第20話「先生の約束と、栞の誘い」
放課後の空き教室。
夕日が差し込む窓際に、霧島先生が立っていた。
「……来てくれたか」
俺は扉を閉め、一礼した。
「お話をする、とおっしゃっていましたので」
「ああ。あの夜の約束だ」
先生は窓の外を見たまま、小さく息を吐いた。
「先に言っておく。今日は、君を問い詰めるために呼んだわけではない。むしろ、私の方が話さなければならないことがある」
(あら。真面目な顔ね)
『静かにしていろ。大事な話だ』
(はいはい。でも、少しくらいはお邪魔するかもしれないわよ)
『やめろ』
俺は内心のやり取りを打ち切り、先生に向き直った。
「私は、この学園に来て七年になる」
先生は教卓に手をつき、ゆっくりと話し始めた。
「教師として、生徒を守る。それが私の役目だと思っていた。だが、去年の春から、上の方で妙な指示が増えた」
「妙な指示、ですか」
「特定の生徒の記録を定期的に報告しろ、というものだ。本人には気づかれないように。理由は説明されなかった」
俺は黙って耳を傾けた。
「最初は、よくある身辺調査だと思っていた。だが、今年の入学者名簿に君の名前が載った途端、指示の数が一気に増えた」
「……俺の、ですか」
「ああ。君の入学前の資料には閲覧制限がかかっている。私が見られるのは、表に出ている最低限の情報だけだ」
先生は苦い顔で笑った。
「教師として情けない話だ。生徒の資料すら満足に確認できず、理由も知らされないまま、ただ報告だけを求められる」
「……先生は、その指示に従ってこられたのですか」
「従ってきた。疑問を持ちながらな。だが、体育館倉庫の件で確信した」
先生が、まっすぐに俺を見た。
「この学園の中に、外部とつながっている者がいる。そして、その者は君を狙っている」
教室の空気が、静かに張り詰めた。
「ひとつ、聞かせてほしい」
「はい」
「君は、自分が狙われている理由を知っているか」
俺は少しだけ迷った。
すべてを話せば、先生を巻き込んでしまうかもしれない。
何も話さなければ、先生はこれからも一人で悩み続けるだろう。
『……選べ。お前の判断だ』
(私は口を出さないわよ。今のところはね)
俺は一度息を吸い、正直に答えた。
「……すべてをお話しすることはできません」
「そうか」
「ですが、狙われていることは自覚しています。理由の一部も、分かっているつもりです」
先生は、それ以上追及しなかった。
「ならば、それでいい。私にできることは限られているが、君の味方になる。それだけは約束しよう」
「……ありがとうございます」
「ただし、条件がある」
「条件、ですか」
「無理をするな。君はまだ生徒だ。何でも一人で背負おうとするな」
その声は厳しかった。
けれど、どこか優しかった。
(……この先生、いい人ね)
『珍しく、同意見だ』
俺も同じことを思っていた。
「ところで」
先生は少し表情を緩めた。
「同室の日和という生徒について、聞きたい」
「日和さん、ですか」
「寮の設備点検の報告書を持って、頻繁に職員室に出入りしている。しかも、私が君の資料を開こうとした瞬間に閲覧制限がかかった。偶然にしては、タイミングが良すぎる」
(あら。気づかれたわね)
『……お前が泳がせていたからだ』
俺は内心の声を無視して答えた。
「彼女は俺の同室者です。それ以上のことは……」
「分かっている。君が守っているのだろう」
先生は静かに頷いた。
「彼女自身も、悪い生徒ではなさそうだ。だが、これだけは言っておく。君の周りでは、君が知らない大人たちの思惑がいくつも動いている」
「……はい」
「それを忘れるな」
俺は深く頭を下げた。
先生の言葉は、ありがたかった。
同時に、これ以上巻き込むわけにはいかないとも思った。
(……ねえ、少しだけ代わってもいい?)
『なぜ今だ』
(お礼を、ちゃんと言いたいの)
『……短く済ませろ』
(はい、交代)
俺の身体が、ゆっくりと変化する。
視界が揺れ、肩に髪が落ちる。骨格が変わり、身体が軽くなる。
「先生」
私は顔を上げ、にこりと笑った。
「今日は、素敵なお話をありがとうございました。先生のような方がこの学園にいてくださって、私、とても心強いです」
先生は少し驚いたように、目を瞬いた。
「……そ、そうか」
「ええ。それに、先生が眉間にしわを寄せているときも、本当は生徒のことを一番に考えてくださっているんだと、知っています」
「……からかうな」
「あら。からかっていませんわ。本心です」
私は一歩だけ近づき、小さく首を傾げた。
先生は困ったように眉を下げ、それから、ふっと口元を緩めた。
「……大人をおだてるものではない」
「おだてたつもりはありませんけれど?」
「……君は本当に、困った生徒だ」
先生は咳払いをして、窓の方へ顔を背けた。
(……ふふ。いい先生ね)
『……お前、短く済ませると言ったな』
(短かったでしょう?)
