第8話 落書きされた看板
朝、店の扉を開ける前に、嫌な匂いがした。
雨上がりの石畳。
夜露を吸った木材。
向かいのパン屋から漂う、焼きたての丸パン。
それから、赤い塗料の匂い。
私は扉の取っ手に手をかけたまま、しばらく動かなかった。
塗料。
油と、鉄錆と、安い顔料。
昨日、石に巻かれていた紙からも、似たような匂いがしていた。
嫌な予感は、だいたい当たる。
扉を開けると、朝の光が容赦なく店先を照らした。
夜明けの瓶の傾いた看板に、赤い文字が書かれていた。
『捨てられ令嬢』
扉の横の壁には、もっと大きく。
『妹いじめの悪女』
さらに窓板には、雑な字で。
『王太子に捨てられた女の店』
私は、しばらくそれを眺めていた。
文字が下手だ、と思った。
最初に。
ひどいことを書かれているのに、まず字の下手さが気になった。特に「悪」の字の形が崩れすぎている。王宮の文官ならありえない。雇われた者だろうか。あるいは、読み書きを少しだけ覚えた下町の荒くれ者か。
そう考えている自分が、少しおかしかった。
傷ついていないわけではない。
胸は冷えている。指先も少し震えている。喉の奥に、酸っぱいものがこみ上げている。
けれど、私の頭は先に匂いと文字を追っていた。
赤い塗料。
安い酒。
汗。
焦った足音。
そして、ほんのわずかに王宮の封蝋。
昨日の石と同じだ。
同じ者、あるいは同じ筋からの依頼。
「……朝から熱心なこと」
呟いた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
通りの向こうで、パン屋の扉が勢いよく開いた。
「何だい、今朝はずいぶん早く――」
ネリの声が途中で止まる。
彼女は粉のついた前掛け姿のまま、店の前まで大股でやってきた。看板を見上げ、壁を見て、窓板を見て、それから私を見た。
「誰だい、これ書いた馬鹿は」
「字を見る限り、あまり教育熱心なご家庭の方ではなさそうです」
「そこじゃないよ」
「いえ、手がかりです」
「こういう時に冷静なんだか変なんだか分からない女だね、あんたは」
ネリは眉間に皺を寄せ、壁に近づいた。
指先で塗料を少しこすり、鼻を近づける。
「うえ、安い塗料だね。うちの甥が祭りの屋台で使ってたやつよりひどい」
「取れそうですか」
「すぐなら取れる。時間が経つと面倒だよ。ああもう、朝の焼き上がり時にやることじゃないね」
「すみません。私のせいで」
その言葉が出た瞬間、ネリが私を睨んだ。
本当に睨んだ。
王宮の貴婦人たちの遠回しな非難とは違う。魚をさばく包丁くらい真っ直ぐな視線だった。
「あんたが書いたのかい?」
「いいえ」
「じゃあ、あんたのせいじゃない」
「ですが、私の店だから」
「だから何だい。店に泥を投げられたら、店主が泥にならなきゃいけない決まりでもあるのかい」
言い返せなかった。
ネリは大きく息を吐き、向かいのパン屋へ怒鳴った。
「トマ! 桶と布! あと灰汁抜き用の湯、こっちへ持ってきな!」
パン屋の奥から、若い男の声がした。
「母ちゃん、パンは!?」
「パンは焼けたら客が勝手に買うよ!」
「買わないよ!」
「じゃあ声出して売りな!」
すごい会話だ。
使用人が聞いたら卒倒しそうだが、東区ではこれが朝なのだろう。
やがてネリの息子らしき若い男が、桶と布を抱えて走ってきた。寝癖がついたまま、目元にはまだ眠気が残っている。
「うわ、何これ。ひど」
「見りゃ分かるよ。水」
「はいはい」
「はいは一回」
「はーい」
「伸ばすな」
私は思わず見てしまった。
親子というものは、こんなふうに会話するものなのか。
エルヴェール公爵家では、朝からこんな大声はありえなかった。父は食卓で新聞を読み、母は紅茶の温度に眉をひそめ、セレーネは眠そうな顔で甘いパンを選ぶ。私は黙って食べる。銀器の触れ合う音だけがやけに響く。
それに比べると、ネリ親子の会話は騒がしい。
でも、息が詰まらない。
「何ぼうっとしてんだい、店主」
ネリが布を私に投げた。
反射的に受け取る。
「自分の店だろ。落ち込むなら手を動かしながら落ち込みな」
「はい」
私は布を濡らし、壁の文字に当てた。
赤い塗料がじわりと滲む。
指先に、塗料の油っぽさが移る。
捨てられ令嬢。
妹いじめの悪女。
王太子に捨てられた女の店。
