第7話 私はもう、誰かの所有物にはなりません
ヴァルト・レイゼン公爵が店に来た翌朝、夜明けの瓶の前には人だかりができていた。
といっても、客ではない。
通りの子どもが三人。向かいのパン屋のネリ。魚屋の親父。染物屋の若い職人。それから、どこの家の者か分からない老婆が一人。
全員が、私の店の前に立っていた。
そして全員が、無遠慮に看板を見上げている。
「……何事ですか」
私が扉を開けると、子どもの一人が勢いよく振り向いた。
「姉ちゃん、公爵様と結婚するの?」
「しません」
即答した。
ネリが吹き出した。
「まだ何も言ってないのに速いね」
「速く否定しないと、噂は馬より速く走りますので」
「もう走ってるよ」
魚屋の親父が、干した魚の入った籠を抱えながら言った。
「昨日、黒い馬車がここに止まったろ。銀狼の紋章つきで。あれ、レイゼン公爵家だって話じゃねえか。王都の連中は、ああいう黒くて高そうなものが好きだからな。朝にはもう、東区の酒場で三種類の話になってたぞ」
「三種類」
「一つ目。没落令嬢が冷血公爵に拾われた」
「拾われていません」
「二つ目。香水屋の女店主が公爵をたぶらかした」
「たぶらかしていません」
「三つ目」
魚屋の親父は、妙にもったいぶって間を置いた。
「公爵が木箱に座った」
私は黙った。
ネリが腹を抱えて笑った。
「そこが一番広まってんだよ。冷血公爵、東区のぼろ店で木箱に座る、ってね」
「ぼろ店」
私は店を振り返る。
たしかに、まだぼろい。
否定できない。
「……事実は強いですね」
「だろう?」
「でも、店の前に集まる理由にはならないと思います」
すると老婆が、しわだらけの顔でにやりと笑った。
「あの銀狼の若様が、よその店で木箱に座るなんてねえ。あたしゃ長生きするもんだと思ったよ」
「お知り合いなのですか」
「知り合いなわけないだろ。あんな怖い人」
「では、どうして」
「怖い人が怖い顔で来た店は、何を売ってるのか気になるじゃないか」
それは、理屈なのだろうか。
いや、たぶんこれが下町の理屈なのだ。
私は額に手を当てた。
「申し訳ありませんが、まだ正式に開店していません」
「昨日、眠りの香を作ったんだろ?」
染物屋の職人が言った。
「ミナの件、聞いたぜ。ヘイス伯爵家の料理長、首になったって。うちの妹もあそこの洗濯場に出入りしてたから、ひでえ奴だって知ってたんだ」
ミナの名が出た瞬間、空気が少し変わった。
冷やかしが、少しだけ真面目になる。
ネリが腕を組んだ。
「だから、皆ちょっと見に来たんだよ。王宮から追い出されたお嬢様が、どれくらい腰抜けかと思ったら、初日から料理長ひとり飛ばしたって聞いてね」
「飛ばしていません」
「似たようなもんだよ」
「私は香り文を送っただけです」
「それで飛んだなら、なおさら怖いね」
子どもたちが「香り文!」「飛ぶ料理長!」と騒ぎ始める。
私は頭が痛くなった。
まずい。
王宮で悪女として噂されるのも困るが、東区で変な香水屋として噂されるのも困る。
いや、商売としては少し困らないのかもしれない。
でも、方向性がよくない。
「皆さん」
私はなるべく店主らしく言った。
「夜明けの瓶は、人を飛ばす店ではありません。香りを扱う店です」
「じゃあ、怒鳴る亭主を黙らせる香はあるかい?」
老婆が言う。
「用途が物騒です」
「寝かせりゃ黙るだろ」
「間違ってはいませんが、使い方に問題があります」
ネリが笑いながら、私の肩を軽く叩いた。
「あんた、ここでやっていけるよ」
「どのあたりに確信を?」
「言い返せるところ」
それは褒め言葉だろうか。
たぶん、褒め言葉なのだろう。
その時、通りの向こうからミナが走ってきた。
昨日より顔色がいい。
相変わらず痩せているし、目の下の影も残っている。けれど、肩をすくめる癖が少し薄くなっていた。
彼女は私を見るなり、深く頭を下げた。
「店主さん!」
「リリアーナでいいわ」
「で、でも」
「店主さんと呼ばれると、背中がむずむずするの」
「じゃあ……リリアーナさん」
ミナはそう言って、また頭を下げた。
