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第5話 眠れない少女に渡した小瓶

 最初の客は、床に置いた木箱に座って、ずっと自分の靴先を見ていた。


 ミナ。


 年は十五か十六ほど。細い肩に、安物の灰色の外套。袖口は擦り切れていて、何度も縫い直した跡がある。髪は栗色だが、油と煙の匂いが染みついているせいで、少しくすんで見えた。


 彼女は、私が渡した水の入ったカップを両手で包んでいる。


 飲んではいない。


 ただ、温かくもない水を、まるで暖炉の火みたいに握りしめていた。


「……眠れないのは、いつから?」


 私はなるべく穏やかに尋ねた。


 とはいえ、自分の声が本当に穏やかだったかは分からない。人に優しく尋ねる練習など、あまりしてこなかった。公爵家では、私が何かを聞くと大抵「詰問している」と言われた。


 だから少しだけ、言葉を探した。


「答えたくないことは、答えなくていいわ」


 ミナは顔を上げた。


 大きな目だった。けれど、目の下に濃い影があるせいで、まるで夜だけがそこに溜まっているように見える。


「三月くらい、です」


「三月?」


「たぶん……ちゃんと覚えてなくて。最初は、寝つきが悪いだけだったんです。でも最近は、寝てもすぐ起きちゃって。物音がすると、心臓がばくばくして……朝になると、体は起きてるのに、頭の中がずっと布をかぶったみたいで」


 言いながら、ミナはカップを持つ指に力を込めた。


 爪が短い。


 短く切っているというより、割れて、欠けて、残った部分だけを整えたような指先だ。


 火傷の跡がいくつもある。新しいものも、古いものも。


「医師には?」


「行けません」


 すぐに返ってきた。


 そして、その早さに自分で驚いたように、ミナは慌てて言い直す。


「あの、行かなくても大丈夫っていうか、そんな大げさなことじゃなくて……眠れないだけですし、私より大変な人はたくさんいますし、お医者様なんて、その、私みたいなのが行くところじゃ」


「ミナ」


「はいっ」


「今、誰の言葉を喋っているの?」


 ミナの唇が止まった。


 部屋の奥で、古い梁がきしんだ。


 私は調香台に置いた祖母の日記へ視線をやりかけて、やめた。今見るべきなのは日記ではなく、この子だ。


 ミナの袖口からは、相変わらず酒と焦げた油の匂いがする。


 それだけなら、厨房仕事をしているのだろうと思った。


 けれど、その奥にある匂いがよくない。


 身を縮める人間の匂い。


 怒鳴られる前に肩をすくめる癖がついた人の、硬い匂い。


 自分が悪いと思い込まされている人の、湿った布みたいな匂い。


 私はゆっくり言った。


「あなた自身は、本当に大げさではないと思っている?」


 ミナは答えなかった。


 カップの水面が、小さく震えている。


「……奥様が」


「うん」


「奥様は、お優しいんです。私みたいな子を雇ってくださって。だから、あの、文句を言うつもりはなくて」


「うん」


「でも、料理長が」


 そこで声が止まった。


 喉の奥で、言葉が引っかかったようだった。


 私は急かさなかった。


 急かすのは簡単だ。


 何があったの。誰に何をされたの。ちゃんと言いなさい。黙っていては分からないでしょう。


 私も何度も言われた。


 でも、言えない時には、言えない理由がある。


 言葉にした瞬間、それが本当になってしまうことを、人は怖がる。


 ミナは長い沈黙のあと、ぽつりと言った。


「夜中に、起こされるんです」


「誰に?」


「料理長に。仕込みが遅い、床が汚い、鍋の磨き方が悪いって。私、下働きだから、言われたことはしなきゃいけなくて。でも、夜に呼ばれる時は、たいてい料理長がお酒を飲んでいて」


 ミナはカップを見つめたまま、声を小さくした。


「怒鳴るんです。近いところで。耳のすぐそばで。鍋を投げたり、壁を叩いたり。私が震えると、もっと怒るんです。『泣くな、気味が悪い』って。泣いてないのに。泣く前に怒られるから、泣けなくて」