文字をこすればこするほど、胸の中の何かも削られていく気がした。
怒りなら、まだ楽だった。
けれど、実際には怒りだけではない。
悲しい。
恥ずかしい。
悔しい。
そして、怖い。
昨日、私は強がって言った。閉めません、と。
でも、こうして朝の光の中で落書きを見ると、改めて分かる。
私は、本当に狙われている。
しかも、王宮から遠いこの小さな店まで。
ネリは私の隣で、ごしごしと壁をこすりながら言った。
「泣くなら今のうちだよ」
「泣きません」
「そういう言い方する時は、だいたい泣きたい時だ」
「ネリさんは、人の顔を見すぎです」
「パン屋は客の顔を見るんだよ。腹が減ってるか、金があるか、ツケを踏み倒す気か。だいたい顔に書いてある」
「私は何と書いてありますか」
「『今泣いたら負けだと思ってる馬鹿』」
「……ずいぶん具体的ですね」
「当たってるだろ」
当たっていた。
腹立たしいほど。
私は壁をこする手を止めずに言った。
「泣いたら、あの人たちの思うつぼのような気がして」
「あの人たちって誰だい」
「王宮の人たち。私を追い出した人たち。私を、ここにいてはいけないものにしたい人たち」
「じゃあ、泣いたあともここにいればいい」
簡単に言う。
でも、その簡単さが胸にしみた。
「泣くことと、逃げることは別だよ」
ネリはそう言って、塗料で赤くなった布を桶で洗った。
「うちの旦那が死んだ時、私は三日泣いた。泣きながらパンを焼いた。客に塩辛いって言われたよ。涙が入ったんだろうね」
「それは衛生的に」
「そこ気にするところかい」
「少し」
ネリは呆れたように笑った。
「でも店は閉めなかった。閉めたら、あの人が帰ってくる場所がなくなる気がしたからね」
私は布を握ったまま、ネリを見た。
彼女の横顔は、いつもより少し静かだった。
夫を亡くした話を、彼女は焼きそこねたパンの話でもするように言う。けれど、その香りは軽くなかった。古い喪失の匂い。何年経っても、完全には消えないもの。
「だから、あんたも泣くなら泣きな。店を閉めないなら、それでいい」
私は何も言えなかった。
代わりに、壁をこすった。
何度も。
何度も。
文字が少しずつ薄れていく。
完全には消えない。赤い跡が残る。
でも、それでいいのかもしれない。
消えないものを、なかったことにはできない。
ただ、その上から何を書くかは、私が決められる。
やがて、魚屋の親父が水を持ってきた。染物屋の職人は、塗料を落とす薬液を少し分けてくれた。昨日私を笑っていた子どもたちは、通りの隅で見張りをしていると言い張った。見張りと言いつつ、途中で棒きれを剣にして戦い始めていたが。
ミナも駆けつけた。
伯爵家から正式に半日休みをもらったらしい。彼女は落書きを見て真っ青になったあと、何も言わずに布を取った。
「ミナ、あなたは休みでしょう」
「休みだから来たんです」
「休みは休むものよ」
「リリアーナさんも、昨日から休んでません」
「私は店主だから」
「私も客です」
「客は壁をこすらないわ」
「じゃあ、手伝いです」
ミナは珍しく強い声で言った。
その声を聞いて、私は少しだけ目を丸くした。
昨日まで、彼女は自分の意見を言う前に必ず怯えていた。けれど今は、震えながらもこちらを見ている。
ネリがにやりと笑う。
「言われたね、店主」
「……はい」
私は布を渡した。
「では、お願いします」
「はい!」
ミナは一生懸命、窓板の文字をこすり始めた。
昼前には、落書きはほとんど消えた。
完全ではない。
看板の木目には赤が少し残り、壁にも薄い跡がある。
けれど、最初に見た時のような毒々しさはなくなった。
代わりに、店の前には水桶、汚れた布、パンくず、魚屋の親父が置いていった小魚の包み、子どもたちが「見張りの報酬」として要求した飴玉の紙が散らばっていた。
これはこれで、ひどい。
「店先が戦場ですね」
「勝ったならいいだろ」
ネリが言う。
私は店の前に立ち、看板を見上げた。
『夜明けの瓶』
まだ傾いている。
文字も薄い。
その横に、赤い跡がわずかに残っている。
私はふと思い立ち、店の奥から小さな筆を持ってきた。
「何するんだい」
「少し、書き足します」
私は看板の下、赤い跡の残る場所に、小さく文字を書いた。
『本日も準備中。落書きは消しました』
ネリが吹き出した。
「それ、客への案内かい?」
