第6話 冷血公爵、来店
翌朝、私は床で目を覚ました。
正確に言えば、床の上に敷いた古い外套の上で目を覚ました。
もっと正確に言えば、床の硬さに背中を負けさせられて、眠りから追い出された。
「……寝台という発明は偉大だったのね」
声に出してみたが、返事はない。
ただ、天井の隅にいる蜘蛛が、昨日より少しこちらに近づいている気がした。
「あなた、家賃は払わないのに距離だけ詰めるのね」
蜘蛛は黙っていた。
当然だ。
王宮で婚約破棄され、公爵家を出て、王都の端のぼろい香水店で蜘蛛に話しかけながら目覚める。
人の人生とは分からないものだ。
半年前の私にこの未来を伝えたら、たぶん「まず医師を呼びましょう」と言っただろう。あるいは、匂いの嗅ぎすぎで頭がおかしくなったのだと。
私は起き上がり、背中をさすった。
痛い。
王妃教育では、床で眠った翌朝の優雅な起き上がり方など習わなかった。こういう本当に必要なことを、誰も教えてくれないのは不公平だと思う。
店の中には、昨日作った眠りの香の残りが薄く漂っていた。
月眠草。白樹皮。銀葉。蜂蜜花。柑橘皮。
その奥に、ミナの涙の匂いがほんの少し残っている。
泣いた人の匂いは、すぐには消えない。けれど、昨夜の涙は悪い匂いではなかった。まだ痛むけれど、膿を出した傷のような匂い。
少しは眠れただろうか。
そう考えてから、私は首を横に振った。
心配している場合ではない。
まずは店だ。
昨夜は眠る前に扉の外で不審な気配があった。高価な革、冷たい鉄、焦げた薔薇に似た何か。そして黒い馬車の車輪跡。
王宮のものではなかった。けれど、明らかに貴族の馬車。
あれが偶然だったとは思えない。
私は調香台の引き出しから祖母の日記を取り出し、もう一度、王宮礼拝香についてのページを開いた。
『白薔薇、蜜蝋、沈香。表向きは清らかな祈りの香。しかし近年、焦げたような残香あり。黒蜜花の可能性。感情を増幅させる』
黒蜜花。
感情を増幅させる香り。
もしそれが母やセレーネの香水に混ぜられているのだとしたら。
セレーネの嫉妬。
母の苛立ち。
父の面倒を避けたい気持ち。
王太子ユリウス殿下の私への不快感。
もともと存在していた感情を、香りが押し広げた可能性がある。
けれど、それで全員を許せるわけではない。
香りは火種に油を注ぐことはできる。でも、火種そのものがなければ燃えない。
祖母なら、ここでどう考えただろう。
私は日記を閉じた。
「まず屋根。次に王宮。順番が難しいわね」
そう呟いた時、表の扉が勢いよく叩かれた。
こんこん、ではない。
どんどんどん。
店というより、借金取りが来た家のような音だった。
「新店主! 生きてるかい!」
ネリの声だ。
「死体になる予定はありません」
私は慌てて髪を手ぐしで整え、扉を開けた。
向かいのパン屋の女将ネリは、今日も粉のついた前掛け姿だった。片手には籠、もう片方の手には昨日貸してくれた布巾と似たものを何枚か抱えている。
そして、なぜか顔がにやにやしていた。
「何か良いことがありましたか」
「私にじゃないよ。あんたにさ」
「私に?」
「昨日の小さい子、覚えてるだろ。ミナとか言ったかね」
胸が跳ねた。
「何かありましたか」
「落ち着きな。悪い話じゃない」
ネリは店の中へずかずか入ってきて、昨日より少し片づいた棚を見回した。
「おや、蜘蛛が減ってる」
「一部とは交渉が成立しました」
「どういう生き方をしてきたら蜘蛛と交渉する女になるんだい」
「王宮生活です」
「王宮、怖いねえ」
ネリは本気なのか冗談なのか分からない顔で言ったあと、籠を調香台の上に置いた。
中には焼きたてではないが、昨日より柔らかそうなパンが入っている。