 気味が悪い。


 その言葉に、胸の奥がちくりとした。


 私は膝の上で手を組んだ。


「あなたの奥様は、それを知っているの?」


「知りません」


「本当に?」


 ミナは苦しそうに眉を寄せた。


「たぶん……知りません。料理長は、奥様の前では立派なんです。すごく丁寧で、お料理も上手で。奥様は体が弱くて、厨房まであまり来ないから」


「あなたは話した?」


「言えません」


「どうして」


「だって」


 ミナは初めて、私を見た。


 その目には、疑問ではなく恐怖があった。


「だって、私が悪いかもしれないじゃないですか」


 私は黙った。


 ミナは一度口にしてしまうと、止まらなくなったようだった。


「私、よく失敗するんです。手も遅いし、物覚えも悪いし、すぐびくびくするし。料理長が怒るのは、私がちゃんとできないからで。奥様に言ったら、料理長が困るし。私、雇ってもらえなくなったら行くところがないし。だから、眠れる香水があれば、それでいいんです。眠れれば、もっとちゃんと働けると思うので」


 息が詰まった。


 ミナの言葉は、どこか私の言葉に似ていた。


 私が我慢すればいい。

 私が黙ればいい。

 私が可愛げを出せばいい。

 私が傷つかないふりをすれば、皆が困らずに済む。


 人は、違う場所で、違う服を着ていても、似た檻に入れられることがあるのだ。


「ミナ」


 私はなるべく静かに言った。


「眠れる香りは作れるわ」


 ミナの顔が少し明るくなる。


「本当ですか」


「ええ。でも、それだけでは足りない」


 明るくなりかけた顔が、また曇った。


「あの、お金なら、これだけしか……」


 彼女は慌てて銅貨を差し出した。


 五枚。


 薄く擦り減った銅貨だ。手の汗と金属の匂いがする。


 私はそれを見て、少し考えた。


 受け取らないのは簡単だ。


 可哀想だからいらない、と言えば、私は優しい店主になれるのかもしれない。


 でも、たぶん違う。


 ミナは客として来た。


 施しを受けに来たのではない。


「一枚だけ、いただくわ」


「え、でも」


「残りは持っていて。帰りにパンを買いなさい。向かいのネリさんのパンは、床に落ちてもおいしいから」


 ミナがきょとんとした。


「床に……?」


「私の今日の昼食です」


「えっ」


「誤解しないで。床で売っているわけではないわ。投げ込まれただけ」


「よ、よく分からないです」


「私もまだ、この町の作法を学んでいるところよ」


 ミナは少しだけ笑った。


 さっきよりも、ほんの少し呼吸が楽そうに見える。


 私は銅貨を一枚受け取り、調香台の前に立った。


 祖母の棚を開ける。


 古い香料ばかりだが、使えるものもある。乾燥した月眠草。白樹皮。銀葉。琥珀樹脂。瓶の中に少しだけ残った薄紫の精油。


 私は一つずつ蓋を開け、香りを確かめる。


 祖母の手順を思い出す。


 香りは、足し算ではない。

 人の心に触れるものだから、強ければいいわけではない。

 眠らせる香りは、殴って意識を落とすものではなく、固く結ばれた紐を少しずつ解くもの。


「眠れない人には、甘い香りを強くすればいいわけではないの」


 私は無意識に声に出していた。


 ミナが、木箱の上で姿勢を正す。


「そうなんですか?」


「ええ。甘すぎると、夢が重くなる。優しすぎる香りも駄目。かえって、自分が惨めになる時があるから」


「香りって、そんなに色々あるんですね」


「人間が面倒だから、香りも面倒なのよ」


 私がそう言うと、ミナは小さく吹き出した。


 よかった。


 この子は、笑える。


 まだ。


 私は月眠草を少量、白樹皮をさらに少なく、銀葉を一枚だけ乳鉢に入れた。すり潰すと、草の青さと、夜露のような冷たい香りが立ち上る。


 そこに琥珀樹脂をほんの少し。


 祖母の日記には、眠りの香に琥珀を使いすぎてはいけないとあった。記憶が重く沈み、朝になっても起き上がれなくなるからだ。


 では、ミナには何が必要か。


 眠るための香りだけでは足りない。


 夜中に怒鳴られた記憶が、彼女の体に染みついている。物音がするたび、また呼ばれると思って目が覚めるのだ。


 必要なのは、安心の匂い。


 でも、家の匂いではない。


 彼女にとって、働き先は安心できる場所ではないから。


 私は少し迷ってから、昼に食べたパンの包み紙を手に取った。


 粉の香り。焼いた小麦。ほんの少し焦げた耳。


 ネリさんの店の匂いだ。


 私はそれを直接混ぜるわけではなく、同じような温かさを持つ香料を探した。棚の奥に、干した蜂蜜花が少しだけ残っている。甘すぎない。火を通したような丸い香り。


「ミナ」


「はい」


「眠る前、嫌いではない匂いを何か思い出せる?」


「嫌いじゃない匂い、ですか」


「好きな匂い、じゃなくてもいいわ。少しだけ息が楽になるもの」


 ミナは眉を寄せて考えた。


 しばらく沈黙が続く。


「……洗濯物」


「洗濯物?」


「晴れた日に干した布の匂いです。昔、母が生きてた時、よくシーツを外に干していて。取り込むのを手伝うと、顔にばさって当たって、ちょっと苦しかったけど、あの匂いは好きでした」


