第9話 前王妃から祖母への手紙
封が開いた瞬間、十年前の王宮が息を吹き返した。
白薔薇。
蜜蝋。
冷えた石の礼拝堂。
そして、祈りの底に沈んだ、焦げたような苦味。
私は指先で封筒の端を押さえたまま、しばらく動けなかった。
古い紙のはずなのに、香りはまだ生きている。
香水瓶に閉じ込められた花が、何年経っても蓋を開けた瞬間に昔の庭を連れてくるように。
この手紙も、過去を連れてきた。
祖母がまだ生きていた頃。
前王妃がまだ王宮で呼吸をしていた頃。
そして、私がまだ自分の鼻を嫌いになる前の頃。
「リリアーナ」
ヴァルトの低い声で、私はようやく息を吸った。
店の中は静まり返っていた。
ミナは布を握ったまま、目を大きくしている。ネリはいつものように口を挟まない。さすがの彼女も、王妃の封書となると簡単に茶化せないらしい。
ギルは入口のそばで警戒している。もう一人の護衛――寡黙な男は、外の通りへ視線を向けていた。名前をまだ聞いていないが、彼はずっと周囲を見ている。こういう人は、話すより先に危険を探すのだろう。
ヴァルトだけが、私のすぐ隣に立っていた。
近い。
昨日までなら、身構えたかもしれない。けれど今は、それどころではなかった。
「読めるか」
「……はい」
私は封筒から便箋を取り出した。
紙は黄ばんでいる。端は少し脆くなっていて、力を入れれば崩れそうだった。けれど文字は美しい。細く、整っていて、それでいて急いで書いたような乱れがある。
私は最初の一行を見た。
『セラフィナ。あなたの鼻を借りたいのです』
祖母の名。
そして、鼻。
前王妃は、祖母の力を知っていた。
喉が詰まる。
私はゆっくり読み上げた。
「『セラフィナ。あなたの鼻を借りたいのです。王宮の礼拝香が変わりました。白薔薇と蜜蝋に隠れて、別の香りがします。祈りの香りではありません。毒に似ています』」
ミナが小さく息を呑んだ。
ギルの目つきが変わる。
ヴァルトは何も言わない。
ただ、黙って聞いている。
「『最初は私の気のせいかと思いました。けれど、あの香を焚いた後、王は妙に怒りやすくなり、王太子は泣き続け、私は夜になると胸が重くなります。侍女たちは私の体調不良だと言いますが、私は違うと思うのです』」
胸が重くなる。
私は無意識にヴァルトを見た。
彼は表情を変えない。けれど、その手袋をはめた指が、ほんのわずかに動いた。
彼も同じ症状を知っている。
「『この香油を管理しているのは王宮礼拝局ですが、最近、王妃付きの女官長クラリモンドが頻繁に出入りしています。彼女は親切です。あまりに親切すぎて、私は時々、自分が籠の鳥になったような気持ちになります』」
クラリモンド。
やはり。
私は奥歯を噛みしめた。
昨夜の婚約破棄。
私に囁いた言葉。
祖母と同じだと言った口調。
母と妹へ届けられた香水。
石に残った王宮封蝋の匂い。
彼女が、ずっと糸を引いている。
ネリが低く呟いた。
「そのクラリモンドって女が、怪しいってわけかい」
「まだ、そうとは言い切れません」
私が言うと、ネリは眉を上げた。
「へえ。ずいぶん慎重だね」
「疑いと証拠は別です」
「王宮育ちは面倒だねえ」
「よく言われます」
ヴァルトが短く言った。
「続きは」
「はい」
私は便箋へ視線を戻した。
「『セラフィナ、どうか来てください。あなたなら、私が見落としている香りを嗅ぎ分けられるはずです。もし私の不安がただの思い過ごしなら、笑って帰ってくれて構いません。けれど、もし本当に何かが混ぜられているなら――』」
そこで文字が少し乱れていた。
ペン先が紙を引っかいたような跡。
「『王宮は、香りで人の心を縛ろうとしています』」
店の中の空気が、重く沈んだ。
香りで人の心を縛る。
前王妃は気づいていたのだ。
黒蜜花。感情の増幅。焦げた薔薇の残香。
祖母の日記と、前王妃の手紙が繋がる。
私は続きへ目を走らせた。
「『明後日の夕刻、薔薇の間で待っています。誰にも知られずに来てください。王宮の香炉に触れられる者の中に、敵がいます。私の侍女にも、もう誰を信じればよいのか分かりません』」
薔薇の間。
祖母の日記にも同じ場所があった。
もし私が死んだら、王宮の薔薇の間を調べなさい。
あれは祖母が、前王妃のこの手紙を受け取った後に書いた言葉なのだろうか。
最後の一文は、他よりも少し薄かった。
インクが足りなかったのか、あるいは手が震えていたのか。