「ミナの勤め先、ヘイス伯爵家っていうんだけどね」
「ヘイス伯爵家」
「知ってるのかい」
「名前だけは。奥様が体の弱い方だと聞いたことがあります」
「そう。その伯爵夫人が今朝、厨房に下りたらしい」
私は息を止めた。
「それで?」
「料理長が、夜中に下働きを呼びつけてたのがばれた」
胸の奥から、ゆっくり息が抜けた。
ネリは腕を組む。
「うちの甥っ子が届けた香り文、かなり効いたみたいだよ。夫人が封を開けた瞬間、顔色変えてね。『この匂いは何』って騒ぎになったらしい。で、夜に厨房へ忍んでみたら、まあ出るわ出るわ。隠してた酒瓶、割れた鍋、ミナ以外にも泣かされてた下働きが二人」
「ミナは」
「無事。朝になって、伯爵夫人が本人から話を聞いた。料理長は解雇。今は伯爵家の門の外で荷物まとめて怒鳴ってるってさ」
よかった。
私は調香台の縁に手を置いた。
膝から力が抜けそうだった。
「よかった……」
自分でも驚くほど、小さな声だった。
ネリがこちらを見る。
「何だい。自分でやっといて、そんな顔するんだね」
「うまくいくとは限らなかったので」
「そりゃそうだ。世の中、うまくいくことの方が少ないよ」
「慰めですか」
「事実」
「ネリさんの事実は、いつも少し硬いですね」
「柔らかい事実なんて、噛んでも腹にたまらないだろ」
彼女はそう言って、パンを一つ私に投げた。
今度は落とさず受け取った。
「上達したね」
「床と仲良くするのは昨日で終わりにしたいので」
「無理だと思うよ。この店の床、あんたより長くここにいるからね」
「立場が強い」
私がパンを見下ろしていると、ネリは何気ない口調で続けた。
「ミナ、昼過ぎに来るってさ」
「ここへ?」
「礼を言いたいんだと。止めたんだけどね。礼なら香水代を払った時点で済んでるって。でも、まあ、言いたいんだろ」
「……そうですか」
胸の奥が少し温かくなった。
役に立てたかもしれない、と思った昨日の感覚は、間違いではなかったらしい。
けれど、すぐに別の感情も湧いた。
怖い。
誰かの人生に触れることは、怖い。
香りを嗅いで、手を出して、もし間違えたら。その人はもっとひどい目に遭うかもしれない。私の鼻が正しくても、私の行動が正しいとは限らない。
私はパンを握ったまま、しばらく黙っていた。
ネリがじろりと見る。
「何をそんな難しい顔してんだい」
「責任の匂いがします」
「変な言い方」
「私もそう思います」
「責任なんて、パンみたいなもんだよ」
「パン?」
「ちゃんと焼けば人を生かす。焦がせば苦い。焼かなきゃ腹を壊す。重いからって捨てると、誰かが腹を空かせる」
ネリはそれだけ言うと、棚の埃を指でぬぐった。
「で、あんたはこの棚をいつまでこのままにする気だい」
「今、良い話をしていたのでは」
「良い話と掃除は同時にできる」
私は思わず笑った。
その時、店の外で馬のいななきがした。
音が違った。
東区を走る荷馬車の馬ではない。蹄の音が整っている。革具の軋みも上等で、車輪の金具はきちんと油を差されている。
ネリが扉の方を見た。
「……おや」
通りが静かになる。
子どもの声も、鍛冶場の音も、少しだけ遠のいたように感じた。
私は扉へ向かい、外を見た。
黒い馬車が、店の前に止まっていた。
昨夜の車輪跡と同じ幅。
飾り気は少ない。けれど、使われている木材も金具も一級品だと分かる。貴族の馬車にありがちな華美な紋章はない。代わりに、扉の側面に銀の狼の紋が小さく刻まれていた。
銀狼。
レイゼン辺境公爵家の紋章だ。
王国北方を守る武門の名家。
その名を知らない貴族はいない。
そして、王都の社交界ではこう呼ばれている。
冷血公爵。