「犯人への報告です」
「いいねえ。性格悪くなってきた」
「褒めていますか」
「かなり」
ミナは困ったように笑っている。
その時、通りの向こうがまた静かになった。
昨日から、こういう静けさに慣れてきた自分が嫌だ。
蹄の音。
黒い馬車。
銀狼の紋章。
ヴァルト・レイゼン公爵が、また来た。
今度は本人が馬車から降りた。
護衛のギルと、もう一人の寡黙な男も一緒だ。ギルは店先の濡れた布と桶を見て、眉間に皺を寄せた。
ヴァルトは、消し残りの赤い跡を見た。
そして、看板の下の文字を読んだ。
「落書きは消しました」
彼は低く読み上げた。
「はい」
「報告か」
「犯人への」
「そうか」
彼は真面目に頷いた。
ネリが小声で「そこ納得するんだね」と呟いた。
私も少し思った。
ヴァルトは壁の薄い赤跡へ近づく。
指先で触れることはしなかった。ただ、目を細める。
「誰が」
「分かりません。ただ、昨日の石と同じ匂いです。王宮の封蝋の匂いが少し」
「王宮か」
その声に、低い熱が混じった。
ギルがすぐに言う。
「調べます」
「調べるだけでよい」
ヴァルトはそう言った。
私は少し身構えた。
その予感は当たった。
彼はこちらを向き、静かに言った。
「犯人の家を潰せばいいか」
店の前が、完全に静まり返った。
ネリが目を細める。
魚屋の親父が魚の包みを落としかける。
ミナは「ひっ」と小さく声を漏らした。
ギルが額を押さえた。
私は、しばらくヴァルトを見つめた。
「ヴァルト様」
「何だ」
「いけません」
「なぜ」
「まず、まだ犯人の家が分かっていません」
「分かれば潰してよいのか」
「いけません」
「そうか」
彼は本当に残念そうではなく、ただ情報を更新したような顔で頷いた。
この人は、善意の規模がおかしい。
「では、何をすればいい」
「壁を直してください」
自分でも、少し唐突だったと思う。
ヴァルトの眉がわずかに動く。
「壁」
「はい。落書きは消しましたが、塗料の跡が残りました。それから、昨日の石で扉にも傷が。窓板も弱っています。犯人の家を潰すより、こちらを直していただく方が助かります」
「分かった」
早い。
早すぎる。
「職人を呼ぶ」
「今すぐでなくても」
「今すぐ呼ぶ」
「ヴァルト様」
「犯人の家を潰さない代わりだ」
「交換条件のように言わないでください」
「違うのか」
「違います」
ギルが横で小さく咳払いした。
「閣下、まず店主殿の都合を」
ヴァルトは私を見る。
「都合は」
「あります」
「何だ」
「店内がまだ人様に見せられる状態ではありません」
ネリが即座に言った。
「外も似たようなもんだよ」
「ネリさん」
「本当のことだろ」
「否定はしませんが」
ヴァルトは店内をちらりと見る。
棚。調香台。木箱。蜘蛛。
「昨日より片づいている」
「ありがとうございます」
「蜘蛛も減った」
「交渉が進みました」
「そうか」
ギルが小声で「そこも納得するんですか」と呟いた。
ヴァルトは懐から小さな紙を取り出した。
「昨夜の香について報告がある」
そうだ。
彼は、ただ落書きを見に来たわけではない。
私は表情を引き締めた。
「店内へどうぞ。木箱は……」
昨日ヴァルトが座った木箱を見る。
少しひびが入っている。
「別の木箱にしましょう」
「壊れたか」
「まだです」
「弁償する」
「まだです」
ネリがまた笑った。
ヴァルトは店内に入った。
今度も木箱に座った。
ただし、昨日より丈夫そうなものを選んだ。進歩している。
ギルともう一人の護衛は入り口近くに立つ。ミナはなぜか店の隅で布を畳んでいる。ネリは「壁の修理なら口を出す」と言って帰らない。
公爵との面談に、パン屋の女将と元下働きの少女と蜘蛛が同席している。
王宮の礼法教師が見たら、たぶん卒倒する。
私は調香台の前に立った。
「昨夜の香は、三刻眠れたと聞きました」
「ああ」
「夢は雪原だったと」
「正確には、雪原の上に薔薇が一本あった」
私はすぐに紙を取った。
「薔薇の色は」
「白。燃えてはいない」
「匂いは?」
「なかった」
「胸の痛みは」
「半分ほど」
「半分」
「ああ。完全には消えないが、呼吸は楽だった」
「香を焚いてから、どのくらいで眠気が」
「半刻ほど」
「早いですね」
「普段眠れないからな」
その言い方が淡々としていて、かえって胸に刺さった。
十年。