 その瞬間、ミナの匂いが変わった。


 恐怖の硬さが、ほんの少しだけほどける。


 私は頷いた。


「それを入れましょう」


「入れられるんですか?」


「完全には無理。でも、近づけることはできるわ」


 白樹皮を少し増やす。乾いた布のような清潔な香り。そこに銀葉を薄く重ねる。雨ではなく、晴れた午後の風に近づけるため、柑橘皮を削ってほんの一粒。


 乳鉢の中で香りが変わっていく。


 静かな夜。

 乾いた布。

 遠くのパン。

 誰も怒鳴らない部屋。


 私は小さな青い瓶を選び、精油を移した。


「これは、香水というより眠りの香ね。手首につけるのではなく、布に一滴垂らして枕元に置いて。直接肌につけすぎると、朝だるくなるかもしれない」


 ミナは両手で瓶を受け取った。


 小さな瓶だ。


 でも彼女は、宝石でも渡されたような顔をした。


「あの、本当に一枚でいいんですか」


「開店記念価格よ」


「でも、お店、まだ開店してないって」


「だから記念することが少なくて安いの」


 ミナは困ったように笑った。


 そして瓶を胸元に抱えた。


 その姿を見て、私は少しだけ息を吐いた。


 ここで終わりにしてはいけない。


 祖母ならどうしただろう。


 たぶん、私よりずっと上手くやっただろう。もっと自然に、もっと乱暴に、もっと優しく。


 でも、私は私のやり方でやるしかない。


「ミナ。あなたの勤め先の奥様の名前を教えて」


 ミナの体が強張った。


「え」


「責めに行くわけではないわ」


「で、でも」


「料理長の名前も」


「駄目です」


 ミナは強く言った。


 初めての強い声だった。


「駄目です。そんなことしたら、私、もっと怒られます。奥様に言ったら、料理長は絶対、私のせいだって分かります。そしたら……そしたら」


 瓶を握る手が震えている。


 私は調香台の縁に指を置いた。


「私が直接言うわけではない」


「でも」


「あなたの名前も出さない」


「どうやって?」


「香りで」


 ミナは不安そうに私を見る。


 それはそうだろう。


 香りで、と言われて安心できる人間は少ない。私自身、言いながら少し怪しいと思う。


 けれど、できる。


 伯爵夫人が本当に何も知らないのなら、知らせる必要がある。


 料理長が奥様の前でだけ立派に振る舞っているのなら、言葉より先に、厨房の裏の匂いを届ければいい。


「奥様は、料理長を信頼しているのね」


「はい」


「料理長は、どんな酒を飲む?」


 ミナは戸惑いながら答えた。


「安い赤葡萄酒です。料理用のを、こっそり」


「怒鳴る時に投げるものは?」


「鍋とか、木べらとか……あと、玉ねぎの皮が入った桶を蹴ったことがあります」


「厨房の床は?」


「いつも油で滑ります。料理長が、夜に片づけろって言うんですけど、朝にはまた汚れていて。奥様が来る前だけ、みんなで磨いて」


「なるほど」


 私は別の紙を取り出した。


 祖母の棚に残っていた、厚手の香り文用の紙だ。文字を書くための便箋ではなく、香りを含ませて封を開けた相手に印象を届けるためのもの。


 表面には、夜明けの瓶の小さな刻印が入っている。


 私はそこに直接的な告発文を書かない。


 それでは揉み消される。


 必要なのは、奥様自身に「おかしい」と思わせること。


 私は香りを作った。


 安い赤葡萄酒の酸えた匂い。焦げた油。濡れた灰。玉ねぎの皮。怯えた汗。火傷した皮膚の微かな苦味。


 それらをそのまま混ぜれば、ただの悪臭になる。