「昨日、眠れました。朝まで、ではなかったんですけど。でも、途中で起きても、胸がばくばくしなくて。あと、料理長が……」
「ネリさんから聞いたわ」
ミナの目に涙が浮かぶ。
けれど、泣く前に彼女は袖でごしごし目元を拭いた。
「奥様が、私たちに謝ってくださいました。料理長は辞めさせられて、厨房の下働きは夜に呼ばれないように決まりができて。それで、私、今日のお昼からお休みをもらえたんです」
「よかった」
「はい。それで、あの……これ」
ミナは小さな包みを差し出した。
中には、白い布が数枚入っていた。丁寧に洗われ、畳まれている。ところどころ古いが、清潔だった。
「何かしら」
「店のお掃除に使えるかなって。伯爵家で古くなった布なんですけど、奥様が、持って行っていいって」
私は布を受け取った。
日向に干した布の匂いがする。
ミナが好きだと言った、晴れた日の洗濯物の匂い。
「ありがとう。とても助かるわ」
「本当ですか」
「本当。今のこの店では、清潔な布は宝石より価値があるかもしれない」
「宝石は言いすぎです」
「そうね。さすがに宝石の方が売った時に強いわ」
ミナが笑った。
その笑いを見て、通りの人々も少しだけ和やかになる。
昨日まで私は、どこにも居場所がないと思っていた。
けれど今、店の前には、私の噂を面白がる人たちがいて、口の悪いパン屋がいて、助けた少女がいて、掃除用の布がある。
ひどく小さい。
公爵家の大広間に比べれば、何もかもが小さい。
でも、ちゃんと温かい。
その温かさに、気を抜きそうになった時だった。
店の奥から、きい、と嫌な音がした。
看板ではない。
扉の音でもない。
調香台の上に置いていた小さな通信鈴が、ひとりでに震えていた。
昨日、ヴァルトに渡した黒い小瓶と対になる鈴だ。香の効果を知らせるため、瓶の封に簡単な反応香を仕込んでおいた。使用者が封を開け、一定時間香を焚くと、こちらの鈴に微かな香りが届く。
祖母の日記にあった古い方法だ。
成功するか不安だったが、どうやら動いたらしい。
私は店内へ戻った。
鈴から、薄い香りが立ちのぼる。
白樹皮。氷花石。月眠草。
そして、焦げた薔薇。
昨日より少しだけ、焦げ臭さが弱い。
私は思わず息を止めた。
「効いた……?」
完全ではない。
でも、呪いの焦げた根が、一晩だけでも薄く包まれている。
つまり、ヴァルトは昨夜、香を使った。
そして、おそらく眠った。
その事実に、胸が高鳴った。
ミナとは違う。
彼の呪いは、王宮の闇に繋がっている。少しでも効果が出たなら、これは大きな手がかりになる。
同時に、怖くもなった。
私の香りが、冷血公爵と呼ばれる男の命に触れたのだ。
責任の重さが、昨日よりずっと濃い匂いを持って立ち上がる。
「リリアーナさん?」
ミナが心配そうに覗き込む。
私は鈴に布をかぶせた。
「大丈夫。少し、客の香りが返ってきただけ」
「客の香りが返る……?」
「説明すると怪しくなるから、今は忘れて」
「もう少し前から怪しいです」
ネリが外から言った。
「聞こえています」
「聞こえるように言ったんだよ」
その時、通りの奥から馬の蹄の音がした。
昨日と同じ、整った蹄の音。
人だかりが自然に割れる。
黒い馬車ではなかった。
今日は馬車ではなく、二頭の馬。先頭に乗っているのはギルだった。昨日、私を何度も睨んでいた護衛だ。後ろにはもう一人の護衛。公爵本人はいない。
ギルは店の前で馬を止めると、昨日よりさらに不機嫌そうな顔で降りてきた。
「リリアーナ・エルヴェール」
通りがざわついた。
エルヴェール。
その名を聞いた瞬間、何人かの顔が変わる。
王都に噂は届いている。
王太子に婚約破棄された公爵令嬢。
妹をいじめたとされた女。
私はギルを見上げた。
「今は店主として、リリアーナで結構です」
「閣下から伝言だ」
「ヴァルト様から?」
「ああ」
ギルは腰の革袋から封書を取り出した。
上質な封筒。銀狼の封蝋。
周囲の視線が一気に集まる。
ここで受け取れば、また噂が増える。
受け取らなければ、ヴァルトとの手がかりが切れる。
私は封書を受け取った。