馬車の扉が開く。
まず降りてきたのは、護衛らしき男が二人。
一人は短く刈った茶髪で、腰に剣。もう一人は痩せ型で、目つきが鋭い。二人とも、貴族の従者というより戦場の匂いがした。磨かれた鎧ではなく、手入れされた武器の匂い。静かな警戒。いつでも動ける人間の体臭。
その後、黒い外套の男が降り立った。
背が高い。
まず、そう思った。
次に、肩幅が広い。立っているだけで、周囲の空気を押しのけるような存在感がある。
黒に近い濃紺の髪。冷たい灰色の瞳。整っているのに、どこか近寄りがたい顔立ち。口元は結ばれ、笑う気配など少しもない。
黒い外套の下には、軍服に近い貴族服。金糸の刺繍は控えめだが、質がいい。手袋も靴も、華やかさより機能を重視している。
この人は、飾られるためではなく、戦うために仕立てられている。
ネリが小声で言った。
「……あんた、昨日まで王宮にいたんだよね」
「はい」
「何か拾ってきたのかい」
「婚約破棄くらいしか」
「それにしては物騒な客だね」
黒い外套の男が、こちらへ歩いてくる。
通りの人々が、自然と道を空けた。
私は店の前に立ったまま、彼を迎えた。
「夜明けの瓶はこちらか」
低い声だった。
胸の奥に直接響くような、静かな声。
「はい。まだ開店準備中ですが」
「香を扱うと聞いた」
「扱う予定です」
男の眉がわずかに動いた。
「予定が多い店だな」
「昨日、店主になったばかりですので」
「そうか」
会話が止まった。
いや、止められたというより、彼の言葉が少ない。
護衛の一人が、少し苛立ったように口を挟んだ。
「閣下、やはり別の店を――」
「黙れ、ギル」
男が短く言う。
護衛は口を閉じた。
閣下。
やはり、この人が。
「ヴァルト・レイゼン公爵閣下でいらっしゃいますね」
私が言うと、男は私を見た。
「名乗る前に分かるのか」
「紋章で」
「ああ」
彼は本当に、そこで会話を終わらせようとした。
何というか、会話が節約されている。
王宮の貴族たちは、何も言わなくてもいいことを長々と喋る。目の前の公爵は、必要なことまで削るらしい。
「ご用件を伺っても?」
「眠れる香を探している」
眠れる香。
ミナに作ったばかりだ。
しかし、この人に同じものを渡して済むとは思えない。
私は彼に近づく前から、違和感を覚えていた。
香りが薄い。
いや、正確には、彼自身の匂いが抑え込まれている。
高価な革。冷たい鉄。雪のように乾いた外気。戦場帰りの男に特有の、血と薬草の記憶。
そこまでは分かる。
けれど、その下に何かがある。
深く、熱く、焦げついたもの。
昨夜、店の外に残っていた気配と同じ。
「眠れないのですか」
「そう言った」
「いつからです」
「十年ほど前から」
十年。
前王妃の葬儀と同じ頃だ。
私は自分の表情が変わらないように気をつけた。
「医師には」
「診せた」
「薬師には」
「試した」
「聖職者には」
「祈られた」
「効果は?」
「今、ここにいる」
なるほど。
この人、言葉は少ないが、皮肉は言う。
私は少しだけ肩の力が抜けた。
「失礼しました。中へどうぞ。椅子は壊れていますが、木箱ならあります」
護衛のギルが目を剥いた。
「閣下を木箱に座らせる気か」
「床よりはましです」
「お前な」
「ギル」
ヴァルトがまた短く止めた。
彼は店内を見回した。
埃の残る棚。片づけ途中の瓶。斜めの椅子。調香台。隅に堂々と巣を張る蜘蛛。
普通の貴族なら、入る前に帰る。
彼は帰らなかった。
それどころか、木箱に座った。
護衛の顔が死んだ。
ネリが向かいのパン屋の前で、口を押さえて笑っている。
私は見なかったことにした。
「香を作る前に、少し確認させてください」
