第18話「栞と、隠された力」
週に一度の監視という名の面談の日。
生徒会室へ向かう廊下で、俺は後ろを歩く小さな足音に気づいていた。
黒髪のボブに、目元を隠す長い前髪。地味で目立たない女子。生徒会の書記だ。
「……あの、ミヤビさん。今週の面談は、私が担当になりました。よろしくお願いします」
小さな声。うつむきがちな姿勢。前髪の奥の目は、こちらを見ているのかも分からない。
(……あら。この子、この前の書記さんね)
『今週の担当するのは、この子か』
(ええ。お茶を淹れていたとき、手が震えていた子よ)
「こちらこそ、よろしくお願いします。え、と」
「……栞です。一年生の、栞」
「同じ学年だったのか。栞さん、よろしく」
栞はそれだけ言うと、すっと目をそらした。
そのとき、廊下の隅に小さな消しゴムが落ちているのが目に入った。
栞は足を止め、そちらへ目を向けた。
「……あ」
彼女が手をかざす。
すると、消しゴムがふわりと床から浮き上がった。
栞が指先を動かすと、消しゴムはゆっくりと宙を進み、数十センチ先の机へ飛んでいった。ぽすん、と軽い音を立てて、その上に着地する。
「物を浮かせて、飛ばせるのか」
俺が声をかけると、栞はびくりと肩を震わせた。
「……はい。小さい物なら。少しだけですが、浮かせて、短い距離を飛ばすこともできます」
「便利な能力だな」
「……でも、速くもないですし、遠くまで飛ばせるわけでもありませんから」
栞は、どこか申し訳なさそうにうつむいた。
(あら、私は便利だと思うけれど。手を伸ばさずに物を取れるなんて、ちょっとした日常の魔法ね)
『お前なら、絶対に怠けるために使うだろ』
(失礼ね。高い棚の物を取ったり、手の届かないところにある物を寄せたりするだけよ)
『それを怠けると言うんだ』
(ふふっ)
そんなやり取りをしていると、中庭の方から荒い足音と、高い叫び声が響いてきた。
「……やめなさいっ! ここは立入禁止ですっ!」
この声は、桃香だ。
俺と栞は顔を見合わせ、中庭へ駆けた。
* * *
冷たい風の吹く中庭の真ん中で、桃香がピンクのツインテールを揺らしながら、三人の上級生と対峙していた。
足元には踏み荒らされた花壇。折れた花が散らばり、縁の石材も一部が崩れている。
「生徒会の規則を無視して、立入禁止区域に入って、しかもこの花壇を踏み荒らすなんて! トラブルを起こすなと、何度言えば分かるんですか!」
桃香が声を張り上げる。
しかし、上級生たちは悪びれる様子もなかった。
「うるさいっ!生徒会だからって、偉そうにしやがって目障りなんだよ!」
上級生の一人が、花壇の縁を蹴り飛ばした。
石の破片が跳ね、桃香の足元に転がる。
「……っ、ざこのくせに!」
桃香は負けずに前へ出た。
でも、相手は三人。しかも、この学園でも問題を起こしやすい連中だ。
「……立入禁止区域にいた、という記録を残します」
栞が手帳を開き、小さな声で告げた。
その足元で、先ほど飛び散った小石が二つ、ふわりと浮き上がる。
栞は指先を軽く振った。
小石はひゅっと短い距離を飛び、上級生たちにぶつける。
「いたっ!なにすんだ!」
栞は小石をぶつけ、相手の気を引いた。
上級生たちは栞を睨みつける。
それでも、栞は真っ直ぐに上級生たちを見つめていた。
(さっき見た栞ちゃん能力ね)
『物を少し浮かせて、飛ばす能力か』
(ええ。あまり戦闘向きとは言いにくいわね)
「……これ以上は、規律を乱すようであれば拘束しなければなりません。今のうちに立ち去ってください」
「はあ?こんなしょうもない攻撃くらいでどうしようっていうんだ」
上級生の1人が、手のひらをこちらへ向けた。
空気が熱を帯びる。
「――桃香!」
俺は警告を叫んだ。
男の手のひらに炎が集まり、火球となって桃香の胸元を狙う。
「……えっ」
桃香は動けない。目を見開いただけで、足がすくんでいた。
俺は地面を蹴った。
間に合うか。
いや、間に合わない――。
その瞬間。
俺より、ずっと早く。
黒い影が桃香の前に割り込んだ。
どん、という重い音。
炎の弾が、素手で殴り飛ばされた。
「…………」
栞だった。
さっきまで猫背だったはずの体が、真っ直ぐに伸びている。
前髪の奥の目が、赤い光を帯びていた。
腕の血管が浮き上がり、踏みしめた地面にひびが走る。
「……これ以上、調子に乗るな」
いつもとは別人のような、低く、重い声だった。
上級生の1人が、思わず一歩後ろに下がった。
「……な、何だ、こいつは。その姿は……なんて、恐ろしい――」
栞が、一歩踏み出した。
その目からは、理性が失われかけているように見えた。
(……これは、まずいわよ)
『あいつ、抑えが利かなくなっている。止めろ』
(確かに、あなたでは難しいわね。私がやるわ)
『……そうだな。代われ』
(はい、交代)
視界が揺れる。
髪が肩に落ち、体が軽くなる。
次の瞬間、私は、栞の背中に立っていた。
私はゆっくりと栞へ近づいた。
上級生の1人が、動揺を覆い隠すように叫ぶ。