 だから、封を開けた最初だけ、伯爵家の厨房に使われているであろう香草の匂いを乗せる。奥様が馴染みのある香りとして受け取るように。


 そのあとで、ゆっくりと裏の匂いが出るようにした。


 嘘の下に隠された、厨房の夜の匂い。


 ミナは青ざめた顔で見ていた。


「あの、それ、何ですか」


「お手紙」


「手紙って、そんな匂いでしたっけ」


「普通は違うわね」


「ですよね」


 私は短く文章を書いた。


『奥様の厨房に、夜だけ違う香りがございます。眠れぬ者の袖口を、お確かめください。夜明けの瓶』


 それだけ。


 名前は書かない。


 料理長とも書かない。


 ミナとも書かない。


 でも、奥様に少しでも心当たりがあれば、分かるはずだ。


「本当に、大丈夫でしょうか」


 ミナが不安げに言う。


「分からない」


「えっ」


「絶対に大丈夫とは言えないわ」


 私が正直に言うと、ミナは目を丸くした。


 私は封蝋を温めながら続けた。


「でも、あなたがこのまま眠れない夜を重ねることは、大丈夫ではない。それは分かる」


「……」


「私も失敗するかもしれない。あなたの奥様が気づかないかもしれない。料理長がうまく逃げるかもしれない。けれど、何もしなければ、何も変わらない」


 言いながら、自分にも言っている気がした。


 王宮の焦げた薔薇。

 祖母の日記。

 クラリモンド夫人。

 家を出たこと。


 全部、何もしなければ、そのまま瓶の底に沈んで腐るだけだ。


「ミナ」


 私は封を閉じた。


「あなたは、悪くないわ」


 ミナの顔が歪んだ。


「でも」


「仕事で失敗したら、教えればいい。遅いなら、やり方を見せればいい。叱ることと、壊すことは違う」


「……私、壊れてますか」


「まだ」


 私は少し迷ってから、言葉を選んだ。


「でも、このままだと壊れる。私は、壊れる前に来てくれてよかったと思っている」


 ミナは泣いた。


 声は出さなかった。


 ただ、目から涙がぼろぼろ落ちて、手の中の青い小瓶に当たった。


「ごめんなさい」


「謝るところではないわ」


「だって、お店、汚れる」


「今さら涙くらいで変わらないわ。埃の方がずっと強い」


 ミナは泣きながら、少し笑った。


 私は自分のハンカチを差し出そうとして、手を止めた。


 昨夜の夜会で使ったものだ。王宮の香りがまだ残っている。


 代わりに、ネリさんから借りた清潔な布巾を差し出した。


「これでよければ」


「布巾……」


「今、この店で一番信用できる布です」


 ミナは受け取り、涙を拭いた。


 夕暮れはすっかり濃くなっていた。


 私は香り文を封筒に入れ、ネリさんに配達を頼めないかと考えた。王都の端から伯爵家まで届けるには、人を雇う必要がある。お金がかかる。けれど、これは必要な出費だ。


 その時、外からネリの声がした。


「おーい、新店主。夕方の売れ残りいるかい?」


 私は扉を開けた。


 ネリは籠を抱えて立っていた。中には、少し硬くなった丸パンがいくつか入っている。


「売れ残りと言いつつ、買えということですね」


「商売だからね」


「では一つ」


「一つで足りる顔じゃないよ。二つ買いな」


「押し売りですか」


「助言だよ」


 ネリはそこで、店内のミナに気づいた。


 目が細くなる。


「その子、どうしたの」


「お客様です」


「客が泣いてる店は評判悪くなるよ」


「では、笑って帰っていただく努力をします」


「ふうん」


 ネリは何かを察したように、余計なことは聞かなかった。


 それがありがたかった。