私は調香台のそばに立った。
「眠れない、というのは寝つけないのですか。それとも途中で起きるのですか」
「両方だ」
「夢は?」
ヴァルトの目が、ほんの少し鋭くなった。
「見る」
「どのような」
「花畑」
意外な答えだった。
この人の口から花畑という言葉が出るとは。
けれど、次の言葉で背筋が冷えた。
「燃えている」
「燃えている花畑」
「薔薇だ。黒く焦げて、音を立てずに燃える。匂いだけが残る」
焦げた薔薇。
私は息を吸う。
近づけば、もっと分かるはずだ。
「公爵閣下」
「ヴァルトでいい」
「よろしいのですか」
「長い」
「……では、ヴァルト様。香りを確認しても?」
護衛二人の空気が変わった。
ギルが低く言う。
「確認とは、どこまで近づく気だ」
「必要な距離まで」
「無礼だぞ」
「眠れる香を作るには必要です」
「お前、相手が誰だか」
「ギル」
三度目の制止。
護衛のギルは、歯を食いしばった。
ヴァルトは私を見る。
「嗅げば分かるのか」
「分かることもあります」
「分からないことは?」
「分かりません」
ギルが呆れたように口を開く。
「正直すぎるだろ」
「嘘をつくと、店の方針に反しますので」
ネリが外で「いいぞ」と言った気がした。
気のせいだと思いたい。
ヴァルトは一瞬だけ、ほんのわずかに目元を緩めた。
笑った、のかもしれない。
雪の上に針で線を引いたくらいの変化だったが。
「構わない」
私はゆっくり近づいた。
一歩。
高価な革の匂い。
二歩。
冷たい鉄。よく手入れされた剣。雨に濡れた外套。
三歩。
眠っていない人間の疲労。けれど、弱音を隠すために硬く固められた匂い。
さらに半歩。
そこで、鼻の奥が焼けるように痛んだ。
焦げた薔薇。
ただの比喩ではない。
本当に薔薇が燃えたような匂い。花びらの甘さが黒く炭化し、蜜蝋と血と古い祈りを混ぜて煮詰めたような、ひどく歪んだ香り。
それは彼の外套や肌に付着しているのではない。
もっと内側。
胸の奥。
血の流れに絡みついている。
祖母の日記にあった王宮礼拝香の焦げた残香とは似ているが、さらに濃い。長く育った根のように、体の中で複雑に絡んでいる。
私は無意識に呟いていた。
「あなた、呪われています」
店内の空気が凍った。
ギルの手が剣に伸びた。
もう一人の護衛も、音もなく私の横へ動きかける。
「貴様」
「待て」
ヴァルトの声は静かだった。
けれど、それだけで護衛たちは止まった。
彼は木箱に座ったまま、私を見上げる。
灰色の瞳。
冷たいはずのその奥に、ほんの少しだけ、別の色があった。
驚き。
あるいは、長年探していたものをようやく見つけた人の、警戒混じりの希望。
「続きを聞こう」
私は自分の心臓の音を聞いた。
言ってしまった。
初対面の公爵に向かって、呪われていますと。
普通なら、斬られても文句は言えない。
いや、文句くらいは言いたいが、聞いてもらえるかは別だ。
私は喉を潤すために唾を飲み込んだ。
「外から付いた呪いではありません。衣服や持ち物ではなく、体の中にあります。たぶん、吸い込んだものです」
「吸い込んだ?」
「香り。煙。香油。礼拝堂や儀式で使うようなもの」
ヴァルトの表情が動いた。
「王宮の香か」
やはり。
私はゆっくり頷いた。
「似ています。ただ、普通の礼拝香ではありません。白薔薇、蜜蝋、沈香。その下に、黒く焦げた何かがある。花というより……感情を焼いた匂い」
ギルが低く言った。
「でたらめを」
「ギル」
「しかし閣下、この女は」
「黙れと言った」
今度の声は少しだけ重かった。
ギルは口を閉じる。
ヴァルトは私から目を逸らさない。
「その呪いは、解けるか」
「分かりません」
「また正直だな」