「『この手紙を読んだら、香水瓶の印を見て。白薔薇の下に、黒い薔薇があります。あれは祈りではありません。呪いです』」
そこで手紙は終わっていた。
私は紙を持ったまま、しばらく声を出せなかった。
白薔薇の下に、黒い薔薇。
祈りではなく、呪い。
ヴァルトの体からする焦げた薔薇の匂い。
セレーネの香水に混じっていた薄い焦げ臭さ。
クラリモンド夫人の黒真珠の扇。
前王妃の葬儀。
すべてが、同じ瓶の中に入っている。
「その手紙」
ギルが低く言った。
「本物なのか」
私は彼を見た。
「封蝋は本物です。紙も、王宮私室で使われていたものに似ています。香りも十年前の王宮礼拝香と一致します」
「香りだけで本物と決められるのか」
「決められません」
「なら」
「だから調べます」
ギルは口を閉じた。
私は便箋を調香台の上に置いた。
指先が震えているのに気づき、手を握る。
ヴァルトがそれを見ていた。
余計な慰めは言わない。
ただ、少しだけ立つ位置を変えた。
私と入口の間に、さりげなく。
そういう守り方をする人なのだと、少し分かってきた。
ネリが腕を組んだまま言う。
「で、どうするんだい。王宮の話なんて、うちら下町の連中にゃ大きすぎるよ。パン窯の煙突なら直せるけど、王宮の香炉までは手が届かない」
「私にも届きません」
私は正直に答えた。
「でも、祖母は届こうとした。前王妃は助けを求めた。そして、二人とももういません」
自分で言って、胸が痛んだ。
祖母の死を、私はずっと病だと思っていた。
母もそう言った。父もそう言った。使用人たちも、年齢のせいだと言った。香料に囲まれていたから体を悪くしたのだと、遠回しに私へも言い聞かせた。
けれど本当にそうだったのか。
祖母は、前王妃の手紙を受け取った。王宮の香油を調べようとした。その後、体調を崩して亡くなった。
偶然だろうか。
もし偶然でなかったなら、私は今まで何を嗅ぎ損ねていたのだろう。
ミナが心配そうに言った。
「リリアーナさん……」
「大丈夫」
言ってから、すぐ訂正した。
「ではないけれど、倒れません」
ネリが小さく笑った。
「それくらいでいいよ」
ヴァルトが手紙へ目を落とす。
「薔薇の間」
「ご存じですか」
「ああ。前王妃の私室だ。今は封鎖されている」
「封鎖?」
「前王妃の死後、縁起が悪いとして使われなくなった。表向きはな」
「表向き」
「王宮に、表向きでない場所などいくらでもある」
その言い方には、王宮への深い不信があった。
この人もまた、王宮を信じていない。
十年、眠れない夜を押しつけられたのだから当然かもしれない。
私は手紙を丁寧に畳み、祖母の日記と並べた。
「ヴァルト様」
「何だ」
「前王妃陛下の葬儀の日、覚えていることを教えていただけますか」
ギルがわずかに身じろぎした。
「閣下」
止めようとする声だった。
けれどヴァルトは首を横に振る。
「話す」
彼は木箱に座り直した。
今日は木箱がきしんだが、耐えた。よかった。
「私は当時、十八だった。北方から王都へ呼び戻されたばかりで、葬儀の警備に入った」
「警備ですか」
「王族の遠縁であり、辺境の軍を持つ家だからな。王宮内では歓迎されていなかった」
「なぜ?」
「北方の人間は、王都では野蛮に見える」
私は彼の外套を見る。
確かに、彼は王宮の絹の中に置くには硬すぎる。
でも、野蛮とは違う。
刃物のように整えられているだけだ。
「礼拝堂には、白い花が多かった。多すぎた。前王妃は白薔薇を好まなかったはずなのに」
「好まなかった?」
「ああ。昔、一度聞いた。白薔薇は葬式の顔をしている、と」
その言い方に、前王妃の人柄が少し見えた気がした。
美しく、少し皮肉で、王宮の飾り物ではなかった人。
「葬儀の香は」
「強かった。喉に張りつくような甘さだ。皆、涙を流していたが、悲しみだけではなかったと思う」
「どういう意味ですか」
「怒っている者がいた。怯えている者も。眠そうにしている者もいた。妙な葬儀だった」
感情が揺らされていた。
黒蜜花。
礼拝香に感情を増幅する成分が混ぜられていたなら、葬儀の場は人の心を操作するには絶好の場所だ。
悲しみ。恐怖。怒り。忠誠。憎しみ。
すべてが香りで煽られる。
「その夜から眠れなくなったのですね」
「ああ。最初の夢は、礼拝堂だった」
ヴァルトの声は淡々としている。
けれど、彼の匂いは少し変わっていた。
焦げた薔薇が濃くなる。