十年眠れない。
それを彼は、天気の話のように言う。
私は思わず聞いていた。
「怖くないのですか」
ヴァルトがこちらを見る。
「何が」
「眠ることです。十年、燃える薔薇の夢を見てきたのなら」
店内が静かになった。
ギルが少し目を伏せる。
ヴァルトはすぐには答えなかった。
「怖い」
やがて、彼はそう言った。
意外だった。
この人が、自分の恐怖を認めるとは思わなかった。
「だが、起きている方が疲れる」
「……そうですね」
「眠れたのは、久しぶりだった」
彼は、ほんの少しだけ調香台の上の瓶を見る。
「助かった」
前回、私が教えた褒め方。
不器用だ。
でも、嘘がない。
「それなら、よかったです」
私はそう答え、記録を書いた。
その間に、ヴァルトが部下へ命じる。
「壁と扉と窓板を直す職人を呼べ。看板も固定しろ」
「はっ」
「屋根も見る」
「屋根もですか」
私は顔を上げた。
ヴァルトは当然のように言う。
「雨漏りするのだろう」
「なぜそれを」
「昨日、天井を見た」
「見ただけで分かるのですか」
「北方の砦は、雨漏りから落ちる」
「砦と香水店を同列にしないでください」
「屋根は屋根だ」
正しい。
妙に正しいのが悔しい。
「費用はお支払いします」
私が言うと、ヴァルトは首を横に振った。
「私が払う」
「いけません」
「犯人の家を潰さない代わりだ」
「その代わり制度をやめてください」
「では、契約料の前払い」
「まだ契約していません」
「では、貸し」
「それが一番嫌です」
ヴァルトは黙った。
どうやら本当に困っている。
この人は、誰かを助ける時、金か権力か武力を出す以外の方法を知らないのかもしれない。
私は少し考えた。
「では、仕事としてお願いします」
「仕事」
「はい。店の修理費を立て替えてください。その代わり、私はヴァルト様の呪いについて、正式に記録を取り、香の試作を続けます。ただし、私はレイゼン公爵家の専属にはなりません。夜明けの瓶の店主として、客の一人であるあなたと取引します」
ヴァルトの灰色の目が、少しだけ動いた。
「店主として契約か」
「はい」
「書面にするか」
「した方がいいでしょうね」
「分かった」
彼は短く頷いた。
私は少しだけ安堵した。
これなら、受けられる。
誰かの所有物になるのではなく、店主として客と契約する。
細い線かもしれない。
でも、その線を自分で引くことが、今の私には必要だった。
その時、店の奥から大きな音がした。
がたん。
全員がそちらを向く。
ミナが驚いて布を落とした。
「す、すみません! 棚を拭こうとしたら」
店の奥の古い棚が、壁から少し外れて斜めになっていた。昨日からぐらついていたのだ。ミナが軽く触れた拍子に、留め具が外れたらしい。
ヴァルトの護衛がすぐに動き、棚を支える。
「危ない」
ギルが言う。
私は慌てて近づいた。
「ミナ、怪我は」
「大丈夫です。びっくりしただけで」
「よかった」
棚の裏には、分厚い埃が積もっていた。
そして、その埃の中に、何か白いものが挟まっている。
「……紙?」
私は手を伸ばした。
古い封書だった。
黄ばんだ封筒。端は少し傷んでいる。けれど封蝋は残っている。
封蝋には、王冠と薔薇の紋章。
王妃の私的な印。
私は息を呑んだ。
ヴァルトが背後から覗き込む。
「それは」
「前王妃陛下の印です」
十年前に亡くなった前王妃。
祖母の日記に名があった人。
その前王妃から、祖母の店へ届いた封書。
なぜ、棚の裏に隠されていたのか。
ミナが不安そうに私を見る。
ネリも、さすがに黙っていた。
私は震える指で、封筒の宛名を確認した。
『夜明けの瓶 セラフィナ・エルヴェール様』
セラフィナ。
祖母の名。
胸の奥で、焦げた薔薇の匂いが蘇る。
ヴァルトが低く言った。
「開けるか」
私はしばらく封書を見つめた。
落書きされた看板。
ヴァルトの呪い。
祖母の日記。
王宮の香。
そして、前王妃からの手紙。
この店は、ただの避難先ではなかった。
祖母はここに、何かを残している。
私は小さく頷いた。
「開けます」
封蝋に指をかける。
その瞬間、古い紙からかすかな香りが立った。
白薔薇。
蜜蝋。
そして、燃え尽きる直前の祈りの匂い。
私は息を止めた。
手紙の中に、十年前の王宮がまだ閉じ込められている。
封が、静かに開いた。