「嘘をついて期待させる方が残酷です」
「それはそうだ」
彼は静かに息を吐いた。
その呼吸に、焦げた薔薇の香りがわずかに揺れる。
痛いはずだ。
眠れないだけではない。
胸を焼かれるような痛み。呼吸のしづらさ。たぶん、鐘の音や特定の香りで発作のように悪化する。
「十年ほど前、とおっしゃいましたね」
「ああ」
「前王妃陛下の葬儀の頃ですか」
護衛の一人が、今度こそ息を呑んだ。
ヴァルトの目が細くなる。
「なぜそれを」
「同じ匂いを、私は前王妃陛下の葬儀で嗅いだことがあります」
嘘ではない。
でも、すべてではない。
祖母の日記のことはまだ話さない。
この人が味方かどうかは分からない。
ただ、彼の呪いは王宮に繋がっている。
そして王宮の焦げた薔薇は、私の婚約破棄にも繋がっている。
ヴァルトはしばらく黙っていた。
店の外の通りも静かだった。
ネリでさえ、今は声を出さない。
「私は」
ヴァルトが口を開いた。
「十年前、前王妃の葬儀に出た。その夜から眠れなくなった」
私は息を止めた。
「礼拝堂で香が焚かれていた。白い花が多すぎて、息が詰まったのを覚えている。その後、夢を見るようになった。燃える薔薇の夢だ」
「医師には何と」
「戦場の後遺症。あるいは神経の疲れだと」
「聖職者は?」
「祈りが足りないと」
「ひどい」
思わず出た。
ヴァルトが私を見る。
「ひどい、か」
「眠れない人に祈りが足りないと言うのは、料理を焦がした鍋に向かって信仰心が足りないと言うようなものです」
ギルが変な顔をした。
ヴァルトも、今度は確かに少し笑った。
「鍋」
「例えが不適切でしたか」
「いや。初めて言われた」
「でしょうね」
私は調香台へ戻り、使えそうな香料を探した。
ミナに作った眠りの香では弱すぎる。
ヴァルトに必要なのは、眠りを誘う香りではなく、呪いの焦げた根を一時的に包み込んで、呼吸を通す香り。
白樹皮。銀葉。沈静作用のある月眠草。そこに、焦げた薔薇に対抗するための冷たい香り。雪薄荷があればよかったが、棚にはない。代わりに、古い氷花石の粉が少しだけ残っていた。
高価なものだ。
祖母は、なぜこんなものを残していたのだろう。
「試作品になります」
私は言った。
「今夜、枕元で焚いてください。直接吸い込みすぎないこと。発作が出たらすぐ消してください。眠れる保証はありません。ただ、胸の焼ける感じは少し和らぐかもしれません」
「代金は」
現実的な言葉が出てきて、私は少し安心した。
公爵も支払いの話をするのか。
当たり前だが。
「試作品ですので、効果を確認してから」
「先に払う」
「では、香料代だけ」
私がそう言うと、ヴァルトは護衛に視線をやった。
ギルが革袋を取り出す。
中身の音が重い。
嫌な予感がした。
ギルは調香台の上に金貨を三枚置いた。
私は見つめた。
金貨三枚。
この店の屋根どころか、壁も床もそこそこ直せる。
「多すぎます」
ヴァルトが言う。
「足りないか」
「逆です」
「そうか」
「そうか、ではなく。これは試作品の代金ではありません」
「では、口止め料も含める」
「口止め料」
「私が呪われていると王都に広まると面倒だ」
「それは確かに」
「だから受け取れ」
「お断りします」
ギルがまた目を剥いた。
「お前、閣下の金を断るのか」
「必要以上のお金は、後で面倒な匂いがします」
「何だそれは」
「借りと依存と、たまに支配の匂いです」
ヴァルトは黙って私を見ていた。
「私は昨日、家を出たばかりです。誰かに所有される形で助けられるのは、しばらく遠慮したいのです」
言ってから、しまったと思った。
初対面の公爵に話すことではなかった。