記憶が呪いを刺激している。
私は調香台の上に置いていた白樹皮を少し砕き、小皿に置いた。火はつけない。ただ、乾いた清潔な香りを空気に混ぜる。
ヴァルトが私を見る。
「何をしている」
「焦げた匂いが強くなったので」
「分かるのか」
「はい」
「便利だな」
「本人にとっては、便利だけではありません」
言ってから、少しきつかったかと思った。
けれどヴァルトは怒らない。
「そうか」
彼は静かに頷いた。
「悪い」
「謝るところではありません」
「では、助かる」
「それで合っています」
ギルが横で小さく息を吐いた。
たぶん、呆れている。
けれど、少し安心もしている匂いがした。
ミナが小声でネリに言う。
「公爵様って、怖い人じゃないんですか?」
「怖いよ」
「でも、リリアーナさんと話してると、少し……」
「少し?」
「真面目すぎる人に見えます」
「真面目すぎる男は、別の意味で怖いんだよ」
「そうなんですか」
「力加減を知らないからね」
聞こえている。
とても聞こえている。
ヴァルトも聞こえていたらしいが、特に反応しなかった。
自覚があるのかもしれない。
私は手紙に視線を戻した。
「前王妃陛下が祖母に助けを求めた。祖母は王宮香油を調べていた。けれど、祖母は亡くなり、前王妃陛下も亡くなった」
「順番が逆だ」
ヴァルトが言った。
私は顔を上げる。
「逆?」
「前王妃が亡くなった後、君の祖母も体調を崩したと聞いている」
「祖母の死をご存じなのですか」
「セラフィナ・エルヴェール。夜明けの瓶の調香師。王宮の古い者は名を知っていた。変わり者だが、香りに関しては王国一だと」
祖母が、王宮でそう呼ばれていた。
胸が詰まる。
祖母は、家ではあまり語られなかった。
母は祖母の話を嫌がった。父も、私が祖母の店へ行くことをよく思っていなかった。だから私は、祖母がただの変わり者として扱われていたのだと思っていた。
でも違う。
知っている人は、知っていた。
祖母の鼻を。
祖母の仕事を。
「あなたの祖母は、前王妃の葬儀の後、王宮に何度か出入りしていた」
ヴァルトは続ける。
「私は一度だけ見たことがある。小柄な老婦人だった。王宮医師たちに囲まれても、まったく怯えていなかった」
「祖母らしいです」
「彼女は、香炉の灰を見て言った」
「何と?」
ヴァルトは少しだけ目を伏せた。
「『これは祈りの灰ではなく、誰かの胃もたれみたいな灰ですね』と」
店内が静かになった。
次の瞬間、ネリが吹き出した。
ミナも口元を押さえる。
ギルまで、肩を震わせた。
私は額に手を当てた。
「祖母様……」
あまりにも祖母らしい。
王宮医師を前にして、香炉の灰を胃もたれ呼ばわりする人だったのか。
少し恥ずかしい。
でも、誇らしい。
ヴァルトの目元も、わずかに緩んでいた。
「私は、それを聞いて笑った」
「ヴァルト様が?」
「悪いか」
「いいえ。ただ、想像が難しくて」
「私も若かった」
「今は?」
「笑う機会が減った」
その言い方があまりに淡々としていて、私は返事に詰まった。
十年の不眠。
呪い。
王宮への不信。
北方の戦場。
笑う機会が減るには、十分すぎる理由だ。
私は白樹皮の小皿を、少し彼の近くへ寄せた。
「では、増やしましょう」
「何を」
「笑う機会を」
言ってから、顔が熱くなった。
何を言っているのだろう。
急に、妙に、距離を詰めたような言い方だった。
私は慌てて付け足す。
「店では、変なことがよく起きますから。木箱に座る公爵様とか、蜘蛛と交渉する店主とか」
「それは笑うべきことか」
「おそらく」
「分かった。覚えておく」
真面目に覚えようとしないでほしい。
ネリが完全に面白がっている顔をしていた。
私は咳払いをして、話を戻した。
「つまり、祖母は前王妃の死後も王宮香油を調べていた。そして、その後亡くなった」
「ああ」
「死因は、病と聞いています」
「記録上はそうだ」
記録上。
その言い方だけで、十分だった。
「王宮の記録を確認することはできますか」
「難しい。前王妃に関わるものは、多くが封鎖されている」
「薔薇の間も」
「ああ」
「そこに入るには?」
「王妃の許可がいる。あるいは、王家直属の高位貴族として特別な理由を作る」
ヴァルトはそこで、私を見た。
嫌な予感がした。
「リリアーナ。やはり私と契約しろ」
「専属にはなりません」
「専属ではない」
「では何ですか」
「共同調査だ」
共同調査。
