの仲間たちのことを、一緒に考えさせて」
「……どうして。こんな、私なんかに……」
「可愛い子を泣かせるわけにはいかないもの」
栞の目から、つうっと涙がこぼれ落ちた。
そのときだった。
「――大変美しい絆ですね、お二人とも」
ぱち、ぱち、ぱち。
乾いた拍手が、夜の静寂を破った。
倉庫の影から、黒いコートを着た男がゆっくりと姿を現す。
その背後には、黒服の男たちが五人。
いつの間にか、私たちは完全に取り囲まれていた。
「栞。役目を果たしてくれてありがとう。だが……少し、話が長すぎたな」
黒いコートの男は、栞を一瞥してから、私へと視線を移した。
「実験体α。こちらへ来い。抵抗しなければ、傷はつけない」
「あら。こんな夜更けに女の子を囲んで……趣味の悪い人たちね」
私は栞の手を放さず、にっこりと笑った。
『……代われ。ここからは俺が前に出る』
(私の力では少々強すぎるし、ここはあなたに任せるわ。どうにもならなくなったら手伝うから)
『……当然だ』
(はい、交代)
視界が揺れた。
肩幅が広がり、手足が伸びる。体が重くなり、髪が短くなる。
俺は栞の前に立ち、彼女を背中にかばった。
「……下がっていろ。ここからは俺が相手をする」
「……ミヤビさん、でも、あの人たちは……!」
「わかっている。だが、女の子を前に出して、自分だけ後ろに隠れるのは俺の流儀じゃない」
黒いコートの男が、興味深そうに目を細めた。
「……男の方か。資料とは確かに違う姿だな。だが、関係ない。やれ」
黒服たちが一斉に動いた。
五人。全員が実戦に慣れた動きだった。
正面から迫ってきた一人の拳をかわし、腹部へ拳を叩き込む。
相手が崩れ落ちるより早く、二人目の蹴りを受け流し、その勢いを利用して壁へと叩きつけた。
三人目が横から迫る。
俺は身を低くして懐に入り、拳を振り抜いた。
「……さすがだ」
黒いコートの男が、感心したようにつぶやく。
「だが、一人では限界がある」
男が片手を振った。
足元の影が、不気味にうごめく。
「……っ!」
地面から黒い鎖が伸び、俺の足に絡みついた。
「魔導鎖か……!」
振りほどこうとするが、鎖は力を込めるほど強く締まってくる。
動きが鈍った隙に、残る黒服たちが迫ってきた。
「――ミヤビさん!」
背後で、栞が叫ぶ。
だが、彼女は動かなかった。
自分の手首を、もう片方の手で強く握りしめている。
「……使ってはいけない。使っては……」
黒いコートの男が、ゆっくりと栞を振り返った。
「穢らわしい力を使えば、組織の名が汚れる。お前の仲間たちも、同じ目で見られることになる」
男は薄く笑った。
「――それでも、使うか?」
この男は、栞の弱点を知り尽くしている。
彼女が力を嫌っていることも。
その力を使えば、仲間たちまで傷つくのではないかと恐れていることも。
俺は歯を食いしばった。
鎖が、さらに強く締めつけてくる。
『……栞さんの目を見ろ、覚悟を決めたようだ』
(見ているわ。あの子は、もう迷っていない)
*
栞は、自分の手首を握りしめていた手を、ゆっくりと離した。
「……穢らわしいですよね。確かに」
静かな声だった。
先ほどまでの震えは、もうない。
「でも、この人は……この力を、綺麗だと言ってくれました」
黒いコートの男の表情が、初めて揺らいだ。
「……栞。妙なことを考えるな」
「すみません。連絡係さん」
栞は、まっすぐに男を見つめた。
「私は今日で、組織をやめます」
その瞳が、赤く光った。
ドンッ!