けれど、ヴァルトはからかわなかった。詮索もしなかった。
ただ、金貨を一枚だけ残し、二枚をギルに戻させた。
「これで足りるか」
「多いですが、口止め料込みなら」
「そうか」
「ただし、口止め料をいただく以上、こちらからも条件があります」
ギルが苛立った声を出す。
「まだあるのか」
「はい。効果があったかどうか、必ず知らせてください。眠れたか。夢を見たか。胸の痛みはどうか。香りに違和感はあったか。私は情報が欲しいのです」
ヴァルトは少しだけ首を傾げた。
「商売というより、診察だな」
「私は医師ではありません」
「だが、医師より役に立ちそうだ」
褒められたのだろうか。
たぶん。
でも言い方が硬い。
「ヴァルト様」
「何だ」
「褒め言葉が下手ですね」
ギルが咳き込んだ。
もう一人の護衛が、横を向いて肩を震わせている。
ヴァルト本人は、いたって真面目な顔だった。
「そうか」
「はい」
「では、どう言えばいい」
今度は私が困った。
「ええと……『助かる』くらいでよろしいのでは」
「助かる」
「はい」
「君がいて、助かる」
まっすぐ言われて、私は言葉に詰まった。
なぜだろう。
ただの言い直しのはずなのに、胸のあたりが変なふうに鳴った。
王宮で浴びたどの美辞麗句より、その不器用な一言の方が、ずっと匂いが少なかった。
嘘がない。
「……それで十分です」
私は小さな黒い瓶に香を詰め、封をした。
「今夜、試してください」
ヴァルトは瓶を受け取った。
その指が一瞬、私の指先に触れる。
冷たい。
けれど、その奥に焼けるような熱がある。
呪いが強い。
放っておけば、いずれ命を削る。
私は思わず言った。
「あまり長くは、待てないかもしれません」
ヴァルトが私を見る。
「何が」
「あなたの呪いです。眠れないだけでは済まなくなる」
ギルの顔色が変わった。
ヴァルトは静かだった。
まるで、もう知っていたように。
「どれくらいだ」
「分かりません。でも、焦げた薔薇の匂いが深すぎる。体の中で根を張っています」
「根か」
「はい」
「なら、抜けばいい」
「簡単に言いますね」
「難しいのか」
「とても」
「なら、君を雇う」
私は固まった。
今、何と。
「私を?」
「ああ」
「雇う?」
「私の呪いを嗅ぎ分けてくれ」
店内が静かになる。
ネリが外で「おやまあ」と呟いた。
聞こえている。
とても聞こえている。
私は黒い小瓶を持つヴァルトを見た。
冷血公爵。
王国北方の盾。
十年眠れない男。
焦げた薔薇の呪いを体内に抱えた人。
そしておそらく、私が王宮の腐臭を暴くために必要な手がかり。
けれど。
昨日、私は家を出たばかりだ。
父の娘でも、王太子の婚約者でも、妹の姉でもない自分として生きると決めたばかりだ。
誰かに雇われる。
誰かの屋敷に入る。
誰かの都合で動く。
その響きだけで、胸の奥が少し硬くなる。
「お断りします」
ギルが「は?」と声を漏らした。
ヴァルトの眉が少し動く。
「理由は」
「私は、昨日から店主になりました」
「兼任すればいい」
「簡単に言いますね」
「難しいのか」
「とても」
さっきの会話が返ってきた。
ヴァルトが、わずかに口元を動かす。
今度は、少し楽しんでいるように見えた。
「私はもう、誰かの所有物にはなりません」
私ははっきりと言った。
「王太子の婚約者だった時も、公爵家の娘だった時も、私はずっと誰かの肩書きの中にいました。だから、今はこの店の店主として立ちたいのです」
ヴァルトはしばらく黙った。
護衛たちも黙っている。
私は断ったことを後悔しかけた。
金貨一枚を返した方がいいかもしれない。あるいは、今すぐ斬られることはないにしても、貴族の怒りを買うのは賢くない。