ギルは低い声で言う。
「昨夜、閣下は三刻眠られた」
私は息を呑んだ。
「三刻」
「夢は見たそうだ。だが、燃える薔薇ではなかった」
「では、何を」
「雪原だそうだ」
雪原。
ヴァルトの冷たい鉄の匂いに似ている。
焦げた薔薇を、一晩だけでも遠ざけたのだ。
私は封書を握る手に力が入った。
「胸の痛みは?」
「軽くなったと」
「発作は?」
「なかった」
「香を消した後は」
「二刻ほどして、また痛みが戻った」
情報をくれる。
昨日の条件を、彼は守った。
ギルは不本意そうな顔をしているが、伝える内容に嘘はない。
「ありがとうございます」
「礼なら閣下に言え」
「あなたにも。詳細に伝えてくださいました」
「俺は命じられただけだ」
「命じられたことを丁寧に行うのは、簡単なことではありません」
ギルは変な顔をした。
怒るのかと思ったが、少しだけ視線を逸らした。
「……あんた、やりにくいな」
「よく言われます」
「だろうな」
失礼ではあるが、悪意はない。
私は封書の封を切った。
中には短い文が入っていた。
『香は効いた。正式に契約を求める。レイゼン公爵家専属調香師として、私の呪いの調査と治療にあたってほしい。報酬、身分保証、店の保護を約束する。必要なら屋敷の一室を用意する。
ヴァルト・レイゼン』
文字は整っている。
無駄がない。
本人そのもののような文章だ。
私は読み終え、しばらく黙った。
報酬。
身分保証。
店の保護。
屋敷の一室。
魅力的な条件だった。
あまりにも。
昨日、床で寝た背中がまだ痛い。屋根は雨漏りしそうだ。店には棚も足りない。香料も少ない。王宮とエルヴェール家が本気で私を潰そうとすれば、この店など簡単に消える。
レイゼン公爵家の庇護があれば、どれほど楽か。
ミナが不安げに私を見る。
ネリは黙っている。
ギルは腕を組み、こちらの返事を待っていた。
「お断りします」
通りの空気が固まった。
ギルの目が鋭くなる。
「理由を聞いてもいいか」
「昨日も申し上げました。私はもう、誰かの所有物にはなりません」
「専属調香師は所有物じゃない」
「建前では」
ギルの眉が動く。
私は封書を丁寧に畳み直した。
「レイゼン公爵家の専属になれば、私はヴァルト様の人間として見られます。店も、香りも、言葉も、すべて公爵家のものとして扱われる。私が何かを嗅ぎ当てれば、皆は私ではなく、背後にいる公爵家を恐れるでしょう」
「それの何が悪い」
「私が立てなくなります」
ギルは黙った。
私は続けた。
「私は王太子殿下の婚約者でした。エルヴェール公爵家の娘でした。ずっと、誰かの名前の後ろにいました。だから今は、この傾いた看板の下でも、自分の名前で立ちたいのです」
自分で言っていて、少し恥ずかしくなった。
傾いた看板、は余計だったかもしれない。
でも事実なので仕方ない。
ネリが小さく笑った。
ミナはなぜか泣きそうな顔をしている。
ギルはしばらく私を見ていたが、やがて深く息を吐いた。
「頑固だな」
「よく言われます」
「それもだろうな」
彼は封書を受け取ろうとはしなかった。
「返事は、口頭でいい。だが、閣下は別の条件を出すと思う」
「別の条件?」
「店主として契約する、と昨日言っていた。閣下は一度決めると、あまり引かない」
「困ります」
「俺も困ってる」
その言い方があまりに正直で、私は思わず笑いそうになった。
「ギルさんも大変ですね」
「同情するなら、閣下の言う通り屋敷に来てくれ」
「それは同情ではなく取引です」
「ちっ」
舌打ちされた。
でも、少しだけ空気が柔らかくなった。
ギルは馬に戻りかけて、ふと立ち止まる。
「ひとつ忠告する」
「はい」
「閣下がここへ来たことは、すでに王宮にも伝わっているはずだ。あんたは目立った」
「でしょうね」
「これから嫌がらせが増える」
私は何も言えなかった。
ギルの声は、からかいではなかった。
本気の警告。
「閣下の名を使えば、減らせる」
「分かっています」
「分かっていて断るのか」
「はい」
「馬鹿だな」
「たぶん」
ギルはまた変な顔をした。