「ネリさん、ひとつお願いがあります」


「パンの値引き以外なら聞くだけ聞く」


「この香り文を、伯爵家へ届けたいのです。人を頼めるでしょうか」


 ネリは封筒を見た。


「急ぎ?」


「できれば今日中に」


「金は?」


「払います」


「なら、うちの甥を走らせる。足だけは速い。頭は遅いけど」


「伯爵家で中身を見たりは」


「うちの甥は文字を見ると眠くなるから大丈夫」


「信用していいのでしょうか」


「そこそこ」


 そこそこ。


 王宮の完璧な嘘より、東区のそこそこの方が信用できる気がした。


 私は配達料を渡し、香り文を託した。


 ネリは封筒を鼻に近づけかけて、顔をしかめた。


「何これ。嫌な匂いだね」


「夜の厨房の匂いです」


「なるほど。ろくでもないね」


 ネリはそれだけ言って、さっさと甥を呼びに行った。


 ミナはしばらく不安そうにしていたが、青い小瓶を見下ろし、ぽつりと言った。


「私、今日、眠れるでしょうか」


「分からないわ」


 私はまた正直に答えた。


 ミナが少しだけ笑う。


「店主さん、けっこう正直ですね」


「香水店ですから」


「香水店って、正直なんですか?」


「少なくとも、この店はそうする予定」


「予定ばっかりですね」


「開店準備中だから」


 ミナは今度、ちゃんと笑った。


 弱いけれど、確かに。


 私はその笑いを見て、ようやく少し息をつけた。


 ミナが帰った後、店の中は急に静かになった。


 私は調香台に戻り、祖母の日記を開いた。


 今日作った香りの配合を、空いているページに書き留める。


『眠りの香。ミナ。月眠草、白樹皮、銀葉、蜂蜜花、柑橘皮。晴れた日の洗濯物に近づける』


 その下に、少し迷ってから書いた。


『最初の客。私は、少しだけ役に立てたかもしれない』


 書いた瞬間、胸が熱くなった。


 役に立てた。


 王太子妃としてではなく。

 公爵家の娘としてでもなく。

 妹の引き立て役でもなく。


 匂いを嗅ぐことしかできない私が、その鼻で誰かの夜を少しだけ軽くできた。


 それは、とても小さなことだ。


 王宮の陰謀を暴いたわけでもない。祖母の死の真相に近づいたわけでもない。私を捨てた人々を見返したわけでもない。


 でも、私には十分すぎる始まりだった。


 その夜。


 私は店の奥で、外套を毛布代わりにして眠ろうとした。


 天井の隙間から、風が細く入ってくる。


 屋根は本当に雨漏りしそうだ。


 床は硬い。


 蜘蛛はまだ同居を主張している。


 公爵家の寝台とは比べものにならない。


 なのに、不思議と息苦しくなかった。


 眠りに落ちる直前、扉の外で足音がした気がした。


 客ではない。


 通行人でもない。


 誰かが、店の前で立ち止まった。


 私は目を開ける。


 空気の中に、かすかな香りが混じっていた。


 高価な革。

 冷たい鉄。

 そして、まだ遠いけれど、焦げた薔薇に似た何か。


 私は起き上がった。


 扉の向こうには、誰もいない。


 ただ、夜の通りに黒い馬車の車輪跡が残っていた。


 王宮のものではない。


 けれど、貴族の馬車だ。


 私は小さな青い瓶の残り香が漂う店内で、静かに呟いた。


「……今度は、どなたの嘘かしら」


 夜明けの瓶は、まだ看板も傾いたままの、埃だらけの小さな店だ。


 けれど、その夜から確かに、王都の秘密がひとつずつ、この店の扉を叩き始めた。


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