鈍い衝撃音が響く。
俺の足に絡みついていた黒い鎖が、一瞬で粉々に砕け散った。
「……なっ!」
黒服たちが、思わず後ずさる。
栞の手足には血管が浮かび上がり、握りしめた拳が震えていた。彼女が一歩踏み出すたび、地面にひびが走る。
「……この人に、手を出すなぁあ!」
栞の声が、低く響いた。
「絶対っ!渡さないぃいい!」
次の瞬間、黒服の一人が吹き飛んだ。
人間離れした速度の一撃。
男は倉庫の壁に叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
「これは……記録にある、あの……!」
黒いコートの男が、額に浮かんだ汗を拭う。
「組織が封印したはずの力が、ここまでとは……」
栞が、もう一歩踏み出した。
赤く輝く瞳は、目の前の敵を捉えている。
けれど、その目からは少しずつ理性が失われつつあった。
(……まずいわね)
『……栞さんを止めてくれ。このままでは、彼女の体が持たない』
(当然。止めるのは私の仕事よ)
『……頼んだ』
(はい、交代)
視界が揺れる。
肩に髪が落ち、体が軽くなる。
私は、砕けた鎖の破片を踏み越え、栞のもとへ駆け寄った。
「栞ちゃん。ここにいるわ」
背後から、そっと腕を回す。
骨ばった背中が、びくりと硬直した。
「お願いですっ!ミヤビさん。私、もう止まらないいい!この力を、完全には抑えられない……だから早く、逃げてええ!」
「逃げないわ」
私は、栞の背中を優しく抱きしめた。
「大丈夫。この力は、あなたのものでしょう?」
「でも、私は……!」
「怖くないわ。綺麗で、とても強い力よ」
私は、彼女の髪をゆっくりと撫でた。
「怒りに任せて壊すためじゃなく、大切なものを守るために強くなる。それだって、あなたの力の使い方でしょう?」
栞の肩が、小さく震えた。
「だから、ここからは私の魔法も一緒に使いましょう」
「……一緒に?」
「ええ。あなたの力を、どこに向ければいいのかは私が伝える。あなたは、それを聞いて動けばいいの」
私は、栞の顔を覗き込んだ。
「一人で全部を背負わなくていいのよ」
赤く光る瞳が、かすかに揺らいだ。
栞は、何度か息を繰り返したあと、小さく頷いた。
「……はい」
「いい子ね」
私は指先を、ひらりと振った。
黒服たちの足元に魔法陣が広がり、柔らかな光が彼らの足を絡め取る。
「――今よ、栞ちゃん!」
「……はいっ!」
栞が地面を蹴った。
先ほどと同じ、人間離れした一撃。
けれど、今度は違った。
その瞳は、しっかりと前を見据えている。
私の魔法で動きを封じられた黒服たちが、一人、また一人と拳を受け、意識を失っていった。
殺さない。
必要以上に傷つけない。
ただ、これ以上私たちに手を出せないよう、戦闘不能にする。
最後の黒服が倒れたとき、栞は荒い息を吐きながら、その場に立ち尽くしていた。
「……お願いです。最後は、あなたが」
「任されたわ」
私は、黒いコートの男の前に立った。
男は逃げる様子もなく、静かに笑っていた。
「……素晴らしい。これで確信したよ。実験体α。お前に間違いない」
「あら。そうだとしたら、どうして笑っているの?」
「組織が、間もなく次の手を打つからだ」
男の手が、コートの内側へと伸びる。
栞の肩が、ぴくりと動いた。
「孤児たちも同じだ。お前がここで何を選ぶかによって、彼らの運命も変わる」
「……あの子たちに、何をするつもりですか!」
栞が声を上げた。
男は、彼女を見て薄く笑う。
「さあね。ただ、一つだけ教えておこう」
男の体を、黒い煙が包み込み始めた。
「組織は、裏切り者を許さない」
「待ちなさい!」
私が踏み出すより早く、黒い煙が濃くなる。
「――また会おう、α」
煙が晴れたとき、男の姿は消えていた。
そこには、冷たい夜風だけが残っていた。
*
静寂が戻った旧体育倉庫。
黒服たちは地面に倒れ、砕けた鎖の破片が月明かりを反射していた。
「……ミヤビさん」
栞が、ゆっくりと顔を上げた。
瞳の赤い光は、もう消えている。
その代わり、彼女の顔は血の気を失っていた。
「……どうしよう。私、全部壊してしまった……。あの子たちが……」
「大丈夫よ」
私は栞の肩に手を置いた。
「約束したでしょう? 一緒に考えるって」
「でも、組織は……」
「簡単にはいかないでしょうね」
私は、正直に答えた。
「それでも、何もしないうちから諦めるつもりはないわ。あなたの仲間たちを助ける方法を、一緒に探しましょう」
栞の唇が震えた。
今にも泣き出しそうな顔だった。
そのとき。
「――それなら、私にも手伝わせてください」
倉庫の影から、小柄な少女が歩いてきた。
眼鏡をかけた、見慣れた顔。
「……日和さん?」
「こんばんは、栞さん」
日和はいつもの穏やかな笑顔を浮かべていた。
けれど、その目だけは真剣だった。
「ここから先は、『パパとママ』の組織にも協力してもらいましょう」
栞が目を見開いた。
「……どうして、そんなことができるんですか?」
「詳しい話は、あとで説明します。今は、あなたの仲間たちを見つけることを優先しましょう」
日和は栞を見つめ、静かに続けた。
「居場所を突き止めて、保護する。それができるように、私も動きます」
「……でも、私は……」
「ミヤビさんが、あなたを信じたんです」
日和は、私へと視線を向けた。
「それだけで、私が動く理由には十分です」
そう言って、小さく笑った。
私は、空を見上げた。
月が大きく、静かに浮かんでいる。
(……これで、この子はもう一人じゃない)
『……お前は、本当に人たらしだな』
(あら。褒めているの?)
『……褒めてはいない。事実を言っただけだ』
(ふふ。同じことよ)
私は、栞の手をもう一度握った。
まだ、何も解決していない。
組織の目的も、実験体αの正体も、栞の力の秘密も。
これから先、きっと簡単にはいかないだろう。
それでも。
この夜、栞は初めて、自分の力を誰かと一緒に使った。
そして、誰かを守るために、自分の意志で一歩を踏み出したのだ。
私は、その小さな手を握りしめたまま、静かに笑った。
――もう、あなたを一人にはしないわ。
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