「そこは怒れ」
「事実かもしれないので」
「本当にやりにくい」
彼はそう言い残し、馬に乗った。
去り際、もう一人の護衛が小さく頭を下げた気がした。ギルに比べると口数の少ない男だ。名前はまだ知らない。
馬が去ると、通りの人だかりも少しずつ散っていった。
ネリだけが残る。
「断ったね」
「はい」
「後悔してる顔だ」
「少し」
「正直でよろしい」
「でも、受けたらもっと後悔する気がしました」
ネリは腕を組んで、傾いた看板を見上げた。
「まあ、あんたの店だからね。転んでも、まずは自分の膝を擦りむきな」
「言い方」
「他人の馬車に乗って転ぶと、どこが痛いのかも自分で分からなくなるからね」
私はネリを見た。
彼女はパン屋へ戻りながら、片手をひらひら振った。
「あとで布巾返しな」
現実的だ。
ありがたい。
私は店内へ戻ろうとした。
その瞬間だった。
石が飛んできた。
乾いた音を立てて、店の扉にぶつかる。
ミナが悲鳴を上げた。
私は反射的に彼女を庇うように前へ出た。
石は床に転がった。
大きくはない。けれど、紙が巻きつけられている。
通りの角を見る。
人影が走り去るのが見えた。黒っぽい外套。子どもではない。細身の男。
ネリが怒鳴った。
「こら! 誰だい!」
魚屋の親父が追いかけようとしたが、男は路地へ消えた。
私は石を拾った。
紙を外す。
荒い字で、こう書かれていた。
『王太子に捨てられた女が、商売などするな』
ミナが青ざめる。
「リリアーナさん……」
私は紙を見つめた。
胸の奥が冷えた。
来るとは思っていた。
でも、思っているのと、実際に石が飛んでくるのは違う。
昨日までなら、ここで震えていたかもしれない。
いや、今も少し震えている。
手首が冷たい。
喉の奥が苦い。
悔しい。
怖い。
でも、それ以上に腹が立った。
王宮で笑われ、家で追い出され、ようやく手に入れたこのぼろい店にまで、石を投げられるのか。
私は紙を丁寧に畳んだ。
ネリが駆け寄ってくる。
「リリアーナ」
「はい」
「大丈夫かい」
「大丈夫ではありません」
正直に言った。
ネリが少し目を見開く。
私は続けた。
「でも、閉めません」
傾いた看板が、風でぎい、と鳴った。
私は扉の傷を指でなぞる。
小さな傷だ。
けれど、これが始まりなのだろう。
王太子に捨てられた女。
商売などするな。
いいえ。
する。
私はする。
泣き寝入りもしない。
修道院にも行かない。
誰かの屋敷に逃げ込むこともしない。
この店で、私は私の鼻で生きていく。
「ミナ」
「は、はい」
「紙と釘はあるかしら」
「釘?」
「この紙を、店の奥に貼っておきます」
ミナが目を丸くする。
「どうしてですか」
「最初の嫌がらせ記念として」
「記念にするものですか!?」
ネリが大きく笑った。
「いいねえ。東区向きだよ、あんた」
「褒めていますか」
「かなり」
私は紙を手に店の中へ入った。
扉の傷から、外の冷たい空気が流れ込んでくる。
その中に、かすかな香りが混じっていた。
焦げた薔薇ではない。
安いインク。
汗。
それから、王宮で使われる封蝋の匂い。
石を投げた男は、ただの通りすがりではない。
どこかから命じられている。
私はその匂いを、しっかり覚えた。
夜明けの瓶は、まだ開店準備中だ。
棚は足りない。香料も足りない。寝台もない。看板は傾いている。
けれど、今日からこの店にはひとつ増えたものがある。
敵だ。
ならば、なおさら閉めるわけにはいかない。
私は調香台の前に立ち、ヴァルトからの封書と、投げ込まれた紙を並べた。
片方は、庇護の申し出。
片方は、脅し。
どちらも、私をここから動かそうとしている。
私は小さく息を吸った。
「残念でした」
誰にともなく呟く。
「私は昔から、言うことを聞かない子らしいので」
傾いた看板の向こうで、東区のざわめきが戻り始めた。
そして私は、初めて店の扉に小さな札をかけた。
『開店準備中。香りの相談、応じます』
字は少し歪んだ。
でも、それでいい。
私の人生も、この店も、まっすぐではない。
それでも、始めるには十分だった。