「ビビるな! こいつ一人に、私たちがやられるわけ――」
「騒々しいわね。今は空気を読んで、黙ってほしいんだけど」
私は指先をひとつ、ひらりと振った。
三人の上級生の目が、すうっと宙をさまよう。
「……あれ?」
一人が間の抜けた声を漏らした。
軽くつまずいたように意識を落とすだけ。この程度なら、精神に深い傷を残す危険も小さい。
三人は、その場にどさりと座り込み、眠りに落ちた。
「……加減はしたわ。少し眠りなさい」
私は小さく息をつき、栞へと視線を戻した。
* * *
「……う、あ……」
栞は自分の手首を、反対の手で強く握りしめていた。
腕に浮き上がっていた血管が、ゆっくりと消えていく。
赤い光も、前髪の奥でかすかに揺らいだあと、緩やかに消えた。
やがて、栞の肩から力が抜ける。
「……申し訳ありません」
今にも泣きそうな、小さな声だった。
「これは……いえ、何も見なかったことにしてください」
「あら。すごい力だったのに、隠さなくてもいいじゃない」
「……」
栞が、びくりと肩を震わせた。
「……栞、今の、何?」
桃香がこちらへ駆け寄ってきた。
無傷だ。けれど、空気は少しだけ張りつめていた。
「さっき、あんたが素手で――」
「……桃香先輩、ご無事でしたか」
栞は、どこか心ここにあらずといった目で、桃香に頭を下げた。
「……ありがとう。助かった。……でも、あんた、さっきのは……」
「桃香先輩。今のは、相手の力が弱かっただけで、何もありません。気にしないでください」
栞の声は穏やかだった。
けれど、どこか有無を言わせない強さがあった。
桃香は一瞬、何かを言いかけて、口を閉じた。
「……分かった。今回は見なかったことにする。でも、いつかちゃんと教えなさいよ。私たち生徒会の仲間なんだから。一人で抱え込まないこと!」
「……はい」
桃香は、しぶしぶといった様子ながら、少しだけ表情を柔らかくした。
そして、眠っている上級生たちを起こし、文句を言いながら生徒会室へ連行していった。
* * *
中庭の片隅。
花壇の縁に、栞が一人で座り込んでいた。
細い手首には、赤い痕が残っている。
私は背後から静かに声をかけた。
「……さっきの、あれ。なんだったのかしら」
栞の肩が、びくりと跳ねる。
「……何のことですか。私は少々、運動が得意なだけですよ」
「あら。さっきもそう言っていたけれど、それだけでは素手で炎の弾を殴り飛ばせないと思うわ」
いつもの軽い口調で告げる。
栞はゆっくりとこちらを見た。
前髪の奥には、影のような目があった。
「……見間違いです。忘れてください」
「忘れられないわ」
私は栞のすぐ隣にしゃがんだ。
「だって、あんなにかっこいい姿を見せてくれたんだもの。桃香ちゃんを守ってくれたのでしょう?」
「……少し、攻撃を防いだだけです」
「そうね。でも、あのときの赤い目も、すごく素敵だったわ」
栞の膝が、かたかたと震えた。
「……やめてください。あれは、穢らわしいものです」
「穢らわしい?」
「……使ってはいけない力です。あんなものを、見せたくなかった」
絞り出すような声だった。
私は笑わなかった。
ただ、目をそらさずに答えた。
「……そう。誰かに、そう言われたのね」
栞の肩が、小さく揺れた。
返事はない。
それでも、その沈黙だけで十分だった。
「でも、あなたの力を見た私は、こう思ったの」
私はゆっくりと、けれどはっきりと言った。
「――とても、綺麗だったって」
栞の目が、大きく見開かれた。
「……え?」
「赤い目も、真っ直ぐに伸びた背中も。怒りに任せて暴れた姿じゃない。誰かを守るための力だったから。私は、とても美しいと思ったわ」
栞の口が、小さく開いた。
けれど、言葉は出てこなかった。
「…………」
やがて、栞は立ち上がった。
「……失礼します」
とても小さな声だった。
栞は私から目をそらし、そのまま歩き出した。
去っていく背中は、いつもより少しだけ震えていた。
けれど、それはただ逃げているというより、迷っているように見えた。
(……ふふふ、やっぱり可愛いわね)
『……お前、彼女を口説き落とす気でいるな』
(あら、落とすなんて。私は本心を伝えただけよ)
『……それが口説いているというんだ』
(ふふ。でも、本心よ)
私は、小さな背中をしばらく見送っていた。
あの子は、自分の力を嫌っている。
その理由は、まだ分からない。
けれど――。
(いつか、あの子が自分の力を嫌わずに済むようになればいいわね)
『……珍しく、真面目なことを考えているな』
(失礼ね。私だって、いつも真面目よ)
『それはない』
(もう。少しは信じてくれてもいいでしょうに)
私は小さく笑い、栞が去っていった廊下へと目を向けた。
彼女が隠している力。
そして、その力を穢らわしいと呼ぶ理由。
それを知るのは、もう少し先になりそうだった。
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