けれど、ヴァルトから怒りの匂いはしなかった。
代わりに、考えている匂いがした。
静かな雪の下で、水が流れるような。
「分かった」
彼は言った。
「では、店主として契約してくれ」
今度は私が瞬きした。
「店主として?」
「ああ。私は客だ。君は店主。私の呪いについて、必要な時に香を作り、必要なことを調べる。店を閉める必要はない。屋敷に来る必要も、今はない」
「今は」
「必要になれば相談する」
「相談」
「命令ではない」
その言葉に、私は少しだけ息を吐いた。
命令ではない。
相談。
この人は言葉が少ないが、こちらが嫌がるところは見ている。
「考えさせてください」
「いつまで」
「まずは今夜の結果を見てから」
「合理的だ」
「意外ですか」
「いや」
ヴァルトは立ち上がった。
木箱が、少し悲鳴のような音を立てた。
私は思わず木箱を見た。
「壊れなくてよかったです」
「壊れたら弁償する」
「木箱をですか」
「ああ」
「公爵様が木箱の弁償を」
「不満か」
「いえ。少し面白いだけです」
ギルが今度こそ額を押さえた。
ヴァルトは黒い瓶を外套の内側へしまう。
そして店を出る直前、振り返った。
「リリアーナ」
名前を呼ばれた。
なぜ彼が私の名を知っているのか、一瞬遅れて理解する。
王都中に広まっているのだ。
婚約破棄された令嬢の名として。
胸がちくりとした。
けれど、ヴァルトの声に嘲りはなかった。
「はい」
「君の鼻は、気味悪くない」
息が止まった。
彼はそれだけ言って、店を出て行った。
護衛たちが続く。
黒い馬車が動き出し、通りの角を曲がって消えるまで、私は扉の前に立っていた。
ネリが隣に来る。
「すごい客が来たね」
「はい」
「で、何て言われたんだい。最後」
私は答えようとして、喉が詰まった。
気味悪くない。
たったそれだけの言葉だ。
飾りもない。
慰めとしても、不器用すぎる。
けれど私は、昨日からずっと、その言葉を誰かに言ってほしかったのかもしれない。
私は誤魔化すように言った。
「木箱を弁償すると」
「そこじゃないね」
「そこも重要です」
「はいはい」
ネリは笑い、パン屋へ戻っていった。
私は店の中へ戻る。
調香台の上には、ヴァルトが置いていった金貨が一枚。
そして空気の中には、焦げた薔薇の残り香。
私は祖母の日記を開き、今日の記録を書き始めた。
『ヴァルト・レイゼン辺境公爵。十年前、前王妃葬儀後より不眠。焦げた薔薇の呪い。王宮礼拝香に関係あり。体内に根を張る。要観察』
そこまで書いて、少し迷った。
そして、最後に一行だけ足した。
『私の鼻を、気味悪くないと言った』
書いてから、急に恥ずかしくなって日記を閉じた。
夕方、ミナが店に来た。
眠れました、と泣きながら笑った。
料理長がいなくなりました、と何度も頭を下げた。
ネリが「泣くなら奥で泣きな」と言い、ミナはまた笑った。
その夜、夜明けの瓶には初めて、ほんの少しだけ温かな声が残った。
けれど閉店後。
私は調香台の前で、ヴァルトのために作った香りの余りを嗅ぎ直していた。
焦げた薔薇。
王宮礼拝香。
前王妃の葬儀。
祖母の日記。
冷血公爵の不眠。
線は、また一本増えた。
そして、たぶん。
その線の先には、王宮がある。
私は窓の外を見た。
王都の夜空の向こう、遠くに王宮の塔が見える。
美しく、白く、何も腐っていないような顔をして。
「香水をかけすぎなのよ」
私は小さく呟いた。
嘘にも、王宮にも。
そして、私自身の傷にも。
匂いは消えない。
隠しただけでは、いつか必ず立ちのぼる。
夜明けの瓶の傾いた看板が、夜風に揺れて、ぎい、と鳴った。
まるで、始めろと言われた気がした。