その言葉に、私は少しだけ黙った。
雇う。
所有する。
保護する。
そういう言葉なら断れた。
でも、共同調査。
同じものを追う相手。
それは、今まで私にいなかったものだ。
「条件は」
「君は店主としてここにいる。私は客として君に依頼する。王宮に関わる調査が必要な時、私は身分と権限を使う。君は香りを読み、記録する。報酬は支払う。店の修理費は調査に必要な環境整備として私が出す」
「最後、少し都合よく入れましたね」
「必要だ」
「屋根も?」
「屋根も」
「ヴァルト様、もしかして屋根が気になっていますか」
「雨漏りは敵だ」
「北方の砦ではなく香水店です」
「屋根は屋根だ」
またそれだ。
私は少し笑ってしまった。
ヴァルトは真面目な顔のまま続けた。
「それに、君の店が潰れれば、私も困る」
「香が必要だからですか」
「ああ」
彼は少し間を置いた。
「それだけではないが」
私は顔を上げた。
ヴァルトはもう、こちらを見ていなかった。
調香台の上の手紙を見ている。
たぶん、言い慣れないことを言った自覚があるのだろう。
胸の奥が、また妙なふうに鳴った。
いけない。
この人は危険だ。
呪いでも、権力でも、武力でもなく。
嘘のない言葉で、こちらの防御を少しずつずらしてくる。
「契約書を作りましょう」
私は言った。
「口約束では危険です。特に公爵様は、善意で家を潰そうとする方なので」
ギルがまた咳き込んだ。
ネリが「間違ってないね」と言う。
ヴァルトは否定しなかった。
「分かった」
「条件を明記します。私は夜明けの瓶の店主であり、レイゼン公爵家の所有物でも専属使用人でもないこと。調査に関する依頼は、双方の合意の上で行うこと。店の営業を妨げないこと」
「他には」
「私の客に圧をかけないこと」
ヴァルトが少しだけ眉を動かした。
「圧」
「ご自覚が?」
「ない」
「でしょうね」
「難しいな」
「学んでください」
「努力する」
努力する、と冷血公爵は言った。
その真面目さが少しおかしくて、少しありがたかった。
私は祖母の日記の空きページを開き、仮の契約内容を書き始めた。
その途中で、便箋の下から小さな紙片が滑り落ちた。
手紙に挟まっていたらしい。
私はそれを拾う。
そこには、前王妃の字で短く記されていた。
『香油の原液は、薔薇の間の青い棚に。黒真珠の扇を持つ女を信じてはならない』
黒真珠の扇。
クラリモンド夫人。
私は紙片を握りしめた。
ヴァルトの表情が、初めてはっきりと冷たくなる。
「決まりだな」
「はい」
私の声は震えなかった。
不思議と。
「薔薇の間を調べましょう」
「危険だ」
「でしょうね」
「怖くないのか」
「怖いです」
私は即答した。
ヴァルトがこちらを見る。
「ですが、怖いからやめるには、匂いが濃すぎます」
王宮の焦げた薔薇。
祖母の死。
前王妃の手紙。
ヴァルトの呪い。
そして、私を王宮から追い出した婚約破棄。
全部、同じ香りで繋がっている。
なら、私は嗅ぎ分ける。
祖母が残した店で。
自分の名前で。
自分の鼻で。
ヴァルトはしばらく私を見ていた。
やがて、静かに言った。
「では、私が隣に立つ」
私は返事に詰まった。
守る、ではなく。
連れていく、でもなく。
隣に立つ。
その言い方が、卑怯なくらい私の胸に残った。
「……契約書に書いておきますか」
「何を」
「隣に立つこと」
「必要なら」
「冗談です」
「そうか」
「本気にしないでください」
「難しい」
ネリが後ろで笑った。
ミナもつられて笑った。
店の外では、職人たちがヴァルトの命で壁と扉の修理を始めていた。金槌の音が、東区の昼に混じる。
落書きされたばかりの店で。
前王妃の手紙を広げながら。
冷血公爵と呼ばれる男と、契約書を書こうとしている。
昨日までの私には、想像もできなかった光景だ。
けれど、これが私の新しい現実なのだろう。
私はペンを取った。
契約書の最初に、こう書く。
『夜明けの瓶店主リリアーナは、ヴァルト・レイゼン公爵の依頼により、王宮香油および焦げた薔薇の呪いに関する調査を行う』
書き終えた瞬間、店の奥で傾いていた看板が、風に揺れてぎいと鳴った。
まるで祖母が笑ったような気がした。
香りは、言葉より正直。
ならば、この契約から立ちのぼる香りは何だろう。
危険。
疑惑。
焦げた薔薇。
それから、ほんの少し。
夜明け前の空気に似た、冷たく澄んだ希望の匂いがした。