『……そういう問題か』
私は、くすりと笑った。
◇
その夜。
寮の非常口に続く廊下で、栞は冷たいコンクリートの床に膝を抱えて座っていた。
手の中の小さな端末が、青白く光っている。
画面には、短い指令が表示されていた。
『指令。対象を二日後の夜、旧体育倉庫へ連れ出せ』
『従わない場合、仲間たちへの援助を見直す』
栞の指先が、小さく震えた。
(……二日後)
旧体育倉庫。
あの日、ミヤビが小春を助けた場所だ。
(あの人を連れ出す……。そこで何が待っているのか、私は知らされていない)
仲間たちの顔が、頭に浮かんだ。
小さな部屋で、同じ毛布にくるまって眠った孤児たち。
食べ物を分け合い、些細なことで笑い合った日々。
自分にとって、家族と呼べる大切な存在。
(……私が断れば、あの子たちが……)
端末を握る手に力が入る。
手首の痕は、もう消えているはずだった。
それなのに、ずきりと痛んだ気がした。
(……あの人は、綺麗だって言ってくれた)
あの言葉が、まだ胸に残っている。
自分の力を、醜いものだと思っていた。
そんな自分を、ミヤビは否定しなかった。
だからこそ、余計につらかった。
(でも、あの人を差し出せば、あの子たちは守られる……?)
端末の画面が、涙でぼやけた。
(……どうすれば、いいんだろう)
答えは出ない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
◇
翌日の放課後。
図書室の隅で、栞が本の整理をしていた。
背の高い書架の前で、本を抱え、懸命に背伸びをしている。
「……あら。危ないわよ」
私が声をかけると、栞の肩がびくっと跳ねた。
「み、ミヤビさん……」
「ふふ。やっぱり、ここにいたのね。手伝うわ」
私は栞の手から本を数冊、そっと受け取った。
「……お気遣いなく。これは私の仕事ですので」
「そう言われると、余計に手伝いたくなっちゃうの」
私は高い棚に本を並べていく。
栞は隣で、戸惑ったように私の手元を見つめていた。
「どうして、そんなに親切にしてくださるんですか?」
「あら。可愛い子が困っていたら、助けたくなるでしょう?」
「……可愛くなんて、ありません」
「そうかしら。前髪の奥の目が、とても素敵だと思っているの。私」
栞の頬が、ほんのり赤くなった。
「……やめてください。からかわないで」
「からかっていないわ。本心よ」
私が笑うと、栞は小さく息を吸った。
何かを言おうとして、口を開いては閉じる。
そんな動作を、何度も繰り返していた。
(……この子、何か悩んでいるわね)
『気づいたか。昨日から様子がおかしい』
(ええ。目が少し腫れているもの。きっと、夜に泣いたのね)
『……だとしたら、聞くな。踏み込みすぎるな』
(聞かないわよ。でも、そばにいるくらいはいいでしょう?)
私はそれ以上何も言わず、栞の隣で本を並べ続けた。
静かな図書室に、本を置く音だけが響く。
不思議と、気まずさはなかった。
しばらくして、栞がぽつりと言った。
「……ミヤビさん」
「なあに?」
「……もしも、ですよ」
栞は本棚を見つめたまま、言葉を探すように続けた。
「もしも、誰かに頼まれたら……大切な誰かを守るために、別の誰かを傷つけなければならないとしたら……どうしますか?」
私は手を止めた。
(……これは、ただの質問じゃないわね)
『……気をつけろ』
栞は、私の顔を見ようとしない。
その指先は、抱えている本の背表紙をぎゅっと押さえていた。
私は少しだけ考えてから、静かに答えた。
「そうね。私なら、両方を守る方法を探すわ」
「……それが、できなかったら?」
「できるまで探すの。誰かに頼ってでも、ね」
栞が、ゆっくりとこちらを向いた。
前髪の奥の瞳が、揺れている。
「……そんなこと、本当にできるんですか?」
「さあ。分からないわ」
私は正直に答えた。
「でも、最初から諦めたくはないもの。私は可愛い子たちを泣かせたくないから、足掻くの。かっこ悪くてもね」
そう言って、私はにこりと笑った。
栞は、しばらく私の顔を見つめていた。
その表情に、迷いと安堵が入り混じる。
やがて彼女は、小さな声で言った。
「……明日の夜。お時間、ありますか?」
「あら。デートのお誘い?」
「……い、いえ。その、少しお話をしたくて……」
栞は一度、唇を引き結んだ。
「……旧体育倉庫の前で」
(……来たわね)
『罠かもしれない』
(ええ。でも……)
私は栞の目を、まっすぐに見つめた。
彼女の手は、小さく震えていた。
言いたくないことを、無理に口にしている。
そんな目だった。
「……いいわよ。行くわ」
「……え?」
「あなたが誘ってくれたんだもの。可愛い子のお誘いを断る理由なんて、ないわ」
栞の目に涙が浮かんだ。
けれど、それがこぼれる前に、彼女は慌てて顔をそらした。
「……ありがとう、ございます。……失礼します」
栞は本を抱え、足早に図書室を出ていった。
小さな背中が、扉の向こうへ消える。
『……お前は、本当に行くつもりか』
(ええ。罠でもいいの。あの子が何を抱えているのか、確かめたいわ)
『……ならば、せめて準備をさせろ。俺の出番を忘れるな』
(ふふ。頼りにしているわよ)
私は窓の外を見た。
夕焼けが、図書室の床を赤く染めている。
二日後の夜。
何が待っているのかは、まだ分からない。
けれど、一つだけ決めていることがある。
(……あの子は、泣かせない)
私は、小さくそう誓った。
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